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彼女のコトバ


 かをりの口から「ノーザン・ライト」という言葉が発せられた。

 私は自分の耳が信じられなかった。《《あり得ないこと》》だったから。

 NLウイルスの症例が最初に確認されたのは二〇〇〇年。今私がいるSJWは現実世界で言えば一九九三年。NLが存在するわけがない。


 これまでかをりにNLの話をしたことはない。他の者に対して口外したことも一切ない。

 もしかしたら、かをりが口にした「ノーザン・ライト」はNLウイルスとは別のものを指しているのかもしれない。ただ、「憎い」とか「殺してやる」といった言葉により敵意をあらわにしたことを考えれば、NLウイルスを指している可能性が高い。


「深見くん、どうかしましたか?」


 私の異変を感じとったのか、十文字先生が心配そうな顔をする。


「普段と違う岡安さんを見て不安になるのはわかります。しかし、これはあくまで想定の範囲内です。彼女の安全は僕が保証します。それから、彼女の苦しみは決して無駄にはしません。必ず治療の手掛かりを見つけてみせますよ」


 いつもながら十文字先生のフォローは適切だった。言葉を掛けられた瞬間、気持ちがとても楽になった。


「僕の持論ですが、医師は、常に患者の気持ちを理解して治療に当たることが大切です」


 再び十文字先生の目が鋭さを増す。


「患者には『愛情』をもって接しなければいけません。しかし、時として『非情』に徹することも必要です。愛情と非情――二つは相反するものですが、医師が治療をするうえではどちらも重要なファクターです。なぜなら、医師は一つでも多くの命を救う義務があるからです。

 ある妊婦さんがいたとします。彼女は身体が弱く正常な分娩が難しい状態にあります。しかも、お腹の中にいる赤ちゃんの発育もよろしくない。そんなとき、突然陣痛が始まってしまった。

 母子ともに助けようとすれば、どちらの命も危険にさらすことになる。初めからどちらか一方の命を救おうと思えば、一人の命は救うことができる。そんなとき、医師は決断を迫られます。言い換えれば、一つでも多くの命を救うために、非情な選択をしなければなりません。

 もちろん、その前提として『冷静』であることが必要です。自分を見失ってはいけません。『どんなときも冷静であれ。そして、愛情を持って非情であれ』。僕がいつも自分に言い聞かせている言葉です」


 十文字先生は淡々と話しているが、その言葉はとても重い。

 私たち医師は常に世界で一番重い物を背負っている。それは言わずと知れた「人の命」。私たちの手の中にあるときのそれはとてもはかない。

 九十九パーセント大丈夫な状態でも百パーセントに達するまでは何が起きるかわからない。選択を誤れば、ともしびは、隙間風すきまかぜに煽られたロウソクの炎のように消えてしまう。

 実際そんな状況に出くわしたこともある。やり場のない怒りがこみ上げ、深い悲しみと絶望が重く圧し掛かる。その感覚はしばらく消えることがない。

 選択ミスはすべて医療ミスではない。最善の策を施した結果であって法廷で裁かれるものではない。しかし、後になって「あのとき、別の手法を選択していれば結果は変わっていたのでは?」と何度も自問自答することがある。


 冷静で非情になること――それは、機械的な対応をするコンピューターに近づくことを意味するのかもしれない。ただ、愛情を持って接するというのは、意思を持たないコンピューターには無理な話だ。

 SJWのキャラクターはコンピューターが制御していながら、AIにより独自の人格や感情を持ち合わせている。そういう意味では、目の前にいる十文字先生の言葉は、現実世界にいる、オリジナルの彼が発するそれ以上に説得力が感じられる。


★★


 私はかをりの様子を固唾かたずを飲んで見守った。

 しばらくすると、叫び声が収まり表情も穏やかなものへと変わっていく。

 私は安堵あんどの胸を撫で下ろした――が、そんな安堵感は五秒後には消えてなくなる。代わって、背筋が凍りつくような戦慄せんりつを覚えた。


 かをりの両目がカッと見開いた。その瞳には一点の光すら宿っていない。

 焦点を失った、虚ろな眼差しがくうを見つめる。喜怒哀楽といった感情が微塵も感じられない。恐れや悲しみといった負の感情もあるだけマシだと思った。

 人にあって人にあらずの状態。感情が消え失せた、人の抜け殻。人に似せて作られた、ただの人形――次から次へと悲しい形容が浮かぶ。


 息が詰まりそうな重い時間が流れていく。

 見ているのがとても辛い。検査を中断すれば、いつものかをりに戻るだろう。しかし、それでは何の解決にもならない。


 私が目の当たりにしているものこそ、これまでかをりが独りで背負ってきた、悪しき現実。私にはそれをしっかりと見届け、取り除く義務がある。

 十文字先生は、報告書と機器を交互に見ながら、四人のスタッフに慌ただしく指示を送る。


 しばらくすると、かをりの目がゆっくりと閉じる。

 とてつもなく長く感じられた時間だったが、実際は三分も経っていない。

 かをりは安らかに眠っているように見えた。言い換えれば、人間らしい表情を取り戻していた。


 緊張感が解けて身体中の力が抜けていく。

 かをりの表情も穏やかで柔和なものへと変わっていた。不意に彼女の口から言葉が漏れる。


「深見くん……大好きだよ……幸せだよ」


 十文字先生は言った。「医師はどんなときも冷静であれ」と。

 しかし、私は冷静ではいられなかった。あふれる熱いものを抑えることができなかった。

 十文字先生が私の肩に軽く手を添える。


「そろそろタイムアップです。検査はここで終了します。深見くん、これからも彼女のことを頼みます。キミの協力があれば、きっと彼女の病気は良くなります」


 私は顔を上げることができず、黙って頷くのがやっとだった。



 つづく


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