やさしい死神 vs やさしい守護霊
草木も眠る、丑三つ時。
部屋には、静寂が張り詰めていた。男は少しの寝息も立てず、呼吸による胸の上下運動も目視できないほどに、まるで死んだように眠りの底に居た。
カーテンの隙間から洩れる光がぼんやりと部屋を照らす中――地面に張り付いた人影が、むくむくと立ち上がったような闇が、一つ――男の枕元に立っている。
俯き、男の寝顔を見つめていた影はしばらくすると、音もさせずにゆっくりと、背後より、棍状の物を取り出した。それはその身程に長く、所々太かったり細かったりして、歪に伸びている。
影が、それを握る手にぐっ、と力を込めると、その棍の頂点は、不可思議なギミックを露わにした。まるで蝙蝠が、たっぷり威厳を効かせて翼を広げたかのように。蟷螂が、必殺の一撃を叩き込むためにその腕を高く掲げたかのように。小さく、ミチミチという生物的な音を鳴らしながら、鈍色の刃が展開したのである。
それは、一振りすれば立つ人の、足首二つだけを地面に残して転ばせることができそうな、大きな、大きな、鎌だった。
影は両手でそれを握り直すと、それを、男の頭上で振り上げた。その姿は、罪人の首を刎ねる処刑人、今にも落ちそうなギロチンを彷彿とさせた。一番高い場所でピタリと身体を止めると、次の瞬間。影は躊躇無く、思い切ってそれを、振り落とした。
――部屋に響いたのは、肉と骨を斬る切断音ではなく。首が床を転がり、毛髪がフローリングに擦れるジャリジャリという音でもなかった。
人の耳には聴こえない――この世の物ではない物同士がぶつかり合う、高い、高い音だった。
音が、ゆっくり引いてゆき、影は、自らが全力でもって振り下ろした大鎌が、男の首の上で静止しているという光景を見た。その刃の中央部には、もう一本の刃が――男の首を刎ねるのを、阻止しているのが見えた。
そのもう一本の刃の持ち主を、辿るように視線を動かす。と、そこには、影と同種の存在が立って居た。
暗闇の中、立つ影であるところは変わらずとも、そのもう一人はその手に鎌ではなく、剣を持っている。片刃の、この日本古来より伝わる剣、それは、刀のように見えた。
『やめろ、死神』
刀を突き出し、鎌を止める者が言った。
『この男の守護霊か、貴様』
鎌を持つ影は唸るように言う。
二人は闇の中、お互いの刃を引っ込めると相対した。目を合わせることはなくとも、睨み合っていたのは確かだ。
『この男は、死ぬべきだ』
死神は言った。
『俺はこいつ程の悪人を見たことはない。三十人もの人を殺した! それも、女や子どもばかりを狙ってだ。恨みを晴らすためなんかではなく、生者の血の温かみ、それのみを求めている。新鮮な血で顔や身体を濡らすことを、喉を滑らせ、胃を満たすことを動機としている……! 真性の異常者だ! こいつは! ……人の悲しみや怒りを数値化することはできないが、それこそ計り知れない負の感情をこの世界に蔓延させている。俺は被害者を、被害者家族を見てきた。こいつのことも見張ってきたが、もう我慢がならない。こいつは俺の力を使ってでも、死ぬべきだ!』
『彼のことは、私の方がずっと見てきた』
守護霊は言った。『生まれてきてから、ずっとな』
『彼は裕福な家に育ったが、いつも二人の優秀な兄といつも比べられ、両親からは少しの愛情も注がれず、むしろ疎まれ、不憫な少年期を過ごした。同性、異性に関わらず友人たちは皆彼の財産目当てで近づき、彼自身のことをちゃんと見つめてくれるような人は一人だっていなかった。それでも彼は努力し、三浪しながらも大学の医学部に入り、両親や兄達のように医者への道を目指した』
男が人の血の感触、温かみに興奮を覚えるようになったのは、大学を卒業し、とある病院にて研修医として働いている時のことだった。
『彼は誰からも愛されなかった。欲した人の暖かみを、血に求めたのだ』
『だからなんだ! 同情の余地は無い!』
死神は跳び、鎌を薙いだ。
守護霊は刀を使い、それを受け止めると叫んだ。
『だから殺すと言うのか! 私刑は許さない! 彼だって生きている人間だぞ! 誰にだって彼の命を奪う権限は無い!』
『こいつはこれからも殺しをやめない! 一人殺されるごとに生まれる悲しみは、恐れはどれほどになる!』
死神は鎌を、刃付きの棍として扱い、守護霊を猛撃して追い詰める。
『そして、溜まった被害者家族の怒りはどうなる⁉︎』
『殺せば晴れるか?』
『生かしておくことは許せないのだ‼︎』
守護霊は身をかがめ、死神の懐に潜り込んで殴った。
長い鎌は中距離にて効果を発するが、近距離に来られるとその長さが仇となる。
『彼のような人間は、これからだって永遠に生まれ続けるぞ!』
守護霊が言う。
死神は距離をとるように、睨みを効かせながら後ろに数歩跳んだ。
『人は皆生まれてくる環境を選べない。どう足掻こうがどうすることもできない運命というものがある。生まれながらにして将来の決まっている人がいる。良い意味でも、悪い意味でもな!』
守護霊は叫びながら、今度は果敢に攻めた。
『彼が生まれてきたことを責めるのか⁉︎』
『そうじゃない! こいつは思いとどまるべきだった!』
『どうすることだってできたはずだ!』死神の鎌、刃のついていない方の頂点が、守護霊の側頭部を叩いた。
部屋は、藍色で満ちていた。
死神にしろ、守護霊にしろ。その存在感は、薄れつつあった。
『……俺は被害者の、被害者家族の代弁者だ』
死神が言った。
『俺は俺の正義で動くぞ。守護霊。俺は絶対に、こいつを許さない。俺が終わらせてやる。殺してやる』
『お前がどう動こうが勝手だが、私だけは決して彼を見捨てはしない』
守護霊が言った。
『人には誰しも、生きる権利がある。彼だってまだ生きている。人生の途中なのだ。未来があるのだ。私はそれをきっと護る。護ってみせる』
それが、私の正義だ。
二つの影が、藍色の中に、消えていった。
月が、落ちたのだ。