ツカサの事情
子供を寝かしつけた女性が、寝室の扉を閉める。
遊び疲れた子供の寝顔を思い出し、幸せを噛みしめる
母親、ミーティアは懐かしい気配を感じた。
それは遠く遠く、遙か過去に別れた同胞の気配。
―――トントン トントントン ―――
軽く響くノックの音。
彼女が気づくのを待って、鳴らされた音。
ミーティアの見つめる先に男がひとり、壁に寄りかかっていた。
「つまらんな、実につまらん。
夫婦円満な家庭、娘ひとり、慎ましくも幸せな日々。
―――ミーティア、まだ茶番をつづけるのか」
「エンディミオ・・・・なぜ此処に?」
「いい声だ。その名を知るのも、その名で呼ぶのも、もうおまえひとり。人間は我が名を知らぬ」
魔王、あるいは悪魔と人族は彼をそう呼んだ。
「なにをしにきたのです、待つと約束したでしょう」
「無論、我は約束を守る。守るつもりだった」
「ならばなぜ来たのです」
「決まっている。ミーティア、会いに来た」
「あなたは変わらない。ずっと、ずっと変わらないまま・・・・エンディミオ」
「変わらぬよ。おまえがその気にならねば、何もな」
「帰って、お願い、エンディミオ。もうしばらく、わたしをそっとしておいてください」
ミーティアの訴えに、エンディミオは首を振る。
「待ち続けるのも、ただ眠り続けるのも、もう無理なのだ―――ゆえに―――」
エンディミオの周囲に、無数の結晶が現れる。
「―――始めよう」
魔王エンディミオの宣言。
同時に、ミーティアの前にも薄紅色の結晶が現れる。
「それがなにかわかるな。久しく離れていても、おまえの欠片、おまえの力だ。これと思うものに与えよ」
「エンディミオっ」
「いやなら選ぶな。邪魔したいならば、好きにしろ。元々おまえが預けたおまえの力だ。おまえが決めろ」
「わたしは・・・・・この世界が好きです。この世界の中で生きていたいのです。あなたは違うのですか」
「我も好きだ。好きだからこそ、壊さねばならん。
ミーティア、それはおまえとて分かっているはずだ。分かっていて、いつまで其処にしがみつく。まやかしの世界、まやかしの命、ひとときの夢に、どれほどの価値がある?
われらは目覚めるべきなのだ。
ミーティア・・・、もう終わりにしよう」
エンディミオは―――。
ピタリとツカサのタイプ音が止まった。
「んー・・・・ふぅ・・・ダメっすー、なんか違うっすねー」
ツカサは煮詰まった思考を打ち切り、グッと背伸びをして、ノートパソコンの蓋を閉じた。
「リアル異世界探検記。驚天動地のワンダーランド・・・そして運命の出逢い・・・・・したかった・・・したかったすよ・・・・」
机に突っ伏したツカサの口からもれるのは、折れてしまったフラグのことばかり、それが気になって原稿に集中できないでいた。
トカゲに襲われた怖い経験も、いまではいい思い出になっている。
「絶対、ナツっす。まちがいないっす・・・・・・」
ツカサは異世界で出会った友達、一之瀬夏海の態度が不満だった。
夏海に連れられ雑踏の中に戻った時、当然説明してくれると信じていたツカサを放置して、ふたりは全力で逃げた。
そう逃げたのだ。
ふたりに見捨てられたツカサは、破れたスカートを上着で何とか隠し、バスに揺られて寮まで帰った。
その道中の出来事は、もう思い出したくない。
そして、ツカサはひとり朝霧寮の自室に籠もり、原稿を進めながらメールの返事を待っていた。
―――鳴らない携帯端末―――。
「・・・・間違いないっすよ・・・・」
―――連絡をくれない友達―――。
「・・・・ナツ・・・・」
―――鳴らない携帯端末―――。
冷たくなったコーヒーやつまみのチョコも完全完備のサイドテーブル。
其処に置かれた携帯電話は、ずっと沈黙したまま鳴らない。
ツカサの待ち人は何も言ってこない。
「・・うー・・メールのひとつぐらいよこしやがれっすよ・・・」
ツカサは携帯に手を伸ばす。
メールの返事は届いていない。ちゃんと電源が入っているか?メールが届いているのに気づかなかったか?
もう何度も繰り返したチェックを、途中でやめた。
「友達にもいえない事っすか・・・それとも・・・・」
言いかけた言葉を途中で飲み込み―――。
「楽しいこと独り占めは、ズルイっすよ・・・・・・」
―――――不平不満に置き換え、飲み干した。
「メールくれないなら覚悟するっす。絶対、絶対に全部白状させるっすよ・・・」
いくら睨みつけても携帯は鳴らない。
消灯まで、もう2時間もない。
諦めたツカサはもう一度原稿に向かうが、1文字も入力することなくノートパソコンの電源を落とした。
この日、この夜、待ち人からの連絡はなく、ツカサの携帯は最後まで鳴らなかった――――――。