九時を過ぎた宅配便
「もしもし――、ユキかい? おれだ」
「ケントね。もう、遅かったじゃない?」
「そうなんだよ。よりによって帰り際にだぜ、緊急ミーティングが入っちゃってさ……」
「それって、いいわけのつもりかしら?」
坂本佑貴子の冷めた声が流れてくる。
――と、実をいうと、ここまでは想定の範疇内なのだ。春日部健人は、この後を引き継ぐ時限爆弾のごときメッセージを発するために、再度下っ腹に力を込めた。
「すぐに連絡できなかったのは反省しているよ。あの――、ところでさ、ユキに聞いてもらいたいことができちゃって」
「えっ? ちょっと待って――。その先はいっちゃだめ。
まさか、『また』ってことじゃないでしょうね?」
こういうことに関するユキの直感の鋭さは計り知れない。
「実は、その『また』なんだよ」
「ええっ、『また』なの? うそ! この前もそうだったじゃない。もう、いいかげんにしてよね!」
「そんなこといったって、おれのせいじゃないんだから仕方ないだろう!」と、さすがのおれも語気を尖らせた。
ユキがいった『また』とは、先月あったあの出来事だ。たしかあれは、待ち合わせのカフェに向かう途中だった。品川駅で京急線の急行列車から降りたちょうどその時、突然ポケットの携帯が鳴り響く。上司からだった。二週間ぶりに取れた貴重な休暇――、こんな時にかかってくる上司からの電話といえば……。
その後、おれは急いでユキに詫びの電話をいれたのだが、ユキはその時はもうカフェに到着していて、注文を済ませたところだったらしい。なんとかその場は収めたものの、相当なしこりを残したことは否めない。
そして、名誉挽回を誓って三日前にようやく取り付けた明日のデートの予定も、先ほどの帰り際の緊急会議とやらで、あっさりチャラとなってしまったというわけだ。
「他に用がないなら、切っちゃうわよ!」
ユキが苛立つのも無理はない。考えてみればひと月前にも会えなかったわけだし、かれこれふた月は会っていないことになる。今回はさぞかし楽しみにしていたことだろう。
しかし、用がないなら切っちゃうわよ、とはちょっとばかり無愛想過ぎないか? 今度の件だって、別におれが悪いわけでもないし、おれはユキに会いたい一心で、仕事の合間をぬってデートの約束を取り付けただけで、たまたま二回続けて招かざる用件が入ってしまっただけなのだ。精神的にまだ子供とはいえ、さすがのユキもそのくらいの事情は察することができるだろう。
実をいうと、ユキとおれとは年が七つも違っている。はた目から見れば、恋人同士というよりも、どちらかといえば家庭教師の先生と生徒というあんばいだ。九州から上京したユキはまだ女学生。埼玉県の越谷に一人でアパート暮らしをしている。おれはというと職場の都合上、横浜市内に住んでいる。いうまでもなく一人でだ。すぐに手が届きそうで会うことができないこの遠距離交際は、考えようによっては、まあよく続いている方だといえなくもない。
ひょっとして、ユキに男ができたのではないだろうか? おれの脳裏に考えてはならない最悪のシナリオがふっと浮かんだ。そうか、きっとそうなんだ! そうでなければ、ふた月も会っていない恋人からの電話を、五分の会話もせずに切るわよ、なんて軽々しくいい出せるはずがない。無理しても何か取り留めのない話を持ち出して、会話を長引かせようとするのが当たり前だ。そういえばさっきの電話越しの声――、いつもより素っ気ない感じがしたぞ。まるで何か早く電話を切りたがっているような……。
はっ、まさか? 今、ユキの部屋にはまさに新しい恋人がいて、もはや疫病神と化したおれからの電話がかかってきたことで、ユキは逆切れしているのか? もしかすると、そいつにはおれの存在をひた隠していたのに、予期せぬこの電話にユキ自身パニックになっているのかもしれないぞ。
いや待て。この電話をかけることはあらかじめお互いに了解済みだ。いくらおっとり系のユキでもそいつを忘れていたなんてことはないだろう。
しかし、あの純真無垢なユキに限って、わずかふた月足らずで男を作ってしまうなんて……、世も末だ! でも考えてみれば、男なんてひょんなタイミングで、ふた月どころか、昨日できちゃっていてもおかしくないものだ。今の時代、こんな遠距離恋愛が一年続くことの方が珍しいかもしれない。ところで、わずかふた月足らずでそいつとの関係はどこまで進展しているのだろう? ユキのことだ。相手が強引であるとすると断るものも断れないだろう。ああ、なんてことだ……。
取り返しのつかないことをしたという後悔の念がおれの脳裏を駆け巡っていた。
「あーあ。せっかくケントのためにお料理を作っていたのにね」
「何を?」
「肉じゃが――」
そうだったのか……。
ユキはおれのために、単に料理を作っていただけだったんだ。なんて一途で可愛い女だろう。
「そいつは冷凍保存しておいてくれよ。近いうちに必ずいくから」
おれは心地よい安堵感に包まれていた。
「ところで、その緊急会議とやらって何なのよ? 本当に大事な会議なの?」
「ああ。それは太鼓判が押せる。緊急性を要するとても重要な一件だ」
「健気に待ち続ける恋人を裏切らなければならない一件って、いったい何なの?」
「その内容をここで話すわけにはいかないよ。重要機密なんだから……」
「あーら、別にいいのよ、新米刑事さん。よーくわかりました!」
またヒステリックになってきた感じがする。いよいよおれは焦ってきた。
「ちょっと待て。わかったよ――」
重要機密とはいっても、明日になれば全国に緊急報道される手筈になっている。今、ユキにこの内容を伝えても、外にばれなければ問題はなかろう……。
「それじゃあ詳しく説明するよ。今から二週間前のことだ。おれが勤務する南警察署の管轄内に井土ヶ谷という地区があるんだが、そこに住んでいた一人暮らしのOLが自宅で変死体となって発見された。首には両手で絞められた痕跡が残っていた。
そして先月の中旬にも、都内の世田谷区で女子大生の変死体が見つかっている。最初はこの二つの事件は全く別物だと思われていたのだが、調べているうちに妙な共通点が出て来たんだ……。
まず犯行の目的が一人暮らしの女性を狙った婦女暴行であること。犯行時刻が夜の十時過ぎであること。それからこの事件の最も異様な偏執病的な特徴が、犯人がわざと犯行の手がかりを現場に残しているということだ。二つの事件の現場には、〇〇社宅配便の受取書が落ちていて、ともに配達員の氏名欄に『川本』と苗字が記されている。さらに、それぞれの被害者の体内から同一人物の体液が検出されている。ユキも一人暮らしなんだから、気を付けなきゃだめだぞ」
ここまでいい終えたおれは、ひと息入れた。しかし、さっきからユキの反応がない。いきなり残忍凶悪な犯行を聞かされて、驚きのあまり声も出せないということだろうか? おれは慰めるように付け加えた。
「だいたい夜の九時を過ぎてから宅配便が来るなんて、それ自体をおかしいと思わなきゃだめなんだ。そこで軽々しくドアを開けちゃうから、事件に巻き込まれてしまうのさ。まあ、なんだな……。被害者たちには申し訳ないが、最近の若者は危険に対して鈍感だと思うよ。このおれがいうのもおかしな話だけどな。――おい、ユキ、聞いているのか?」
明らかにユキの反応が途絶えている。いったいどうしたというのだ?
「んっ、どうかしたの?」
ユキからの応答だ!
「どうもこうもないぜ。さっきからうんともすんともいってこないで」
「ごめんね。肉じゃがの火加減が気になって、途中で抜けていたのよ」
「いつからほったらかしにしたんだ?」
「そうね、ケントが、重要機密がなんとかっていったあたりだったかな?」
「あのなあ、その後で話したことが一番大事な話だったんだぞ」と、おれは大きくため息を吐いた。
その時だ――。
ユキの家の玄関からチャイムの音がするのが聞こえた。
「あら、誰か来たみたいよ。ちょっと、待っていてね――」
コトリと受話器が置かれる音がすると、テトテトと床を歩くユキの足音が響いてきた。アナウンサーのように明瞭で品のよいユキの澄んだ声が、耳元にかすかに聞こる。
『はい。わたしです。まあ、認め印ですか? どうしよう……。えっ、手書きのサインでいいんですか? 助かりますわ。じゃあ、ドア開けますね』
認め印……?
おれの脳裏に嫌な予感が走った。以前起こった二つの事件の場所は、井土ヶ谷と世田谷、そしてユキが住んでいるのが、――越谷だ。反射的におれは腕時計に目をやる。半年間の安月給をため込んでようやく購入した自慢の高級腕時計オリス・ウィリアムズが刻んでいる今の時刻は、正確に十時七分であった――。
「待て、ユキ――。ドアを開けちゃだめだ!」
いくら必死に叫べども、電話越しにおれの声がユキまで届くはずもない。その奮闘は、まるでウツボカズラの袋の中で今まさに落ち込んでいく一匹の蟻のように、空しくて惨めなあがきに過ぎなかった。
やがて、そこで起こった出来事の兆候を示すいくつかの物音が、受話器を通して、いやがおうにも次々と送信されてくる。ドアのチェーンが外される音、カチャリと鍵が回る音――、そして……。
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