第三章『分岐、最悪の選択』その2
※
昼食後……ヴェルナはテーブルに突っ伏し、皿洗いに勤しむイエルを眺めた。
「さっきから何を見ているのだ?」
「イエルの尻」
「ふむ、あれは良い尻だ」
ライカは平然と言い放ち、対面の席で読書を続ける。
「身の回りの世話をして貰うってのは、ちょっと感動するよな」
「そう言うものか?」
「マジで最高。孤児院の飯は量が少なくて不味かったし、自分で作る料理は味気ねえしさ」
まともな料理なんざ作れないけどな、と心の中で付け加える。
「ヴェルナも両親がいないのだったな」
「まあ、な」
「……私と一緒だな」
ライカは本に視線を落としたまま言った。
「母上は私が幼い頃に病で、父上も三年前に狂精霊と相打ちになった」
「復讐のために精霊騎士になりたいのか?」
「……私は何もできなかったのだ。そんな自分が嫌で、許せなくて。だから、私は精霊騎士になると決めた」
言いたいことはあった。
強くなっても無力な頃の自分から逃れられない。
自分を許せる日なんて来ない。
他にも思い浮かぶ言葉はあったが、その殆どをヴェルナは飲み込んだ。
「難儀なヤツだな」
「私もそう思う」
顔を見合わせて笑う。
間延びした沈黙の後、皿を洗い終えたイエルが振り向いた。
「ヴェルナ様、包帯を取り替えさせて頂きます」
「それくらい自分で」
イエルはヴェルナに歩み寄り、有無を言わさずに包帯を取り替えてしまった。
痛みを感じる暇もない早業だ。
「そこまでして貰うと申し訳ないんだけど」
「イエルは世話好きなのだ」
「下の世話までされかねないな」
「ヴェルナ様が望まれるのでしたら、そちらの方も行いますが?」
何処まで本気なのか、イエルは何かを持ち上げるように両腕を軽く上下させた。
M字開脚させられている自分をイメージして、ヴェルナは必死に首を左右に振った。
「そう、ですか」
残念そうな口調で呟き、イエルは所在なさげに周囲を見渡した。
「他に用件はございませんか?」
「部屋の掃除はして貰ったし、特にないな」
「では、紅茶など如何でしょう?」
「イエル、やることがないのなら休めば良いではないか」
ライカは溜息混じりに言って、隣にあるイスを叩いた。
「……ですが」
イエルはリビングを見渡し、仕方なくと言う感じでライカの隣に座った。
「精霊ってのは働かないと禁断症状が出るのか?」
「そのようなことはございませんが、私のように長らくメイドとして仕えておりますと仕事をすること自体が快を伴うようになることも……私が仕事により快を得ている訳では決してないのですが」
完全に禁断症状だ、とヴェルナは震える腕を押さえるイエルから視線を外した。
「イエルはライカの家で働き始めて長いのか?」
「ローランド家に仕えて、百年ほどになります」
「そう言えば、イエルは初代当主の肖像画にも描かれていたな」
ライカが思い出したように言うと、イエルは過ぎ去った日々を懐かしむように目を細めた。
「ローランド伯爵家ってのは精霊騎士の家系なのか?」
「歴代の当主全員が精霊騎士ではございません。ただ、初代様に関して申し上げれば、あの方は黎明期の精霊騎士であり、ライカ様と同じ精霊士でした。あの頃の私は精霊として生まれたばかりで、さしてお役に立てなかったのですが……」
「イエルの御伽噺には元ネタがあったのだな」
視線を上げ、ライカは感心するように何度も頷いた。
「その頃から生きているんだから、普通に思い出じゃねえの?」
「しかし、イエルの話だと泣き虫の領主の息子が精霊と戦ったり、精霊の大群と精霊騎士が戦ったりするのだぞ。イエルの創作とばかり」
「いや、精霊の大群と精霊騎士の決戦は歴史で習った記憶があるんだけど……マジ? イエルって歴史に残るような戦いにまで参加してんの?」
ヴェルナが視線を向けても、イエルは相変わらずの無表情だ。
けれど、ヴェルナは彼女の横顔を見ている内に無表情な理由に思い当たってしまった。
「悪い、少しデリカシーが足りなかった」
「ヴェルナが粗暴なのはいつものことではないか」
「誰が粗暴だ、誰が!」
ヴェルナが拳を振り上げると、ライカはわざとらしく首を竦めた。
※
何もしなくて良いってのは一種の贅沢だよな、とベッドから天井を見上げる。
「天井を見上げて、何を考えているのだ?」
「贅沢について考えてた」
ほぅ、とライカは感心したように息を吐き、読んでいた本を閉じた。
「ヴェルナは今の状況を贅沢だと感じているのだな?」
「腹一杯飯を食ったり、時間を気にせずにボーッとできるってのはあたしにとっちゃ最高の贅沢だな。で、そっちは?」
「ふむ、肉だな。私は肉が好きだ。一日三食肉料理を出して貰えれば言うことはない」
ヴェルナが意外な答えに目を丸くしていると、ライカは不満そうに下唇を突き出した。
「前にも言った通り、私の姉上はケチなのだ」
「イエルの料理は美味いんだから満足しろよ」
「肉料理を食べずして何が貴族か!」
くわっ! と目を見開くライカに少しだけヴェルナは気圧された。
「……す、すまん。肉のことになるとムキになってしまう」
「どれくらい肉が好きかはイタいくらい分かったよ」
「分かって貰えて嬉しいぞ。昔、アッシュに肉の良さを語った時は酷い目にあったからな」
「今みたいに変なこと言ったんじゃねえの?」
ライカは不機嫌そうに眉根を寄せ、
「私は二時間ほど肉の素晴らしさを語っただけだ。それだけで二週間も山奥に放置されたのだぞ! 何が肉を食べさせてやる、だ! ナイフ一本渡されて、どうしろと言うのだ!」
「鹿や野ウサギを狩れって意味だったんじゃねえの?」
「熊や狼に私が食べられる所だ!」
よく生きて帰って来られたなぁ、とヴェルナは素直に感心した。
「そんな目に合わされて、よくアッシュ先生に会いに来たな。お前はマゾか?」
「私は苛められて喜ぶような変態ではない。まあ、コールリッジではアッシュに泣かされてばかりいたが、お陰で学んだこともある」
ライカは偉そうに腕を組み、
「アッシュは暴力的で、気分屋で、協調性の欠片もないダメ人間だが……どんな人間にも必ず良い所はあると学んだ」
「全然、説得力がねえぞ! せめて、アッシュ先生の良い所を一つくらい言えよ!」
「不思議なくらい良い所がないのだ、アッシュは」
「あるじゃん、教え子想いな所とか!」
「ヴェルナに優しいのは下心があるからだぞ、きっと」
「どれだけ、お前の中でアッシュ先生はダメ人間なんだ!」
「アッシュは『他人なんて信用しねえ』的なスタンスを取っていたが、理解者のフリをしてやった途端、犬のように心を開いたな。ふん、アウトローを気取るヤツに限って、理解者を求めている典型だ」
「黒! 腹黒すぎるだろ!」
「と言っても、ヴェルナのベッドに潜り込む理由はそう言う訳ではないのだ」
「それが理由か!」
「そんな訳なかろう。それにしてもヴェルナは昔のアッシュに似ているな。いや、ヴェルナの心を犬……ゲフン、アッシュのように開かせようと考えていた訳ではない」
「犬扱いかよ!」
「どんな相手でも内側に潜り込んでしまえば脆いものだ」
「学んだのは処世術だけか!」
「ケガしているのに騒がしいことだ」
「お前が叫ばせたんだろ」
ヴェルナは呼吸を整え、
「……本当の所はどうなんだよ?」
「アッシュはダメ人間だが、一緒にいると安心する。ヴェルナのベッドに潜り込むのもそれが理由だ」
ライカはベッドに腰を下ろし、ぎゅぅぅぅとヴェルナにしがみつく。
「こうしていると、とても安らいだ気分になる」
「あたしは落ち着かねえ」
頼りない、細い首筋を見ていると不安になる。
「大体、貴族なのに平民と同居って正気か?」
「貴族にも色々あるのだ。それにしてもアッシュよりもヴェルナの方が良いな。まるで母上に抱かれているような……」
「父上とか言ってたくせに」
返事の代わりに規則正しい寝息。
ヴェルナは無防備すぎるライカに戸惑い、じわじわと熱が冷え切った体に広がるような感覚に溜息を吐いた。
※
翌日、ベッドで目を覚ますとライカが隣で寝ていた。
ヴェルナの胸に縋り付いて眠る姿は天使のように……ねっとりと涎を垂らしているのがダメダメな感じだ。
ヴェルナはライカを起こさないようにベッドから抜け出した。
熱も引き、痛みも感じない。
イエルが薬を塗ってくれたのが良かったのだろう。
「……汗臭い」
涎で濡れたシャツを摘む。
一昨日からシャワーを浴びていないので仕方ない。
ヴェルナは制服と下着を準備してバスルームへ。
バスルームは廊下よりも寒かった。
洗濯かごにシャツと下着を脱ぎ捨てる。
鏡を見ると、裸の自分が映っている。
いつもより目付きが悪く、髪の毛もボサボサだ。
肌がヒリヒリするくらい熱いシャワーを浴び、泡立ちの悪い安石鹸で垢を落とし、無駄に泡立ちの良いシャンプーで髪を洗う。
十分でシャワーを浴び終え、毛の逆立ったタオルで体を拭き、濡れた髪も同じ。
服を着るのに五分と掛からない。
髪を手櫛で整えながら部屋に戻っても、ライカは就寝中だ。
「う、うぅ」
ライカはベッドの上で犬のように唸り、一気に体を起こした。
「お?」
「おはよう。これからバイトに行くけど、どうする?」
「行くに決まっているではないか!」
「だったら、さっさと着替えて来いよ」
「昨日のように私を置いていくなよ、絶対だぞ」
寝起きにも関わらず、ライカは奇妙なハイテンションで部屋から飛び出していった。
本当にダメな妹って感じだな、とヴェルナは手甲を付ける。
廊下に出ると、制服姿のライカがイエルを伴って立っていた。
「どうだ、この制服は?」
「馬子にも衣装って感じだな」
「それは誉め言葉ではない!」
ライカは威嚇するように両腕を振り上げた。
「ダメなヤツでもそれなりに見える、って意味だから合ってるだろ」
「ダメ? 私はダメなのか?」
「一昨日、あたしの脇腹に魔術をぶち当てたじゃねえか」
う~、とライカは涙を堪えるように上目遣いでヴェルナを睨む。
「次からは気をつけろよ」
「な、何と言う上から目線!」
「おらおら、さっさと行くぞ」
狭い玄関で押し合いながらブーツを履き、アパートの通路に出て、イエルが施錠するのを確認……いつものように学園まで走る。
「う、ぐぇ……ゲブ!」
ライカはイエルの背中で今にも吐きそうな顔をしていた。
「体力がないんだな」
「あ、あんな、ぜぜ、全力……」
「『あんな全力で走られたら、ついて行ける訳がない』とライカ様は仰ってます」
イエルが今にも死んでしまいそうなライカに代わりに答えた。
「あら、ヴェルナさん。子守りが板についてますわね?」
「あ?」
うんざりした気分で振り向くと、セシルが嘲るような笑みを浮かべていた。
「精霊騎士よりも子守り女中にでもなった方がよろしいのではなくて?」
「下らない挑発で呼び止めんな。あたしは生活費を稼ぐためのバイトで忙しいんだよ」
「別に貴方一人いなくても現場は回りますわ。狂精霊を倒した自分がいないと、とでも仰りたいんですの?」
遅れるとバイト代が差し引かれるじゃん、と本音を言えずにヴェルナは頭を掻いた。
「そういや、セシルも狂精霊を倒したんだっけ」
「多少は手こずりましたけど、見事倒してみせましたわ」
胸元に手を当て、セシルは誇らしげに胸を張った。
「重傷者が出るのは多少って言わないだろ」
「私の功績に文句がありますの?」
「文句なんてないけど……」
その後に続く言葉をヴェルナは飲み込んだ。
「……何でもねえ」
負け犬臭いな、とヴェルナはセシルに背を向けた。
ライカがイエルの背中でえずいていたが、無視して校内にあるアッシュの部屋へ急ぐ。
アッシュ先生の部屋は相変わらず散らかっていた。
山のように積まれた本の間からアッシュ先生がひょっこり顔を出す。
「おはようございます、ヴェルナさん」
「おっす、先生」
軽い挨拶を交わし、ヴェルナは指示を待った。
「今日も昨日と同じエリアを見回って貰いますが……これを持って行って下さい」
差し出されたそれは、
「け、拳銃?」
「これは信号銃です。上から許可を貰っているので所持しても捕まりません」
「そう言う問題かよ」
ヴェルナは両腕で信号銃……口径は四センチくらい、装弾数は一発……を構える。
「狂精霊と遭遇したら空に向けて撃って下さい。近くにいる精霊騎士が急行する手はずになっています」
「緊急時の連絡手段が確保できてるってのは安心できるか。スカートに挟むだけじゃ落としそうなんだけど、ホルスターってねえの?」
「ええ、それも用意してます」
アッシュ先生は古い革製のホルスターをヴェルナに手渡す。
「おい、ライカ」
「……な、何だ?」
ようやく呼吸を整えたライカがヴェルナの手招きに応じる。
「信号銃はライカが持ってくれ。あたし達の命が掛かってるんだからなくすなよ」
「う、うむ、責任重大だな」
ライカは興奮した面持ちで信号銃を握り締める。
「ちょっと、腕を上げてろよ」
ヴェルナはライカが腕を上げている間に革製のホルスターを身に付けさせる。
「役割分担はあたしが前衛で精霊を引き付け、ライカが後衛で魔術をぶっ放す。イエルがライカの盾役だ。それと最初に言っておくけど、あたし達の目的は精霊を倒すことじゃなくて、街や住人に被害が出ないようにすることだからな」
「だが、私達は狂精霊を倒しているではないか」
ヴェルナを見上げ、ライカは不満そうに唇を尖らせた。
「あんな幸運が二度も続くわきゃねえだろ。あたし達の仕事は見回りで、精霊を倒すことじゃねえ。その辺を勘違いするなら置いていくぞ」
「うむ、ヴェルナの言う通りにする」
ヴェルナは力任せにライカを撫で、部屋を後にした。