第三章『分岐、最悪の選択』その1
ヴェルナ・トゥルーズを意識し始めたのはいつからだろう。
そんなことを考えながらセシルは薄暗い路地を駆ける。
初めて意識したのは負けた時だ。
多少の慢心はあった。
少なからず、油断もしていた。
だが、それ以上に彼女は強かった。
彼女が精霊騎士に相応しい人間であれば、ライバルと認められたかも知れない。
けれど、彼女はチンピラ同然の人間だった。
そんな相手に負けるのが堪らなく怖かった。
路地に悲鳴が響き渡る。
セシルと同じようにレオンの口車に乗った学生のものだ。
何度目の悲鳴だろう。
路地の角を曲がり、セシルは足を止めた。
「……あ、あぁ」
そこで狂精霊が触手を男子学生の体に突き立てていた。
触手が突き刺さるたびに、男子学生は濁った悲鳴を上げ、デタラメに手足を振り回す。
狂精霊が触手を一本だけ引き抜き、セシルに伸ばした。
いや、伸ばすなんて生易しいものじゃない。
弾丸のように飛来する触手に反応できず、セシルは肩を差し抜かれていたのだから。
「え?」
触手がうねり、ごりごりと骨が軋む。
「……ッ!」
刺し貫かれたと意識した瞬間、気が狂わんばかりの痛みが脳を直撃した。
喉の奥で悲鳴が炸裂する。
「え、炎弾乱舞っ!」
折れそうな心を必死で立て直し、セシルは炎を放つ。
狂精霊が甲高い悲鳴を上げる。
刹那、噴き上がった血液がセシルの放った炎を掻き消した。
「そんな!」
狂精霊の触手が足に絡み、セシルは悲鳴を上げる間もなく引き摺り倒された。
触手が突き刺さり、手足が跳ねる。
血塗れた自分の体を他人事のように見つめながらセシルは声を聞いた。
※
窓枠に縁取られた風景は憂鬱な鉛色だ。
唇から漏れる吐息も重く、憂鬱な気分を加速させる。
視線を巡らせても普段と変わらない部屋があるだけだ、ライカが机に向かっている以外は。
本を読んでいるだけなのに、その横顔が憂いを秘めているように見えるのは何故なのだろう。
「どうして、あたしの部屋にいるんだよ」
「ふむ、良い質問だ」
ライカは本から視線を外し、考え込むように天井を見上げた。
「起きたら、イエルが家事をしていてな。邪魔をしてはいけないと思ったのだ」
「あたしに対する気遣いはないのか?」
「寂しくないように気を遣ったのだ」
ライカは腕を組み、満足そうに頷いた。
「暇だ」
「暇なら本か、新聞でも読めば良いではないか」
「読書は趣味じゃねえし、新聞は取ってねえよ。見れば分かるだろ」
ライカはぐるりと部屋を見渡し、
「殺風景な部屋だな。魔術書くらい持っているかと思っていたのだが?」
「魔術書なんて高くて手が出せねえ」
ヴェルナは頭の後ろで手を組み、天井を見上げた。
「スラッグを足で使ったり、アサルトを多重起動させていたが、あれは独学なのか?」
「アッシュ先生から教わったんだよ」
ライカはイスに座ったまま胡座をかき、納得し切れていない様子で腕を組んだ。
「う~む、アッシュは本当に教師をしていたのだな」
「そっちかよ!」
「そうは言うが、私の知っているアッシュは最強クラスの実力を持っているだけのダメ人間なのだ」
貶しておいて最強と言う辺り、アッシュ先生に対する複雑な人物評価を伺わせる。
「まあ、アッシュ先生は人気がないからマンツーマンで教えて貰えるぜ」
「アッシュは人気がないのか?」
ライカは信じられないと言いたげな表情で絶句する。
「アッシュ先生は基礎ばかり繰り返させるから学生受けしねえんだよ」
「人気がないと知っていて、アッシュの学生を続けているのか?」
「あたしは基礎を疎かにできるほど優等生じゃないからな。けど、正解だっただろ? しっかり基礎を教わったお陰で生き延びられたんだぜ」
「随分と余裕があったようにも見えたが?」
「あれは視界が開けてて、援護があったから勝てたんだよ」
援護もなしに戦っていたらと思うとぞっとする。
「ヴェルナは傷が治ったら見回りを再開するのか?」
「アッシュ先生から紹介されたバイトだからな」
うむ、とライカは思案するように腕を組んだ。
「気をつけた方が良いかもしれん。この街は危うい感じがする」
ヴェルナはいつもの調子で答えようと口を開き、ライカの顔を見て口を閉じた。
いつになく真剣な、肉親の死に際に立ち会っているような表情だったからだ。
「精々、気をつけるさ」
ライカが再び本を開き、ヴェルナは他にすることもなく目を閉じた。
うとうとし始めた頃、部屋の扉を叩く音で目を覚ました。
うっすらと目を開くと、イエルが遠慮がちに扉から顔を覗かせ、
「アッシュ様がいらっしゃいましたが?」
「あ~、入って貰ってくれ」
「……かしこまりました」
イエルは躊躇うような視線をヴェルナに向け、静かに扉を閉めた。
「ま、ま、待て! あたしは今、シャツしか着てねえ!」
慌ててベッドから飛び降りたが、怪我のせいで顔面から床に突っ込んだ。
顔を上げると、
「ヴェルナさん、少し無防備すぎませんか?」
「み、見るなっ!」
怒鳴り、ヴェルナはアッシュ先生が後ろを向いている間にベッドに這い戻る。
「ふむ、ヴェルナはアッシュの近くにいると少しだけ乙女っぽくなるのだな」
「う、うるさい!」
頬が紅潮するのを自覚しつつ、ヴェルナは上半身を起こした。
「な、何のようだよ、先生」
「見舞いがてらにニュースを伝えに来たんですよ」
アッシュ先生は机の上に紙袋を置き、中から桃の缶詰を取り出す。
「見舞いの品に缶詰ってあり得なくね?」
「桃は嫌いでしたか?」
「どうして、缶詰?」
「アッシュに期待しても無駄だぞ。その男は子どもが病気になったら桃缶を持ってくるのが当然と思っているようなヤツだからな」
ライカが呆れたような視線を向けるが、アッシュ先生は首を傾げるばかりだ。
「多分、今の先生は分からねえと思うからニュースってのを教えてくれ」
「良いニュースと悪いニュースがありますけど、どっちから聞きたいですか?」
「悪いニュースを聞かないって選択肢がねえなら、良いニュースから」
「では、希望通りに良いニュースから……来週の選考会なんですが」
そこでアッシュ先生は言葉を区切り、
「ヴェルナさんの出場が繰り上げで決定しました」
「凄いではないか、ヴェルナ!」
ヴェルナは自分でも不思議なくらい落ち着いていた。
興奮が沸点に達する前に萎んでしまったような感じだ。
「嬉しくないのか?」
「素直に喜べないって言うか、タイミングが掴めないって言うか」
何となく嫌な予感がして、ヴェルナは後頭部を掻いた。
「で、悪いニュースってのは?」
「学園の学生が狂精霊に襲われて重傷を負いました」
「あたしが選考会に出られるようになった理由はそれか」
「話が早くて助かります」
状況を飲み込めていないらしく、ライカは不満そうに唇を尖らせる。
「説明してやるから拗ねるなよ」
「拗ねてなどおらん」
どう見ても拗ねているとしか思えない態度でライカはヴェルナから顔を背けた。
「まあ、聞きたくないなら構わないけど」
「聞きたくないとも言っておらん」
面倒なヤツだな、とヴェルナは不機嫌そうに口をへの字に結ぶライカを見つめた。
「へいへい、簡単に言うとあたしは補欠だったんだよ」
「模擬戦闘の成績は良かったんですけど、座学が平均以下でしたからね」
「ふむ、ヴェルナはバカなのだな」
「バカじゃねえよ、バカじゃ!」
腕を一閃させたが、あっさりとライカに躱された。
「ヴェルナさんの選考会出場は絶望的だったんですが、悪いニュースの件で欠員が出たので……」
「それであたしにお鉢が回ってきたって訳さ」
「だが、補欠の中にもヴェルナより成績の良い者はいたのだろう?」
「良い質問です」
アッシュ先生は腕を組み、笑みを浮かべた。
「参加者の選考方法が少し変わったんです。今までは座学と実技の平均で参加者を選考していたんですが、模擬戦闘の成績が重要視されるようになりまして」
「アッシュ、私は嘘が嫌いだぞ?」
「嘘なんて人聞きの悪い。僕は昨日の件を報告した時に、実績のある学生が参加できないのは問題じゃないかと言っただけですよ」
「やはり、教師になってもアッシュはアッシュなのだな」
重傷者が出ているにも関わらず、アッシュ先生の口調は普段と変わらない。
むしろ、この状況を楽しんでいるようだった。
「アッシュ様は学生が重傷を負った件に関わっていらっしゃるのですか?」
「そんなことしませんよ、教師なんですから」
イエルが問い掛けると、アッシュ先生は憮然とした表情で返した。
「アッシュ先生、狂精霊はどうなったんだよ?」
「詳細は分かりませんが、セシルさんが倒したそうです」
「セシルなら余裕だったんじゃねえの? 剣術は相当なレベルだし、魔術のレパートリーも多いしさ」
「魔術のレパートリーなら私も負けてはおらんぞ」
「セシルの場合はそこに剣術が加わるんだよ。戦術の幅が広いから、戦いたくないヤツの代表格だ。機会があったら色々なヤツの戦いを見学しておけよ。そうすりゃ、ライカにもあたしの言葉の意味が少しは分かるさ」
ライカは軽く目を見開き、じっとヴェルナを見つめた。
「先輩みたいな台詞を、とか言ったら蹴るからな」
「私の名前を呼んだから驚いたのだ。ふむ、少しは認められたと言うことだな」
ライカは嬉しそうに笑った。
「この調子なら友人、親友、最終的には御主人様にランクアップするのも夢ではないな」
「親友から御主人様って、ランクアップしてねえぞ!」
「私の扱いがランクアップしているではないか」
「あたしの扱いがランクダウンしてるだろうが、あたしの扱いが!」
ヴェルナがベッドを叩いて抗議するとライカは思案するように唸り、
「この調子なら友人、親友、最終的には恋人にランクアップするのも」
「今度はランクアップしすぎだ! どうして、恋人なんだよ! 親友で止めろ、親友で!」
一息で言い切り、ヴェルナはベッドの上で肩を落とした。
「僕は仕事に戻りますけど、ヴェルナさんは傷を治すことに専念して下さいね」
「了解。言われなくても折角のチャンスを無駄にするつもりはねえし」
ヴェルナは一抹の寂しさを覚えながら普段と変わらない態度で答えた。