第二章 『激突、動き出す運命の歯車』その1
まず、視界に飛び込んできたのは長い金髪だった。
胸元を見るとライカが胸にしがみついて眠っていた。
「おい、ライカ」
「むぅ」
ライカは可愛らしく唸り、ぐりぐりと顔をヴェルナの胸に擦り付けた。
「うぅ、父上」
「そこまで平らじゃねえよ!」
「みぎゃ!」
怒りに任せて蹴りを入れるとライカは毛布を巻き込みながら落下。
「ヴェルナ、私を助けてくれ」
「誰が助けるか」
簀巻きの状態でじたばた足掻くライカを無視し、ヴェルナは荒々しくシャツを脱ぎ捨てた。
さっさと制服に着替え、手櫛で髪を整える。
バイト代が出たら新しい下着でも買うか。
そんなことを考えながら振り返ると、ライカがヴェルナを見上げていた。
「……格好良いな」
「は?」
「ヴェルナは格好良いな、と言ったのだ」
「な、何を言ってやがる!」
下着姿を見た感想が格好良いはどうよ、と思わないではないのだけれど、予想外の言葉に血が頭頂部まで駆け上がる。
「と言う訳で私を助けてくれると嬉しい」
「そう言うオチかよ」
ヴェルナが毛布を引っ張ると、ライカは部屋の隅まで転がった。
「別に、嘘ではない」
「へいへい」
「本当に嘘ではないのだ!」
「そんな泣きそうな顔をしなくても信じてる、って」
ライカは呆けたようにヴェルナを見上げ、
「見間違いだ! 私は泣きそうな顔などしておらん!」
リンゴか、トマトのように頬を紅潮させて叫んだ。
「へいへいへい」
「うぅ、私は断じて泣きそうな顔などしておらん!」
ヴェルナが部屋を出ると、ライカは泣きそうな顔で付いてくる。
躾のされてないバカ犬みたいだ。
ヴェルナはリビングを華麗にスルー、玄関でブーツと手甲を身に付ける。
「朝食も取らずに何処に行くのだ?」
「バイトだよ、バイト」
ブーツの爪先を床に打ち付けると、凶悪な音が響く。
音に気付いたのか、イエルがリビングから顔を覗かせる。
「朝食は如何なさいますか?」
「悪い、ギリギリまで寝るから朝食は取らねえんだ」
「かしこまりました」
「出掛ける時は鍵を閉めてくれよ」
イエルはヴェルナが投げた鍵を危うげなく掴んだ。
「あたしはアッシュ先生から合い鍵を借りるから」
「待て。鍵を渡すならイエルではなく、私に渡すべきだろう」
「お前だとなくしそうじゃん」
「子どもか、私は!」
ライカは悔しそうに地団駄を踏んだ。
その姿を見ていると脳裏に鍵をなくして泣いている様子が鮮やかに浮かぶ。
予感と言うよりも確信に近い。
「どう見ても子どもだっての」
「ど、何処を見ておるのだ、貴様は!」
何を勘違いしたのか、ライカは慎ましい胸の膨らみを両腕で隠した。
「わ、私の成長期はこれからなのだ。二年後には貴様の身長を追い抜き、胸もイエルのように成長しているはずだ」
「二年後って、どんな成長期だよ」
身長が月に一センチ伸びる可能性を否定する根拠もないのだけど、ヴェルナはうんざりした気分で呟いた。
「ま、期待しないで待ってるぜ」
アパートの扉を開けると風が吹き込んできた。
制服を着ても早朝の寒さは厳しく、ネグリジェ姿のライカはしきりに体を震わせている。
「大人しく留守番をしてろよ」
「だから、私は子どもで……」
後ろ手で扉を閉め、ヴェルナは澄んだ空気を深々と吸い込んだ。
春は体の芯が浮つくような感じがするので好きじゃない。
けれど、川の腐敗臭が漂う夏やバスタブの湯がすぐに冷たくなる冬に比べればマシだ。
ヴェルナは寝起きで固い体を解す。
ゆっくりと息を吸って、アパートの廊下を歩き、少しずつスピードを上げていく。
川沿いの道に出て、商店街を通る頃にはじっとりと汗ばんでいた。
体を動かすのは嫌いじゃない。
余計なことを考えず、呼吸と心臓の音に集中する。
このシンプルな感じが好きだ。
世の中は雑音が溢れ返っている。
孤児院にいた時からそうだった。
精霊騎士になると言った時、なれるわけがないと否定された。
最初は反発して、黙って体を動かすようになった。
道場の稽古を盗み見て、孤児院にあった本を貪るように読んだ。
周囲の反対を押し切って、入学試験を受けて合格。
入学金と授業料が用意できずに困っていた時、篤志家が現れたのは僥倖。
アッシュ先生と知り合えたのは奇跡のような幸運だ。
学園に入学しても周囲の声はなくならなかったし、現実の厳しさを思い知らされるばかりだ。
けれど、八年前よりも夢に近い場所に立っている。
その実感がヴェルナを支える。
はっきりと学園の校舎が見え、ヴェルナは力一杯地面を蹴った。
足を動かす。心臓が痛い。耳鳴りがする。
誰も見てないんだから力を抜けと言う誘惑を無視して倒れ込むように門を越えた。
足を止め、ヴェルナは荒い呼吸を繰り返した。
「ヴェルナさんは毎日、熱心ですね」
顔を上げると、アッシュ先生と目が合った。
「飲みますか?」
「……」
ヴェルナは無言で差し出された水筒を受け取った。
かじかんだ手でコップを取り外し、湯気の立つ中身を注ぐ。
紅茶を口に含んだ瞬間、
「甘渋っ! そこら辺の雑草でも煮詰めたのかよ!」
「おかしいですね。店の人はふくよかな味わいの茶葉と言っていたんですけど?」
「先生の淹れ方が下手なんだよ」
水筒を返すと、アッシュ先生は飲み口を拭きもせずに煽り、不味そうに顔を顰めた。
「紅茶の淹れ方を勉強しないといけませんね」
「先生は精霊騎士なんだし、紅茶の淹れ方なんて勉強しなくても良いんじゃねえの?」
「可愛い教え子に美味しい紅茶を御馳走するのは教師の義務ですよ。それと細かいようですが、僕の本職は学園の教師です」
軍にいればそれなりの待遇を受けられたはずなのに、とヴェルナはアッシュ先生の後を追った。
「どうして、先生は教師になろうと思ったんだ?」
「まあ、色々ありまして」
アッシュ先生はドアノブを握ったまま動きを止め、自嘲的な笑みを浮かべた。
「色々って?」
「この人にだけは軽蔑されたくないと思える人ができたんです」
「それって、ライカの親父さん?」
「彼のことは尊敬していますが……僕の生き方を変えてくれたのは別の人です」
「へぇ、なんてヤツ? あたしの知ってるヤツじゃないよな?」
「残念ですが、名前は教えられません」
「ケチケチしなくても良いじゃん」
ヴェルナが唇を尖らせて言うと、アッシュ先生は苦笑いを浮かべながら扉を開けた。
「僕にも事情があるんですよ」
「どんな?」
「彼女は自分が僕の生き方を変えたことを知らないんです。せめて、お礼をしたいと思うんですが、どうも踏ん切りが付かなくて……覚悟が決まるまで告白は先延ばしです」
奥のイスに腰を下ろし、アッシュ先生は溜息を吐いた。
「アッシュ先生って、割とヘタレだな」
「ヴェルナさんが卒業するまでに覚悟を決められると思うんですけどね」
「あたしは関係ないじゃん」
意味深な笑みを浮かべ、アッシュ先生は地図を机の上に広げた。
あたしには関係ないんだ、とヴェルナは自分に言い聞かせながら地図を覗き込んだ。
「今日は何処を見回れば良いんだよ、先生」
「川沿いを重点的に、北側の商店街を見回って下さい。他はアーチボルトさん達が、南側はあちらで担当するそうなので見回らなくて結構です」
「コンビを組んでくれる人は?」
アッシュ先生は鼻先で手を組み、
「いません」
「え?」
「いないと言ったんです。昨日の件で一人でも戦えると判断されたらしく」
「それって決定事項なんだよな?」
アッシュ先生は頷いた。
「ピンチになったら早めに助けてくれよ」
「もちろんです」
アッシュ先生の言葉を聞いて、少しだけ気分が楽になる。
「じゃ、あたしは街を巡回に行ってくるから」
「それと、扉の隙間から様子を伺っている二人も連れて行って下さい。ライカさんは一人で留守番をするのが寂しいようですので」
「だ、誰が寂しがりだ!」
ばんっ! と扉を開け、ライカが頬を紅潮させて叫んだ。
「このガキ、留守番をしてろって言っただろうが!」
「了承した覚えはない!」
「そんな屁以下の言い訳があたしに通用すると思ってんのか?」
ヴェルナは指を鳴らし、恐怖を煽るために少しずつ距離を詰める。
「ヴェルナさん、僕は二人を連れて行くように言ったつもりですが?」
「先生、遊びじゃないんだぜ」
「僕も遊びで連れて行くように言った覚えはありませんよ」
ヴェルナが睨み付けても、アッシュ先生は微笑みを湛えたままだ。
「分かったけど、ライカを守る余裕なんてねえよ」
「安全ならイエルさんが保証してくれるはずです、多分」
「多分ってのが不安と言えば不安だけど、イエルがいれば大丈夫か」
肩越しに視線を向けると、イエルが小さく頷いた。
「き、貴様ら、どれだけ私を過小評価するつもりだ!」
地団駄を踏むライカを眺め、ヴェルナは深々と溜息を吐いた。
「ガキみたいに喚いてないで、見回りに行くぞ」
「だから、子ども扱いするなと言っているではないか!」
ライカは不満を言いながらも子犬のように、イエルは影のように付いてきた。
「ヴェルナさん……気をつけて下さいね」
手を組み、アッシュ先生は何かを企んでいるような笑みを浮かべた。