第四章『決着、果たされる約束』その2
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昨日の雨が嘘のような快晴、ヴェルナは抜けるような青空を見上げた。
「良い顔をしてますね、ヴェルナさん」
「そりゃ……色々とあったし」
昨夜のお呪いを思い出し、ヴェルナはアッシュ先生から顔を背ける。
「アッシュ先生、教師が一人の学生に肩入れするのはマズいんじゃねえの?」
「セシルさん側も似たようなものですから文句は言わせませんよ」
見れば、セシルがレドリック先生に付き添われていた。
「あれがセシルかよ」
「精霊に憑かれれば、あんなもんです」
遠目で分かるほどセシルは憔悴しきっていた。
髪は水に濡れたようにボリュームを失い、目だけがギラギラと輝いている。
「先生の力ならセシルから精霊だけを引き剥がせるよな」
「あそこまで同化していたら難しいです」
アッシュ先生はいつもと同じように微笑んでいた。
「……先生なら引き剥がせるんだろ?」
「セシルさんを廃人にしても良いなら、すぐにでも引き剥がしますよ」
そう言うことか、とヴェルナは溜息を吐くしかなかった。
アッシュ先生は嘘を吐かない。
けれど、本当のことを言っているとは限らないのだ。
「アッシュ先生、これから言うことを黙って聞いてくれ」
ヴェルナは自分の考えを伝えた。
「ヴェルナさん、自分が何を言っているか分かっているんですか?」
「分かってる」
「そんなことをしたら僕の力じゃ庇えません。確実に精霊騎士になれなくなります。下手をしたらヴェルナさんが殺される可能性だってあるんですよ」
「先生に迷惑を掛けるのは分かってる! けど、あたしは……」
分かってるけど、何だ?
ヴェルナの考えを実行したら、アッシュ先生だって職を追われるかも知れない。
「……ヴェルナさん」
「っ!」
アッシュ先生は不機嫌そうに眉間に皺を寄せ、ヴェルナを引き寄せた。
「僕のことは構わないんです。ヴェルナさんこそ、覚悟はありますか? セシルさんを救うために今までの努力を捨てようとしているんですよ、貴方は」
こんな時でもアッシュ先生は先生だった。
いつも、どんな時でもヴェルナの心配をしてくれる。
それが堪らなく嬉しいし、堪らなく悲しい。
「それでも、あたしはセシルを助けたい」
伸ばした手を握り返して貰えない辛さ。
あの世界中から見捨てられたような孤独感と痛み、焼け付くような憎悪を覚えている。
「見捨てられない、あたしの夢と引き換えでも」
ふぅ、とアッシュ先生は呆れたように溜息を吐いた。
「そこまでの覚悟があるのなら何も言いません」
「先生、あたしはセシルを助けられるかな」
「大丈夫ですよ、きっと」
こんな状況なのに笑いが込み上げてくる。
この人の前で胸を張っていたいから正しくあろうとするし、この人に認められたいから努力してきた。
自分が選ばれないとしても、この気持ちだけは伝えたかった。
「あのさ、先生……この戦いが終わったらさ、伝えたいことがあるんだけど」
「今でも構いませんよ?」
「いや、試合の前だしさ」
「確かに、ここで下手な約束をすると死にそうですしね」
「そうそう死にそう……って、死なねえよ!」
「侮れませんよ、ジンクスは。略奪戦争中も国に帰ったら結婚するとか言ってた同僚が死んでましたし」
「そんな縁起でもねえことジンクスにするなよ! 絶対に勝って、ハッピーエンドで終わらせるつもりなんだから!」
「もちろん、ヴェルナさんのことを信じています」
アッシュ先生はヴェルナの頭を撫でた。
ヴェルナの方が背が高いから、とても撫でているようには見えないだろうけど。
やっぱり、あたしはアッシュ先生が好きなんだ。
愛とか分からないけれど、信じていると言われるだけで勝てそうな気がする。
「それと……ヴェルナさんを信じているのは僕だけじゃないみたいですよ」
「ふむ、バレていたみたいだな」
きこきこと薄闇から金属の擦れ合う音。
音の正体は車イスだ。
「ライカ、アリス先輩まで」
「私達だけではなく、八百屋の店主も観客席にいるぞ」
車イスに乗ったライカとそれを押すアリス先輩の姿に驚きを隠せない。
「それはそうと無事にアッシュと仲直りできたようだな」
「ああ、お陰様でな。本当に、ライカのお陰で助かったんだぜ」
ライカのお陰で選考会に出られるようになったし、初心ってヤツを思い出せた。
「遅くなったけど、頼まれてたコート」
「ああ、それでライカと」
綺麗に折り畳まれた真紅のコートを羽織り、ヴェルナは笑みを浮かべた。
「真紅のコートか」
「制服だけじゃ心許ないから、アリス先輩にお願いしてたんだよ」
「私も贈り物をせねばならんな」
ライカが手にしたのは折れた剣……イエルだった。
「良いのか、イエルを貰って」
「だ、誰がやると言った!」
腰を浮かしてしまい、ミギィ! とライカは一転して涙目になる。
「イエルはここにいる。私の声は届いていないようだが、ヴェルナの声ならば届きそうな気がするのだ」
ヴェルナはイエルを手に取り、信頼の重さを実感しながら剣帯を巻き付けた。
「じゃ、行ってくるよ」
真紅のコートを翻し、ヴェルナは武舞台に向かう。
予想していた罵倒はなかった。
一歩、また、一歩とヴェルナは階段を登る。
ずっと、独りだと思っていた。
夢だけが自分を支える全てだと思い込んでいた。
けれど、一人じゃなかった。
マリィおばさん、アリス先輩、イエル、ライカ、アッシュ先生。
大勢に支えられて、今、ここに立っている。
そして、万感の想いを抱き、ヴェルナは最強のライバルと対峙する。
「……ヴェルナ・トゥルーズ」
「ああ、あたしだ」
「貴方を、貴方を必ず殺して差し上げますわ」
「無理だね。あたしは殺されるつもりなんざねえし、これ以上ないくらいのハッピーエンドを掴んでみせるさ」
開始線まで下がり、ヴェルナは拳を構えた。
セシルは獣のように体を沈ませ、限界まで腰を捻る。
構えは刺突、切っ先が突き刺さればそれだけで死ぬ。
審判役の教師が試合開始を告げると同時、いや、わずかに早くセシルが飛び出した。
ギラギラと輝く瞳は血に飢えた獣さながら、切っ先に迷いはない。
ヴェルナは大きく踏み出し、セシルの脇腹に拳を叩き込んだ。
出鼻を挫かれ、セシルは弾けるように飛び退る。
それに合わせてヴェルナは距離を詰め、顎を狙った上段突き、上体を逸らすセシルの脇腹に中段回し蹴り、首筋に上段後ろ回し蹴りを叩き込む。
セシルが背中から地面に倒れ、耳が痛くなるような静寂が辺りを包んだ。
そして、歓声が爆発した。
「油断、しましたわ」
「今のセシルじゃ、あたしには勝てねえよ」
「それは思い上がりですわ!」
セシルはバネ仕掛けの玩具のように跳ね起き、
「炎弾乱舞!」
ヴェルナは魔力圏を頼りに炎の壁に突っ込んだ。
炎の壁を突き抜けた刹那、視界の隅で銀の光が閃く。
その正体を見極めるよりも早く、ヴェルナは動いていた。
切っ先が首筋を掠め、闘技場の地面に突き刺さる。
信じられないと言うようにセシルは目を見開いていたが、それはヴェルナも同じだ。
「だから!」
地面を蹴って、
「言ったろ!」
セシルに肉薄、あの夜と同じゼロ距離だ。
「アッシュ先生は間違ってねえ、ってさ!」
スラッグが肘で炸裂、拳がセシルの脇腹に突き刺さる。
セシルは歯を食い縛り、
「炎弾「アサルト!」
真紅の魔力弾が中心を貫き、炎弾は火の粉となって舞い散る。
どんな魔術でも出掛かりを潰せばこんなものだ。
「何故、何故ですの!」
叫びと共に突き出された切っ先をヴェルナは手甲で捌く。
上体が泳ぎ、自分から飛び込んできたセシルの脇腹に一撃。
真正面から更に一撃……その場に膝を突くセシルと距離を取る。
「まだ、分からねえのかよ」
「何を言ってますの?」
「こうも一方的に試合が進むなんておかしいと思わねえのか?」
セシルは不思議そうに目を瞬かせる。
「その力は凄いさ。痛みも感じなくなるし、罪悪感も麻痺して、普段の自分なら絶対にしないようなマネもできるようになる。けど、戦い方が大雑把になるんだよ。地力が互角なら冷静な方が試合を優位に進められるのは道理だろ」
目を見開き、セシルは力なく頭を垂れた。
セシルの肩が小さく震える。
嗚咽を堪えるかのような震えは徐々に大きくなり、狂ったような笑いへと変わった。
「想いが、憎悪が足りなかっただけですわ」
ゆらりと立ち上がる姿は幽鬼のようだ。
ヴェルナは溜息を吐くしかなかった。
セシルが自分で精霊の力を否定してくれるのが一番だったのだけど、最善の策がダメなら次善策……ボコボコにぶん殴って、精霊を引きずり出す……を取るしかない。
「影よ! 行きなさい!」
セシルの影から伸びた無数の触手がヴェルナに襲い掛かる。
「アサルト!」
走りながらアサルトを掃射するが、影の触手は直撃を受けても猟犬のようにヴェルナに追い縋る。
「こいつも精霊の一部ってことかよ! だったら!」
余裕たっぷりに腕を組むセシルにアサルトを撃ち込んだが、新たな触手に弾かれる。
「逃げるだけですの?」
「好きなだけほざきやがれ! アサルト、多重起動!」
複数のアサルトを起動、右手に五、左手に五……脳みそを掻き回されているような不快感に耐え、
「一斉射!」
背後から迫る触手に全弾を叩き込む。
だが、触手は弾幕のわずかな間隙を縫って、ヴェルナの右腕に絡み付いた。
「スラッグ!」
スラッグを叩きつけても、影の触手はびくともしなかった。
硬度も、柔軟性も狂精霊以上だ。
影の触手が左手、両足に、胴体に絡み付く。
「ふふふ、形勢逆転ですわね」
ゆらり、ゆらりとセシルは左右に揺れながら近づいてくる。
「跪きなさい!」
ヴェルナは状況を理解できないまま引き寄せられ、セシルの爪先がカウンター気味に鳩尾に突き刺さる。
肺から強制的に空気を搾り取られ、意識が途切れる。
二度、三度とセシルはヴェルナを蹴り上げ、つまらなそうに足を止めた。
「丈夫な腹筋ですこと」
「あたしのチャームポイントだからな」
セシルの顔から表情が消える。
「そのチャームポイントが私の蹴りに耐えられるか、試してみましょうか?」
「真っ平ごめんだね」
「そうは言っても打つ手がありますの?」
「基礎の攻性魔術しか使えないのに、って意味なら魔力が何か分かってねえ証拠だぜ」
魔術は魔力を物理現象に転化する技術だ。
「教えてやるよ、魔力の使い方ってヤツを!」
魔力が爆発、影の触手が次々と消滅する。
魔力を急激に消耗したせいで視界がぶれる。
「影よ!」
セシルの影から触手が伸び、ヴェルナの腕に絡み付くが……、
「しゃらくせえ!」
ヴェルナは力を振り絞り、魔力を爆発させた。
真紅の魔力に晒された触手は身悶えするように消える。
「たかだか触手一本に魔力を消費して、魔力の使い方が聞いて呆れますわ!」
「けど、脱出はできたぜ!」
後退りながらヴェルナは次々と伸びる影の触手を躱した。
余裕なんてない。
魔術の多重起動も、魔力の爆発も、ギリギリまで隠しておきたかった。
切れるカードは残り二枚だ。
両方とも練習で一度も成功していないギャンブル性の高いカードだ。
やれるか? とヴェルナは一瞬だけ視界をスライドさせる。
真剣な面持ちで頷くアッシュ先生を見て、拳を固く握り締める。
「さぁ、後がありませんわよ!」
「後がないなら先に進むだけだ!」
力強く踏み出し、ヴェルナは右腕を一閃させた。
触手の群れはヴェルナを素通りし、ぼとぼとと地面に落ちた。
「たかが手刀で?」
「ただの手刀じゃねえよ」
ヴェルナは軽く腕を上げ、真紅に輝く右拳を示した。
魔力を収束させ、より強力な魔力圏を発生させたのだ。
「今度はあたしから行くぜ!」
両手、両足に魔力を収束させ、ヴェルナは触手の群れの中に突っ込んだ。
鎧袖一触、電光石火、あれだけ手こずった触手を裂き、薙ぎ払い、蹴り払う。
ヴェルナが大きく足を踏み出した瞬間、石柱が地面から飛び出した。
半歩でも踏み込んでいたら顎を砕かれていただろう。
石柱を迂回してもセシルの姿はない。
ヴェルナは反射的に空を見上げ、その分だけ反応が遅れた。
何かが右肩を掠め、血が噴き出した。
セシルは軽やかに着地し、不思議そうにヴェルナを見つめた。
「心臓まで断ち切れるはずでしたのに、コートに何を仕込んでますの?」
「アリス先輩に防刃繊維で編んだ布を縫い込んで貰ったんだよ。お前こそ、何かしやがったな」
「貴方のマネをしただけですわ」
セシルが剣を軽く上げると、刃が魔力によって禍々しい輝きを放っていた。
これだから天才は、とヴェルナは内心歯がみした。
あれだけヴェルナが苦労した魔力の収束を容易く真似されては立つ瀬がない。
それにしても、
「随分と『らしく』なって来たじゃねえか。それとも、アレか? 力に振り回されてるんじゃなくて、意識的に使ってんのか?」
「真逆、憎悪が足りなかったと言った通り……貴方が憎くて、壊れてしまいそうですわ」
セシルは自分の体を抱き締め、蕩けた息を吐き出した。
極度の興奮状態にあるとヴェルナにも想像できたが、問題はセシルがその状態を制御してしまっていることだ。
「先程、ヴェルナさんは言いましたわね? 地力が互角なら冷静な方が試合を優位に進められるのは道理、と」
「ああ、言ったぜ」
「訂正を要求しますわ、地力が互角なら……殺意を研ぎ澄ませた方が優位に立てると。例えば、こんな風に!」
影から触手が溢れ、まるで愛撫するようにセシルの体に絡み付く。
溶け合い、厚みを失った触手は蛮族の戦化粧のようにセシルの白い肌を彩った。
「さぁ、仕切り直しですわ」
セシルが何の気負いもなく、拳を突き出した。
スピードも、技もない、拳を突き出しただけだ。
それなのに触られたと意識した瞬間、ヴェルナは吹き飛ばされていた。
ゴミのように転がり、武舞台から転げ落ちそうになった所で跳ね起きる。
「……魔力の使い方が分かってるじゃねえか」
「あら、私は拳を突き出しただけですわ」
「チッ、垂れ流した魔力で魔力圏が形成されてるのか」
「降参するなら今の内ですわよ」
「ホザいてろ」
ヴェルナは拳を、セシルは剣を構え、同時に地面を蹴った。
走りながら魔力圏を通常モードに切り替えたが、形勢はセシルに大きく傾いていた。
セシルの剣が掠めるたびにコートが紙のように切り裂かれ、懐に飛び込んでも他愛のない一撃で吹き飛ばされる。
体中の骨が軋み、内臓が悲鳴を上げ、折れそうになる心を立て直し、ヴェルナは何度も立ち上がった。
「いい加減、諦めた方が宜しいのではなくて?」
「こんな所で、諦められるくらいなら、最初から学園に入学してねえんだよ」
諦めた方が楽だろうな、と思う。
孤児院にいた時から何度も同じことを考えて、そのたびに自分を叱咤してきた。
「諦めたら、何もかも、終わっちまうんだよ」
感覚のなくなった腕で体を起こし、震える足で立ち上がる。
「第一、あたしが諦めたら……誰が」
誰がセシルを助ける、と言葉を飲み込んだ。
「変わりましたわね、一年生の頃とも、一週間前のヴェルナさんとも違うように感じられますわ」
「お前が半殺しにしたライカのお陰だよ」
ちらりとライカを見る。
「この一週間で忍耐力を鍛えられたぜ。毎晩あたしのベッドに忍び込んで来るし、涎でシャツを汚すし、ヴェルナとか呼び捨てにしやがるし……」
ライカはヴェルナが精霊騎士の理想を教えたと言った。
だから、こんな所で諦めていられない。
立ち上がっても状況は変わらない。
それでも、セシルから余裕が失われるのが分かった。
セシルは興奮状態を制御していたが、それは圧倒的な力の差が心理的余裕に繋がっていたからだ。
「何故、倒れないんですの!」
今にも崩れ落ちそうな体を支え、ヴェルナは不敵に笑った。
「ああ、もう良いですわ!」
駄々っ子のようにセシルは剣を振り回し、
「切るぜ、最後のカード! スラッグ、多重起動!」
スラッグを一斉に炸裂させ、ヴェルナは加速する。
残り少ない魔力を循環させ、超加速に耐える。
「甘いですわ!」
セシルは石柱を召還、ヴェルナに対する防御として配置する。
この技はカウンターに対して脆弱だ。
遮蔽物を置かれただけで致命的なカウンターになる自爆技だった。
石柱に激突する寸前、ヴェルナは右半身に留めていたスラッグを炸裂させた。
視界が真横にスライドする。
スラッグの衝撃で軌道を強制的に変えたのだ。
断絶しかねない意識を繋ぎ止め、セシルの背後から脇腹を一撃。
「この!」
セシルは振り向き様に剣で薙ぎ払うが、そこにヴェルナはいない。
更に背後から、更に正面から腹を、
「ヴェルナ、ヴェルナ・トゥルーズ!」
セシルが叫ぶが、答える余裕などない。
更に、更に、更に、際限なくヒットアンドアウェイを繰り返す。
魔力も尽きる、体力も尽きるだろう。
いつまで意識を保っていられるかも分からない。
「あ……ぁぁぁぁぁっ!」
セシルは壊れたように叫び、剣を振り下ろした。
石畳が砕け、石片が散弾のように飛び散る。
幾つか石片がヴェルナに突き刺さるが、爆心地にいたセシルの方がダメージは大きい。
セシルが力尽きたように頭を垂れる。
ヴェルナは拳を振り上げ、セシルの笑みを見た。
ぞっとするような笑みだ。
手元が霞むほどの超スピードで剣が跳ね上がり、漆黒の魔力が残像を空間に刻む。
致死の刃が首筋に迫る。
死を覚悟したその時、視界が下に落ちた。
イエルに足を引っかけたのだ。
踏み出した足を軸足に変えて反転、刃が通過する音を後頭部で聞く。
関節が連動、遠心力を利用し、ヴェルナはセシルの顎に裏拳を叩き込んだ。
セシルは震える足で体を支えようとしたが、それすらもままならずに両膝を屈した。
「顎を、撃ち抜いたから……脳震盪ってヤツだ」
「こんな所で、こんなことで!」
立ち上がろうとするが、セシルの体は動かない。
「もっと、もっと、力を寄越しなさい! 力、力、ヴェルナさんに勝てるだけの力を!」
セシルの願いに応えようと影の中から狂精霊が這い出した。
目を背けたくなるくらいおぞましい姿だ。
形状は球体、色はデタラメに絵の具を混ぜ合わせたような濁った黒だ。
体表に浮かぶ無数の眼球は血走り、口から涎と意味不明な呻き声を上げている。
「この段階でセシルが勝ってんだけどな……アッシュ先生!」
「はいはい」
ヴェルナが呼ぶと、アッシュ先生は武舞台の端に立った。
手の平を突き破って現れた銀色の拳銃が漆黒の雷を放つ。
漆黒の雷は狂精霊を包み、少しずつ狂精霊の存在を削り取っていく。
「何を!」
「アッシュ先生が狂精霊を削ってるんだよ」
「貴方、自分が何を言っているか、分かってますの?」
「こんなことしたら失格に決まってるし、精霊騎士にもなれねえよな」
はぁ、とヴェルナは溜息を吐いた。
「私のことを嫌っていたんじゃ?」
「嫌いに決まってんだろ、タコ! 会うたびに挑発してきやがるし、アッシュ先生をバカにしやがるし、ライカを半殺しにするは、イエルをへし折るは、精霊騎士になれなくなるは、これであたしに好かれてると思ってたら、完全に病気だぞ、病気!」
だったら、どうして……とセシルがヴェルナを見上げる。
「死んで欲しいって思うほど嫌ってねえし、あたし自身が助けられた側の人間だから見捨てられねえだろ」
あたしって本当に馬鹿なんじゃ? とヴェルナは頭を掻いた。
指先に血が絡み、乾いた血が落ちる。
はぁ、とヴェルナは気の抜けた溜息を吐いた。
狂精霊は抵抗しているようだが、それも長く続かないだろう。
「とにかく、これで終わ……っ!」
ヴェルナが言い切るよりも早く、突撃槍が武舞台を引き裂いた。
突撃槍はヴェルナの真横を通り過ぎ、動けないアッシュ先生を貫いた。
少なくともヴェルナには貫いたように見えた。
声もなく、アッシュ先生は武舞台から転がり落ちる。
ライカとアリス先輩が駆け寄るが、二人の顔面は蒼白だ。
「あんた、自分が何をやったか分かってんのか!」
レドリック・クロフォードは悪びれもせずに肩を竦めた。
「分かってねえのかよ! 今のがセシルを助ける最後のチャンスだったんだぞ!」
「ぎぃぃぃぃぃぃっ!」
叫び声に振り向くと、狂精霊がセシルの体に絡み付いていた。
真っ白な肌が糸のように細い触手に侵され、
「クソッ! セシルから離れろ!」
セシルと狂精霊の間に飛び込み、ヴェルナは残り少ない魔力を燃焼させる。
「来るんじゃねえ!」
厳然と命じるが、狂精霊はヴェルナの魔力圏を容易く浸食する。
「どうして、こんな、こんなマネしやがった! セシルはあんたの教え子だろ! 精霊と同化させちまって良いのかよ!」
「それは狂精霊ではない」
「そんな訳ねえだろ、スカタン! おい、審判! 試合を止めろ!」
睨んだが、審判は目を逸らしただけだった。
「……お前ら、教師だろ」
「我々は教師である前に精霊騎士だ。我々が狂精霊でないと言った以上、それは狂精霊などではない。試合は継続中だ、そこにいる二人もアッシュ・キルマーのようになりたくなければ試合の邪魔をするな」
突撃槍がアッシュ先生から離れ、レドリック・クロフォードの手に戻る。
彼の口元に狂精霊など比べものにならないくらい醜悪な笑みが刻まれる。
「……ざけんな、ふざけんな!」
胸に、心に火が灯る。
「……ヴェルナさん、私を捨てて」
「馬鹿なことを言うな! あたしは見捨てねえ! お前も自己犠牲の精神とか発揮してる暇があったら足掻けよ! あたしを殺す、殺す言ってたくせに真っ先に諦めてんじゃねえ!」
「貴方は、火傷しそうなくらい、眩しい、だから……」
突き飛ばされ、それでも、ヴェルナは手を伸ばした。
けれど、伸ばした手はセシルに届かない。
セシルが狂精霊に飲み込まれる。
最後の瞬間、セシルは泣いているような笑みを浮かべていた。
「セシル!」
ヴェルナは殴り掛かったが、武舞台の端まで跳ね飛ばされただけだった。
武舞台の中央で狂精霊は動きを止めていた。
異変が生じる。
狂精霊の体が内側から鈍器で叩かれているかのように激しく歪み、黒い錐のようなものが体表を突き破った。
絡み合い、溶け合い、膨れ上がり、捻れた大樹となる。
眼球と口に覆われた異形の樹、その上部の洞にはセシルがいた。
「……あ、あ」
その異形の樹をヴェルナは知っていた。
セシルを助けなきゃいけない。
足を踏み出さなきゃいけないはずなのに恐怖で足が竦んだ。
ああ、知っている。
あれは絶望だ。
「どうして、助けてくれなかったの?」
その一言で八年前の記憶が噴き出した。