第三章『分岐、最悪の選択』その5
※
地ならしが終わったのは昼過ぎだった。
その後は予定通り、イーストシティーを見て回った。
ライカは精霊騎士の詰め所にさえ目を輝かせ、予想の斜め上を行くはしゃぎぶり。
流石にライカが馬車に轢かれそうになった時には肝を冷やしたが、それ以外にトラブルらしいトラブルは起きなかった。
そして、夕方……自然公園に足が向いていた。
「喉が渇いたぞ」
「何処までマイペースなんだ、お前は」
らしいと言えばらしいか、と財布から銅貨を三枚取り出してライカに手渡す。
「あそこの屋台で三人分のジュースを買って来い。絶対に転ぶなよ」
「私は子どもではないぞ」
「何か、転びそうなんだよな」
不満そうに唇を尖らせるライカを見送り、ヴェルナはベンチに腰を下ろした。
「……あんなに楽しそうなライカ様は久しぶりです」
「そうか?」
「前ローランド伯爵が亡くなられて以来、鬱いでいることが多かったものですから。それも全てヴェルナ様のお陰ではないか、と」
「あたしの方がライカやイエルに助けられてる感じがするけどな」
「そうでしょうか?」
「そうさ。それにライカが元気になったのはイエルがいたからだろ」
「私は……ライカ様を利用しているだけなのかも知れません。精霊器は生存戦略の一つとして自我を確立しているのですから」
「そんなことねえよ」
ヴェルナは確信を持って答えた。
「ですが、私は「自分の存在が歴代当主を戦いに駆り立てたんじゃないか?」」
イエルは大きく目を見開いた。
「短い付き合いだけど、イエルが考えそうなことくらい分かるさ」
多分、イエルは疑問を抱き続けてきたのだろう。
イエルの心が人間に近づけば近づくほど、精霊器の在り方と矛盾してしまう。
「あたしは、歴代当主達はイエルに感謝してたと思う」
「そう、でしょうか?」
「精霊騎士として戦わなければ、長生きできたヤツもいたかも知れねえけど……お前がいたから、大切なものを守れたヤツもいたはずだぜ。少なくとも、イエルは選択肢を与えたんだ。それを恨むヤツなんていねえよ」
ヴェルナはイエルの手を掴んだ。
イエルの手は仄かに温かかった。
自己保存のためだけならば、この温もりは必要ないはずだ。
生存戦略と言うのなら、精霊士であるライカなんて見捨ててしまえば良い。
「イエルが、つーか、精霊器が人間の姿を取るのは生存戦略のためじゃなくて、あたし達に寄り添おうとしてくれているからだって信じてる」
きっと、精霊器は願ってくれたのだ。
触れ合い、喜びも、悲しみも共有したいと。
「あたしは従士ですらねえけど、精霊騎士になったら、イエルみたいなヤツと一緒に戦いたいな」
「ヴェルナ様」
ヴェルナは体を起こし、いかにもおっかなびっくりと言う風にジュースを運ぶライカを眺めた。
ライカは危うい足取りジュースを運び終え、
「どうだ、転ばなかったぞ」
「威張る所じゃねえよ」
ヴェルナは不満そうに唇を尖らせるライカから二人分のジュースを受け取り、片方をイエルに差し出した。
「イエルの分だぜ」
ヴェルナが言うと、イエルは遠慮がちに紙のカップを手に取った。
ヴェルナはジュースを一気に飲み干し、近くのゴミ箱に向けて投げる。
コン! とカップはゴミ箱の縁に当たり、内側に落ちた。
「じゃ、帰るか」
立ち上がり、ヴェルナは息を吐いた。
「疲れたのか?」
「充実した一日だったな、って」
ヴェルナは不思議そうに見上げるライカの頭を乱暴に撫でた。
「む、すまんが、先に帰ってくれぬか?」
「別に構わねえけど……イエル、ライカと一緒に行ってやってくれ」
「かしこまりました」
イエルは恭しく一礼し、ライカの後を追った。
※
夜になっても二人はアパートに戻らなかった。
イエルがいるから大丈夫だと思うが、奇妙な胸騒ぎがした。
「やっぱり、探しに行くか」
外に出ると凍てついた空気が肌を粟立たせた。
通りに人気はなく、月明かりが白々と降り注ぐ街は廃墟のようだ。
川沿いの道、商店街、公園……少しずつ不安が募る。思い出すのは八年前の出来事だ。
「何を考えてるんだよ、あたしは!」
細い路地に入り、ヴェルナは足を止めた。
一瞬、頭の中が真っ白になった。
何も見えないし、何も聞こえない、何も理解したくない。
自分の呼吸音と心臓の鼓動だけが響く。
「……あ」
沈黙を破ったのはヴェルナ自身の呟き。
「……カ……イカ、ライカ!」
足を縺れさせ、ヴェルナは路地裏に倒れるライカに這い寄った。
天使のように愛らしかった顔は見るも無惨に腫れ上がり、右腕はあらぬ方向に曲がっていた。
右手に握り締められたイエルは鞘に収められた状態で折れていた。
ヴェルナはライカを抱き上げ、何度も、何度も名前を呼んだ。
全身が熱かった。
チリチリと指先が焼け付くようで、唾液を飲み下せないくらい舌が痺れていた。
「誰か! 誰か!」
助けを求め、ヴェルナはライカを抱き上げて、路地裏から這い出した。
それから後のことは覚えていない。
一緒に連れて行かれた病院の手術室……その前でヴェルナは祈り、祈り続けて、
「……んだ。折れた肋骨が肺に突き刺さって……のか、意識が戻らない。できる……けの処置は施したが……この二日間で意識が戻らなければ覚悟してくれ」
誰かが目の前で話しているのに気付いて顔を上げると、アッシュ先生が立っていた。
もう一人は医者だ。
医者は励ますようにアッシュ先生の肩を叩くと足早に立ち去った。
「あ、アッシュ先生」
「ヴェルナさん、立てますか?」
ヴェルナは曖昧に頷き、震える足で立ち上がった。
「ライカは?」
「今日、明日が峠だそうです」
手術室の扉が開き、移動式のベッドに乗せられたライカが通り過ぎる。
走り寄ろうとしたもののアッシュ先生に阻まれ、ヴェルナは黙って見送ることしかできなかった。
「先生、ライカは助かるよな?」
アッシュ先生は答えなかった。
時に言葉よりも沈黙の方が雄弁だと、ヴェルナは初めて知った。
「……帰る」
「ヴェルナさん!」
壁にぶつかり、廊下の植木を倒し、ヴェルナは病院の外へ飛び出した。
路地裏でライカを見つけてから何時間過ぎたのだろう。
白々と輝いていた月は厚い雲に覆い隠され、氷のように凍てついた雨が降っていた。
闇と氷雨を掻き分け、血のような赤が視界に入った。
赤い傘だ。
「あら、ヴェルナさん。こんな遅くまで何かされてましたの?」
「……うるせえよ」
ヴェルナはセシルの脇を擦り抜け、
「そう言えば、貴方の同居人が病院に運び込まれたとか」
他人事のような呟きに足を止めた。
「セシル、何を知ってる?」
「正しくは貴方の同居人と精霊器に何をしたのか、ですわ」
セシルは赤い傘を持ち替え、舞うように軽やかなステップを踏んだ。
彼女はヴェルナの正面に回り込み、亀裂のような笑みを浮かべた。
「許さない、と襲い掛かってきたから身を守ろうとしただけですのよ? 少しやり過ぎてしまいましたけど、仕方がありませんわ。だって、あの娘は私がヴェルナさんを殺そうとしていたことを知っていたんですもの」
ライカがヴェルナを先に帰らせた理由にようやく気付けた。
誰がヴェルナを殺そうとしたのか、ライカは知っていたのだ。
誰が犯人かなんてヴェルナにも分かり切っていた。
けれど、対処をミスった。
せめて、ライカにだけは事実を伝えておくべきだったのに。
「……ああ」
こいつを殺そう、とヴェルナは覚悟を決めた。
あたしは地獄の住人だ。
人間の命に価値があるなんて欠片も信じていない。
友達を見捨てて生き延びた。
だから、クラスメイトでも殺せる。
「お前だけは……ぶち殺す!」
ありったけの殺意で魔力圏を形成、ヴェルナはセシルに殴りかかった。
「影よ、在れ!」
セシルの影が実体化し、ヴェルナの四肢に絡み付く。
「スラッグ!」
ヴェルナは爆発を利用して四肢に絡み付いた影を引き千切り、転倒寸前の低い姿勢から拳を振り上げる。
セシルは上体を逸らして躱すが、その隙にヴェルナは距離を詰める。
完全なゼロ距離。
「……スラッグ」
スラッグが肘で炸裂、撃ち出された拳がセシルの脇腹に深々と突き刺さる。
セシルは血と吐瀉物を撒き散らしながら地面を転がり、凄絶な笑みを浮かべた。
初めは小さな忍び笑い、それは哄笑へと変わる。
「頭の捻子がぶっ飛んでるのか?」
「くふ、あはははははっ! 頭の捻子が飛んでいるですって?」
ゆらりとセシルは立ち上がる。
「嬉しいからですわ! 貴方に憎まれるのが嬉しい! 貴方に殺意を向けられることが堪らなく嬉しい!」
「てめぇ!」
「貴方に狂ってますわ!」
ヴェルナが拳を打ち下ろすと、セシルは横に転がって躱した。
泥に塗れるが、セシルはそれすらも楽しいと言うように笑みを崩さなかった。
雨の膜を突き破り、影が槍のように伸びる。
「殺すと言ったぞ、あたしは!」
腕を横凪に、影の槍を切断する。
その隙にセシルは立ち上がり、軽やかなステップで後退。
ヴェルナは分厚い雨の層を押し退けながら空間を踏破する。
まるで恋人を迎え入れるようにセシルは両腕を広げ、四方から影の槍が伸びる。
死……そんな言葉が脳裏を掠めるが、ヴェルナは躊躇しなかった。
「ああああああああああっ!」
影の槍が太股を、脇腹を切り裂く。
だが、ヴェルナは止まらない。
怒りのあまり痛みさえ感じなかった。
だから、軽い衝撃が太股を貫いたことを気にも留めなかった。
ヴェルナはセシルに肉薄し、一瞬だけスピードを鈍らせた。
赤く泣き腫らしたような右目に意識を奪われたのだ。
セシルが愛撫するような手付きでヴェルナの下腹部に触れる。
「……スラッグ」
呟きは睦言のように、ヴェルナの下腹部でスラッグが炸裂する。
服が破け、腹筋が露わになる。
踏ん張ろうにも足が動かない。
見れば、太股には傘が突き刺さっていた。
ヴェルナは壁に叩きつけられ、そのまま崩れ落ちた。
「てめぇは殺す!」
「その程度の憎しみでは足りませんわ」
セシルは傘の柄を掴み、円を描くように回す。
痛みが脳髄を直撃、喉元まで這い上がる絶叫をヴェルナは意地で噛み殺す。
ぎらぎらと瞳を輝かせながらセシルが傘の先端を押し込み、ヴェルナは今度こそ堪えきれずに絶叫した。
「その声、その声が聞きたかったんですの!」
「そう、かよ!」
ヴェルナが手刀で傘の軸を折ると、傘に全体重を預けていたセシルの上体が泳いだ。
苦し紛れか、セシルは傘を抜く。
ヴェルナは彼女の首を掴んだ。
「言っただろ、殺してやるって?」
「最期に宜しいかしら?」
ヴェルナは答えなかったが、セシルは了承と受け取ったらしい。
「あの娘……ライカ、さんだったかしら、見えるように腕を折ってあげても鳴き声一つあげませんでしたわ。精霊騎士になるとか、必死に我慢してましたわよ」
「そんなに死にたいのか?」
「いえ、時間を稼いだだけですわ」
セシルはこともなげにヴェルナの手から逃れ、再び亀裂のような笑みを浮かべた。
何故? と疑念が脳裏を過ぎる。
それを見透かしたようにセシルはヴェルナの太股を指差した。
太股に穿たれた穴から血が溢れていた。
「それほど出血して、普段通りの握力が出せるはずがありませんわ」
「……ク、ソ」
セシルの影が横に倒れそうになったヴェルナを支える。
影がヴェルナに絡み付き、白煙を上がる。
痛みはなかった。
「ゆっくり、ゆっくり、私の内側で溶かして差し上げますわ。そして、貴方も私の一部になりなさい」
「ああ、それは困りますね」
溜息でも吐くような声音と共に漆黒の雷が飛来し、セシルの影を吹き飛ばした。
「アッシュ・キルマー、私の邪魔をなさるつもりですの?」
「その程度の力で教師を呼び捨てにするなんて増長が過ぎますよ」
拳銃を片手に、アッシュ先生はセシルと距離を詰める。
踏み込めば手が届く距離でセシルは人間とは思えない甲高い悲鳴を上げた。
その呼び声に応じるかのように闇の触手が伸び、
「精霊器を使うのも面倒ですね」
アッシュ先生は無造作に腕を一閃させた。
それだけで闇の触手は切断され、降りしきる雨まで上下に切り裂かれた。
「私を殺すつもりですの?」
「真逆。けれど、貴方が突っ掛かってくるのなら話は別です。ライカさんを半殺しにされて、気分も悪い。すぐに逃げないと……殺すぞ、セシル!」
禍々しい漆黒の魔力……魔炎がアッシュ先生の全身を包んだ。
いや、アッシュ先生が別の存在に変わろうとしているのだ。
セシルは甲高い悲鳴を上げて逃げ出した。
ヴェルナは呆然とアッシュ先生を見上げ、そのまま気絶した。
※
いつから目を覚ましていたのか、ぼんやりとヴェルナは天井を見上げていた。
見上げているのが何処の天井なのか、思考は一つに纏まることなく垂れ流される。
側頭部に鈍い痛み。
不意に思考が纏まり、ヴェルナはアパートの天井を見上げていることに気付いた。
意識した途端、吐き気を催すような頭痛と倦怠感、痛みまで蘇り、ヴェルナはベッドの上で呻いた。
「ヴェルナさん、意識を取り戻したんですね?」
「アッシュ、先生」
ベッドの縁に腰を下ろすアッシュ先生を眺め、それからヴェルナは天井を睨んだ。
あまりにも無様な敗北だった。
あそこまで追い詰めておきながら、詰めを誤った。
徹底すべきだった。
セシルが何を言おうと首を吹き飛ばすべきだったのだ。
「あたしは、どれくらい寝てた?」
「一晩だけです」
「セシルは?」
「分かりません」
本当に分からないのか、それとも、嘘を吐いているのか。
ヴェルナが問い詰めても、アッシュ先生は分からないと繰り返すだけだろう。
「ヴェルナさん。言っておきますが、僕は貴方にセシルさんを殺して欲しいと思っていませんよ。もちろん、貴方に死んで欲しいとも思っていません」
「ああ、分かってる」
死ぬのはセシルだけだ、とヴェルナは薄い笑みを浮かべた。
「僕は大会の準備があるので先に帰りますが、本当に大丈夫ですか?」
「大丈夫だよ、先生」
軽い音を立てて扉が閉まり、ヴェルナはセシルを殺す方法を考える。
昨夜、セシルに負けた理由は視界が悪く、ヴェルナが徹底しきれなかったからだ。
明日の大会の会場ならば不確定要素は最小限に抑えきれる。
あと……憎悪が足りない。
「絶対にセシルを殺してやるからな、ライカ」
全く、何を勘違いしていたのか。
孤児院も、イーストシティーも力が全てだ。
何かを手に入れるためには、獣のように争わなければならない。
奪われないためには殺さなければならない。
殺さなければ奪われ、踏みにじられるだけだ。
誰かが耳元で囁いたような気がしたが、ヴェルナは構わずにセシルを殺すイメージを膨らませ続けた。