第三章『分岐、最悪の選択』その4
※
結局、ヴェルナはケガの治療もあったのでライカと別々に帰宅した。
「マジで、疲れた」
精も根も尽き果て、ヴェルナは汚れた制服のままベッドに倒れ込んだ。
誰も死ななかったし、商店街も守れたのに、すっきりしなかった。
「……痛かったよな」
ライカに殴られた頬を抑え、ヴェルナは息を吐いた。
見えない糸に意識を引っ張られているような感覚。
急激な眠気に思考が乱れる。
ぐんっ! と見えない糸に意識を強く引かれ、目を覚ますとライカが扉の近くに立っていた。
「起きていたのか?」
「今、起きた所だよ」
沈黙が舞い降りる。
どれくらい寝ていたのか、月明かりが窓から差し込んでいた。
奥まった所にあるこのアパートは喧噪と無縁だ。
その気になればライカの呼吸の音さえ聞き取れるような気がした。
「……ヴェルナ、私は」
声が微かに震えていた。
「寒いだろ、入れよ」
「うむ」
ライカは遠慮がちにベッドに滑り込んだ。
体が小刻みに震えているのも寒さのせいではないだろう。
「関係ないとか言って悪かったな」
「……っ!」
びくんとライカの体が大きく震える。
「う……うぐ、ふぇぇぇぇぇ」
堪えたのは一瞬、すぐにライカは不安を吐き出すように泣きじゃくった。
気が付けばヴェルナはライカを抱き締めていた。
抱き締めた理由は自分でも分からない。
もしかしたら、母性本能の発露だったのかも知れない。
どれくらいライカを抱き締めていたのか。
「……あたしの両親はさ」
「うん?」
「八年前、狂精霊に殺されたんだ。友達も、隣近所のヤツも、街ごとなくなっちまった」
答えはなかった。
別に答えを期待していた訳じゃない。
こんな話をしているのは疲れたからだろう。
「ありきたりな表現だけど、地獄だったよ。一匹の狂精霊に従士も、精霊騎士も、誰一人敵わなくて、その内に精霊が大量発生してさ」
街の中心に聳え立つ大樹の如き異形とその周辺を浮遊する無数の精霊。
「おまけに街から出られなくなって……あそこは地獄で、あたしは地獄の住人だった」
生きるために、見捨てたのだ。
炎に焼かれて狂ったように暴れる友達を、血溜まりで泣き叫ぶ友達も見捨てた。
屍で埋め尽くされた街を駆け抜け、黴びたパンを貪り、血の混じった水で渇きを癒した。
自分が生きているのか、死んでいるのかも分からないほど思考は胡乱で、
「生き延びて、精霊騎士に助けられた。もう顔も覚えてねえけど、あの人みたいになりたいって思ったんだ。いや、あたしはそうしないと立ち上がれなかったんだ」
「……ヴェルナは償いたいのだな」
「結局、そこに戻っちまうんだよな」
憧れも、積み重ねた努力も、未来ですら、八年前のあの日に結びつく。
「私達は、似ているな」
肩を揺すりライカはヴェルナと向き合う。
「私達は後悔したから、精霊騎士になろうとしている」
「才能も、適性も考えずにな」
「けど、そのお陰で私達は出会えた」
「気障な台詞は好きな相手に言えよ」
「私はヴェルナのことが好きだから問題ない。ヴェルナは私のこと好きか?」
予想外の告白にヴェルナは硬直した。
友達同士の好きと分かっているのに、恥ずかしそうに俯くライカは卑怯なくらい可愛らしかった。
「って、どうして目を閉じるんだよ!」
「接吻くらいまでなら良いぞ」
ライカはヴェルナに体を密着させ、キスを催促するみたいに顔を近づける。
吐息が掛かるどころか、心音まで分かるような距離だ。
石鹸と微かな汗の匂いに心臓が高鳴る。
あたしをからかってるのか?
けど、こいつがあたしに全てを委ねているのは事実だ。
ヴェルナは小さな桜色の唇に親指を這わせ、
「そんな訳あるか!」
「ぎゃ!」
鍛え上げた指先でライカの鼻先を弾いた。
「い、痛いではないか!」
「危うく雰囲気に流される所だったじゃねえか!」
「雰囲気に流されるのもどうかと思うが……で、ヴェルナは私を好きか?」
「き、嫌いじゃねえよ」
「くふふ、私の魅力にメロメロだな」
「ばっ、そんなんじゃねえよ!」
「……と言う訳で私は寝るぞ」
突っ込む暇もなくライカはヴェルナにしがみついて狸寝入り。
話しかけても無駄っぽいのでヴェルナは目を閉じた。
眠りに落ちる寸前、鼻先に柔らかくて湿った何かが押しつけられたような気がした。
※
小鳥の鳴き声を聞いて目を覚ますと、ベッドの上にライカの姿がなかった。
奇妙な気恥ずかしさと一抹の寂しさを覚え、未練がましくシーツに指を這わせる。
ライカの声、息づかい、細い体を思い出し、
「マヂでヤバい」
自分の危うさに気付き、ヴェルナは戦慄した。
初日に異性愛者と公言しながら五日目にしてライカに愛情を感じている自分がいる。
ちょっとした絶望を噛み締めながら、ヴェルナはのろのろとクローゼットから学園で指定された運動着を取り出す。
「今日はバイトではないのか?」
「ああ、今日から四連休だよ」
廊下に出ると、ライカに声を掛けられた。
初めて出会った時と同じフリルの付いたブラウスとチェックのスカート、細い足は太股まであるソックスに包まれている。
「馬子にも衣装とは言うまいな」
「似合ってるんじゃねえの?」
素直な感想を言ったのだが、ライカは不満そうだ。
どんな感想を言えば満足して貰えるのか、ヴェルナは頭を掻きつつ、リビングに入る。
「おはようございます、ヴェルナ様。朝食の準備が整っていますが?」
「ん、軽く食う」
席に着くと、イエルが完璧なタイミングでスープとトーストを差し出した。
琥珀色のスープには数種の野菜と肉団子が浮かび、香りが食欲を刺激する。
挨拶もそこそこにヴェルナはスープを含み、その風味豊かな味わいに舌鼓を打った。
このスープって金が掛かってるんじゃね? とヴェルナは手を止め、
「スープも、パンも、ヴェルナ様が仰った金額で収めてあります。スープは屑野菜と鶏の骨を煮立てたものですので御安心を」
スープとトーストを胃に収め、イエルから差し出された紅茶を手に取る。
香りだけでもアッシュ先生の淹れたそれと雲泥の差だ。
「じゃ、行ってくる」
「何処に行くのだ?」
「アッシュ先生と戦闘訓練」
「うぬ!」
ライカは食事の手を休めて立ち上がる。
「せ、戦闘訓練と言うことはアッシュと組み合ったりするのだろう?」
「そりゃ、戦闘訓練だし」
ライカは震える手でティーカップを口元に運び、
「……ヴェルナが残念なことになってしまった」
「待て、お前の頭であたしはどんな目に合わされた?」
「ヴェルナは地下室に監禁され……手も、足も、駆けつけた頃には手遅れ……そして、涙を浮かべながら……ヴェルナ、ヴェルナが!」
「ヴェルナが、じゃねえよ!」
ヴェルナはマジ泣きするライカに叫んだ。
「ライカ様はヴェルナ様を取られると考えているのです」
「教師と学生がそう言う関係になるなんてあり得ないだろ、常識的に考えて」
ヴェルナはライカの妄想に苦笑い。
「本当か?」
「そんなに心配だったらライカも一緒に来いよ」
「良いのか?」
「新入生が学園の雰囲気を知りたくて、ってのは普通じゃん」
「うむ、普通だな」
初めて出会った時のようにライカが微笑み、不覚にも鼓動が高鳴る。
「行ってらっしゃいませ、ライカ様、ヴェルナ様」
ヴェルナとライカが立ち上がるとイエルは恭しく一礼し、
「イエルも一緒に行こうぜ」
ヴェルナは戸惑うように目を伏せるイエルの手を強引に握った。
※
「『だから、全力で走るのは止せ』とライカ様は仰ってます」
「最初からイエルに背負って貰えば良いじゃん」
学園の正門。
途中で力尽きたライカを肩に担ぎ、イエルは淡々と通訳した。
ぐぼぐぼとしか聞こえないのだけど、パーフェクトメイドの称号は伊達じゃない。
「どちらでアッシュ様と?」
「こっちだよ」
ヴェルナは正面の建物を大きく迂回、校舎の裏手に回る。
申し訳程度の庭園を隔て、かなり広めの訓練場がある。
中央に立ち並ぶ無数の丸太、その前でアッシュ先生はヴェルナを待っていた。
「アッシュ先生」
「ヴェルナさんは時間に正確ですね」
溜息を吐くように言って、アッシュ先生はヴェルナを見つめた。
「じゃ、いつも通りに始めますか」
「ああ、こっちも体は温まってるぜ」
イエルが離れるのを確認し、ヴェルナは左半身を前に拳を構えた。
アッシュ先生は腕を下ろしたままだ。
後の先狙いの無形の型。
どんな攻撃をヴェルナが仕掛けても、対応できる自信があるのだ。
ヴェルナが魔力圏を形成しても、アッシュ先生は動こうとしない。
「行くぜっ!」
ヴェルナは一気に間合いを詰め、上段の後ろ回し蹴りを放つ。
アッシュ先生は左腕で蹴りを受け止め、流れるような動作でヴェルナの懐に飛び込む。
右の掌底が迫る。
ヴェルナは上体を逸らし、反転しながら拳を振り上げた。
だが、これは読まれていたらしく、拳が空を切る。
ヴェルナは舌打ちをしつつ後退する。
「アサルト!」
至近距離から放った魔力弾をアッシュ先生は横に跳んで躱した。
狂精霊と別の意味で牽制以上の効果は期待できそうにない。
瞬く間にアサルトを撃ち尽くし、
「アサ……!」
「遅いです」
アサルトを再起動するよりも早くアッシュ先生は間合いを詰めていた。
苦し紛れに突き出した拳をアッシュ先生は受け止め、腕を捻り上げる。
ヴェルナは関節を極められる前に自分から跳んだ。
もちろん、このままでは地面に叩きつけられてチェックメイトだ。
「スラッグ!」
爆発を利用し、膝をアッシュ先生の後頭部に振り下ろした。
文字通り必殺、当たれば必ず殺せる。
だが、必殺の一撃は空を切った。
何をされたのか理解する間もなく、ヴェルナは地面に叩きつけられていた。
手を離されたのか、とヴェルナは勢いよく立ち上がり、
「それなりですね」
いきなり足払い……のはず……を受け、再び地面に叩きつけられた。
「もう一本やりますか?」
「当たり前だろ」
意気込んでみたものの、アッシュ先生は強すぎた。
経験も、身体能力も何一つ及ばないのだ。
攻撃を躱され、受け止められ、捻られ、極められ、足を払われ続けた。
一時間も経つ頃には消耗し尽くしていた。
「最後にしませんか?」
「了解、了解……最後だし、思い切ったの行くからな」
たっぷり距離を取り、ヴェルナは拳を構えた。
ステップを踏まず、右半身になって拳を突き出す。
アッシュ先生は丸太を背にしたまま動こうとしない。
「……スラッグ」
いつもより魔力圏を強化、スラッグの多重起動。
「ちょ、ヴェルナさん! ストップです!」
「もう無理!」
慌てふためくアッシュ先生の姿に溜飲が下がる。
「スラッグ、一斉解放!」
爆音と共にヴェルナは二十メートルの距離を一瞬で踏破した。
アッシュ先生はヴェルナの拳を両手で受け止める。
だが、それくらいでヴェルナは止まらない。
と言うよりも止まれなかった。
今ので死んだ、とヴェルナは直感した。
今、生きていられるのはアッシュ先生が拳を受け止めてくれたからだ。
自分で止まれないのだから、丸太にぶつかっただけで致命的なカウンターになりかねない。
死ぬ、とヴェルナは骨の軋む音を聞きながら確信する。
作用と反作用……猛烈な負荷を前後から駆けられているのだ。
リンゴを握り潰すシーンが脳裏を過ぎる。
魔炎がアッシュ先生を包んだ瞬間、ヴェルナは止まっていた。
いや、アッシュ先生が魔力圏で慣性を『なかった』ことにしたのだ。
「……ヴェルナさん」
「ごめん、先生」
アッシュ先生は溜息を吐いた。
「僕じゃなかったら二人とも死んでましたよ」
「う、ごめんなさい」
分かれば良いんですけどね、とアッシュ先生は乱暴にヴェルナの頭を撫でた。
まあ、ヴェルナの方が背が高いから撫でているようには見えないだろうけど。
「整地を済ませたら今日の訓練は終了です」
「……了解」
ベンチまで整地用の道具を取りに行くと、ライカが心配そうにヴェルナを見ていた。
「ヴェルナ、最後のあれはないと思うぞ」
「反省してる」
「ふむ、アッシュは強いが……攻略パターンが読めたぞ」
ライカは悪役じみた笑みを浮かべた。
「具体的にどうすんだよ?」
「まあ、見ておれ」
これでもか! とライカは慎ましい胸を張った。
「アッシュ! 次は私の相手をして貰おう!」
「別に構いませんよ」
「先手必勝! 石柱、召還!」
ライカが地面に触れた瞬間、石柱がアッシュ先生を取り囲むように隆起。
「流炎瀑布!」
小さな火がライカの手の中に灯る。
瞬く間に膨れ上がった炎はライカの手を離れ、石柱の内側に降り注ぐ。
「動けなくなった所を攻撃すれば、アッシュが強くとも関係ない!」
昨日の出来事を再現しているだけなのだが、ライカは自分の手柄であるかのように慎ましい胸を張った。
「接近されたら、どうするんです?」
「何を言っておるのだ、貴様は。近づかれたら……っ!」
ライカは距離を取ろうと後退ったが、アッシュ先生の方が早い。
軽く、本当に軽くアッシュ先生の拳がライカの腹を打ち……、
「ぐぼっ!」
「あれ?」
たった一撃でライカは沈んだ。
あれ? と言うのはアッシュ先生の呟き。
「手加減をミスったんじゃなくて、ライカが貧弱なんだよ」
「だ、だ、誰が貧弱か!」
「お前だよ、お前」
「ひぁっ! や、やめんか、胸まで揉むな!」
ヴェルナは焼きたてのパンのように柔らかなライカの体を揉みしだいた。
恥ずかしそうに頬を染め、懸命に声を漏らすまいとする姿は……かなりエロい。
まるで犯罪者にでもなったような気分になり、ヴェルナはそっと手を離した。
「う、うぐ、汚されてしまった」
「防御力皆無の砲台って感じだよな」
ここまで中長距離用攻性魔術に特化している学生は学園にもいない。
うぐうぐと言い続けるライカを横目にヴェルナは溜息を吐いた。
ヴェルナは整地用のトンボを握る。
「いつまでもグボグボ言ってないで、さっさと片付けるぞ」
「ヴェ、ヴェルナ……たった今、私は甚大なダメージを受けたばかりなのだが?」
「そんなの動いてりゃ治るって。大体、お前が石柱を引っ込めてくれないと片付けようがないだろ」
「で、では、石柱を引っ込めたら少し休ませて貰っても良いだろうか?」
ライカは演技過剰気味にお腹を押さえる。
媚び媚びの上目遣いで首を締めてやりたい所だ。
「無理をさせても仕方がねえし、石柱を引っ込めたらベンチで休んで良いぜ」
「う、うむ」
ライカが手を地面に置くと石柱が沈んでいく。
「お疲れさん」
「……う、うむ」
「手伝ってくれるんなら予備のトンボはベンチだ」
「うむ、ヴェルナがそこまで言うのなら仕方ないな」
ライカは渋々と言った感じで地ならしを始める。
「あのライカさんが素直になったものです」
「仲間外れにされるのが嫌だっただけじゃね?」
アッシュ先生は口を動かしながらも手際よく地面をならしていく。
「この辺りは僕がしますから、ヴェルナさんはライカさんに付いていて下さい」
「ん、了解」
トンボを担ぎ、歩み寄るとライカは嬉しそうに口元を綻ばせる。
ざりざりと穴だらけになった地面をならす。
「……毎日、学園の学生はこんなことをしているのか?」
「毎日ってほどじゃねえな。一年だと体術は型稽古が基本だし、魔術は基礎的な理論と実習って感じ。二年になってから模擬戦闘が入ってくるんだけど、座学もやらねえと選考会に参加できなくなるから気をつけろよ」
「それが分かっているのに、ヴェルナは座学を勉強しなかったのか?」
「あたしは学校に行ってなかったから、ついていくだけで手一杯だったんだよ」
「孤児院では勉強を教えてくれなかったのか?」
「あたしのいた所は教えてくれなかったな」
そんな所だったから読み書きできるヤツも、まともな職に就けるヤツも少なかった。
「ヴェルナは凄いな」
「凄くなんてねえよ」
「謙遜は美徳ではないぞ」
「赤の他人に学費を負担させて、アッシュ先生に色々と世話になって、他人の世話にならなきゃ生活もままならねえくせに一年生の頃は喧嘩ばかりしてたんだから、恥ずかしくて自慢できねえだろ」
やけにセシルが突っ掛かってくるのはそれが理由なのかも知れない。
あたしが間違ってたとか言うのも都合が良すぎるよな、とヴェルナは溜息を吐いた。
「この後、時間あるよな?」
「売るほどあるぞ」
「街を案内してやるから、早く片付けようぜ」
「うむ!」
ライカは大きく頷き、地ならしを再開した。