第一章 『邂逅、始まる物語』その1
触手が濁った風切り音と共に繰り出される。
触手と言っても、赤ん坊の腕よりも太いそれは人体を容易に破壊する凶器だ。
普通の人間ならば恐怖で足が竦む。
だが、ベテラン従士は敵……狂精霊の間合いに臆することなく踏み込んで行く。
擦れ違い様に短剣で触手を切り落とし、短剣を狂精霊に突き立てる。
ベテラン従士は巧みな短剣捌きでダメージを積み重ね、全ての触手を切断するまで長い時間は掛からなかった。
経験の浅い従士ならば一気に畳み掛けようとしただろうが、ベテラン従士は攻撃の手を休めた。
どれだけ戦闘を優位に進めようと、狂精霊が見た目通りのダメージを受けているとは限らないからだ。
狂精霊の体は魔力で作られた仮初めのものだ。
体が半分になっても死なず、魔力がある限り肉体を再構築することができる。
逆に言えば、狂精霊は魔力を消耗し尽くせば死ぬのだ。
そのために肉体を損傷させ、魔力の消耗を促す必要がある。
もっとも、戦い方を選べるのはベテランと呼ばれるだけの豊富な経験と高い技量があってこそだ。
実戦経験も、高い技量もないヴェルナにできることと言えば、
「そこ、入るんじゃねえ!」
公園に入ろうとした一般人を追い返すくらいだ。
ヴェルナは誰も公園にいないことを確認し、戦闘に意識を戻した。
目を離している間に、狂精霊は再生を終えていた。
宙に浮いている点を除けば、狂精霊の姿はクラゲに似ている。
風に流されているのか、狂精霊はゆらゆらと不規則に揺れ動く。
ベテラン従士が間合いを詰めると、狂精霊は小魚のような俊敏さで距離を取った。
ベテラン従士は狂精霊の意図を探るように目を細める。
攻撃を仕掛けるべきか、このまま動向を窺うべきか。
ベテラン従士が選んだのは前者だった。
狂精霊は時間が経てば経つほど強くなる。
慎重さも大事だが、それで事態を悪化させたら本末転倒だ。
ベテラン従士は一気に間合いを詰め、狂精霊に触れる。
刹那、狂精霊が青い閃光と共に爆ぜた。
魔術を使ったのだ。
魔術は世界中に存在し、あらゆる生物が宿すエネルギーである魔力を物理現象に転化する技術だ。
元は錬金術の奥義であり、神の御業の粗雑な模倣ともされているが、今は戦闘技術の一つだ。
狂精霊はゴミのように地面を転がり、その勢いを保ったまま公園から飛び出した。
狙っていたのか、あるいは偶然か。
ベテラン従士の顔が後悔に歪む。
だが、それも一瞬の出来事だ。
不確定要素は戦闘に付き物だ。
トラブルから素早く立ち直り、どのように帳尻を合わせるのか。
少なくとも、ここで諦めてしまうような人間はベテランと呼ばれない。
「ハイアクセル!」
青い光がベテラン従士を包み、筋肉が骨を軋ませながら膨れ上がる。
ベテラン従士は苦痛に耐えるように唇を噛み締め、解き放たれた矢のように駆け出した。
強化系魔術ハイアクセル……一時的に身体能力を高める魔術だ。
使用直後は身体機能が著しく低下するため、チームを組んでいる時に使うべき魔術だ。
つまり、今は定石を無視しなければならないほど危機的状況なのだ。
どくんと心臓の鼓動が跳ね上がる。
脳裏を過ぎったのは古い記憶だ。
街を埋め尽くす死体。
捻れた大樹。
「そんなこと、させるか!」
真紅の光……魔力がヴェルナの胸から迸り、循環する魔力が魔力圏と呼ばれるフィールドを形成する。
魔術が魔力を物理現象に転化する技術ならば、魔力圏は効果範囲内の物理現象を歪める技術である。
元々は精霊が恒常的に使っている能力で、狂精霊が宙に浮いていたのも魔力圏の効果によるものだ。
完成された魔力圏の中で術者は万能の存在になるとさえ言われるが、人間であるヴェルナの魔力では身体能力を上げ、魔術を弱体化させるだけで精一杯だ。
「うらぁぁぁぁぁぁっ!!」
ヴェルナはハイアクセルに匹敵するスピードで公園を駆け抜けた。
だが、匹敵するスピードでは足りない。
ベテラン従士の姿が霞んで見える。
狂精霊の姿は全く見えない。
「あ、あぁぁぁぁぁぁっ!」
魔力圏が強く輝き、ヴェルナはトップスピードを越えて加速した。
ベテラン従士を追い抜き、狭まった視界が狂精霊を捉える。
けれど、安心するのは早い。
狂精霊は河に逃げ込もうとしている。
複雑に入り組んだ下水道に逃げ込まれたらアウトだ。
「アサルト!」
ヴェルナは狂精霊に飛びつき、至近距離から魔力弾を叩き込んだ。
魔弾系魔術アサルト……魔弾の名を冠する魔術は多いが、その中でもアサルトは速射性と貫通力に秀でている。
三十を超える魔力弾が狂精霊を貫くが、溢れ出した半透明の液体が瞬く間に傷を埋めてしまう。
「落ちやがれ、スラッグ!」
真紅の閃光が炸裂し、強烈な反動がヴェルナの肩を襲う。
衝撃で狂精霊の体が潰れたゼリーのように歪む。
「もう一発、スラッグ!」
流石の狂精霊も浮力を失って落下し、その衝撃でヴェルナは地面に叩きつけられた。
「はははっ、割と戦えるじゃん」
ヴェルナは立ち上がった。
恐怖で足が震えているが、ダメージなし。
遅れて到着したベテラン従士は待機するように手で指示、狂精霊に近づいていく。
ゆらりと狂精霊が浮かび上がり、体表が溶け落ちた。
現れたのは岩の塊としか言いようのない何かだ。
色は黒、気泡が弾けたように表面がゴツゴツしている。
深い亀裂が走っているような気もするが、それが何なのかは分からない。
ベテラン従士が間合いに入った瞬間、狂精霊は牙を剥いた。
体が亀裂に沿って開いたのだ。
数え切れないほど多くの牙が内側に生えていた。
咄嗟に、ベテラン従士は短剣を叩きつける。
だが、刃は固い体表に弾かれ、わずかに軌道を変えただけだった。
バクッ! と狂精霊の体が閉じ、血が噴き出した。
心臓の鼓動に合わせるように血が噴き出す光景は悪夢じみていた。
ベテラン従士は狂精霊から距離を取り、震える手で短剣を鞘に収めた。
ハイアクセルの反動が今になって現れたのだ。
万全の体調でも変貌した狂精霊の相手は荷が重い。
彼は溜息混じりに空を見上げた。
「二人とも傷は浅いようだな」
男が重量を感じさせない身のこなしで舞い降りる。
身長はヴェルナより頭一つ高く、その体は人生の全てをそのためだけに費やしてきたかのように鍛え上げられている。
もう大丈夫だ、と筋骨隆々とした背中を眺めているだけで安心できた。
完璧な登場シーンだった、幼女が腰にしがみついてなければ。
この残念な男はアーチボルト・サトクリフ……この街の従士を束ねる騎士だ。
「ティナ、行くぞ」
「あう」
腰にしがみついた幼女が燃え上がる。
幼女の輪郭は漆黒の炎に同化するように曖昧に溶ける。
漆黒の炎は魔炎と呼ばれる高密度に圧縮された魔力だ。
魔炎は蛇のようにアーチボルトの体を伝い、左腕で激しく燃え上がる。
アーチボルトは矢を番えるように魔炎に手を伸ばした。
指先が存在しないはずの弦を捉える。
刹那、魔炎が弓に、矢に、左半身を覆う漆黒の鎧に変わった。
ティナは人間ではない。
彼女は弓に宿った精霊であり、アーチボルトは彼女に選ばれた精霊騎士だった。
狂精霊がアーチボルトに襲い掛かる。
だが、狂精霊は触れることさえできなかった。
アーチボルトを包む強力な魔力圏が狂精霊の動きを封じたのだ。
至近距離から放たれた矢に貫かれ、狂精霊は耳障りな悲鳴を上げた。
アーチボルトが矢を放つたびに狂精霊の体が抉れ、傷の断面が泡立つ。
泡立つが、それだけだ。
精霊騎士が持つ武器……精霊器は狂精霊の魔力を吸収し、肉体の設計図さえ破壊する。
狂精霊が人間の天敵ならば、精霊騎士と精霊器は狂精霊の天敵だ。
「終わりだ」
たんっ! と矢が狂精霊の眼球に突き立ち、魔炎となって燃え上がった。
狂精霊は蝋のように溶け崩れる。
耳障りな悲鳴を上げ、肉体を再構築しようとするが、溶解スピードが落ちただけだ。
十数秒後、狂精霊は跡形もなく消滅した。
「……ティナ」
精霊器が魔炎と化し、先程と逆の手順でアーチボルトの腰に移動する。
「ありがとう、ティナ」
「う~!」
幼女はアーチボルトの腰で唸り声を上げる。
「ヴェルナ・トゥルーズ、見事な戦いぶりだった」
「あ、どうも」
「それにしても魔力圏とは流石はアッシュ・キルマーの弟子と言った所か」
「あたしは魔弾しか使えないから、苦肉の策ってヤツです」
ちょっと皮肉げな口調だが、ヴェルナは誉め言葉として受け取ることにした。
「そろそろ時間だが、こんな所でグズグズしていて良いのかね?」
アーチボルトは呆れたように溜息を吐き、懐中時計を取り出した。
「君の師匠から午前中で帰らせるように頼まれていたのだが?」
「時間……って、ヤバい!」
頼まれていた用事を思い出し、ヴェルナは駆け出した。
※
人間が狂精霊と遭遇したのは百年前と言われている。
百年前と言えば、蒸気機関が実用化され、社会の構造が大きく変わろうとしていた時期だ。
そんな時期に狂精霊は繁栄を阻むように現れた。
幾千、幾万の人々が殺され、幾つもの街が滅ぼされた。
それでも、人間は戦うことを選んだ。
ある者は戦闘技術を錬磨し、ある者は戦闘に特化した魔術を編み出し、夥しい犠牲は知識として蓄積され、精霊の正体を突き止める一因となった。
精霊は自己保存を目的とする魔力の塊だ。
発生初期段階では自然界に存在する魔力を取り込み、周囲の魔力を吸い尽くすと泡のように弾けて消えてしまう。
十分な魔力を得た個体だけが擬似的な肉体を構築し、積極的に魔力を求めるようになる。
だが、肉体を得た精霊は遠からず悪循環に陥る。
肉体を維持するためにより多くの魔力が必要になるからだ。
やがて、飢えに狂った精霊は魔力を求めて人間を襲うようになる。
これが狂精霊が狂精霊と呼ばれる所以だ。
一方、精霊の中には肉体を造り出さずに器物に取り憑く個体が存在する。
これが精霊器だ。
器物に取り憑いた精霊は自己保存に大きな魔力を必要とせず、数年から数十年の歳月を経て、自我を確立する。
精霊器は人間に寄り添い、人間の社会に組み込まれることで自己保存を図ろうとする精霊の変種なのだ。
今も狂精霊の脅威は消え去っていないが、精霊器の発見と精霊騎士の誕生によって人間が一方的に殺される時代は終わった。
ヴェルナが生まれたナルス帝国は数ある国の中で最も早く発展した国の一つだった。
貧富の差など負の側面もいち早く経験することになったが、ナルス帝国は精霊騎士の数を頼りに数十年の繁栄と平和を謳歌した。
そして、ナルス帝国の繁栄は終焉を迎えた。
隣国のケフェウス共和国がナルス帝国に対して宣戦布告をしたのだ。
目的は帝国の精霊器だった。
誰もが戦争はすぐに終わると楽観していたが、戦争は泥沼化した。
ナルス帝国の軍事力は精霊騎士に依存する部分が大きく、ケフェウス共和国に抗しきれなかったのだ。
一万近い精霊騎士が戦場に散り、数多の精霊器が略奪された。
後に略奪戦争と呼ばれる戦争は辛うじてナルス帝国の勝利に終わったが、それから数年はナルス帝国にとって試練の時代となった。
軍の再編成、荒廃した国土の復興……山積する戦後処理の中で急務とされたのが精霊騎士の育成だった。
だが、かつてのように精霊騎士を育てるために十年以上の歳月を掛ける余裕はない。
そこで考案されたのが養成校の設立だ。反発はあったが、ある街が狂精霊に滅ぼされている事実がそれを封じた。
こうして、ナルス帝国の地方都市イーストシティーに精霊騎士の養成校が設立されたのだった。