未来(あした)へと向かう為にも
衝撃の宣告を受けてから数日後――。
いつも同じ時刻に病院へと通う将人の日常は何も変わっていなかった。そして今日もまた面会時間が終わるまでベッドの横にある椅子に座り、友里の傍から離れようとしない。目の焦点が定まっていない虚ろな目で、ベットに寝かされた無表情の恋人を黙って見つめる。
ここ数日の記憶でさえよく覚えていない程に憔悴しきった為か、病室に入ってから一言も喋っていない。現実を突きつけられて尚、叶えられぬ願望にしがみつく。友里の顔をまともに見ることが辛く、壊れそうな心を必死に繋ぎとめるのが精一杯だった。
しばらくして目蓋を閉じ、何か意を決してからようやく「ゆ、友里……」と、悲しげな弱々しい声で呼びかける。
望むべき返事は返ってこない。いや、たとえ自分の名前を呼んでくれなくても今の彼には些細なことだった。もう一度笑顔が見たいと一心に願い、動かぬ細い手を握り締める。過去を振りかえることが唯一の慰めであるかのように思い出して溺れゆく。
「やはり俺が分からないのか。もうお前は笑ったり、怒ったり出来ないのかよ」
今もまだ鮮明に残っているあの日の出来事――。
精一杯の想いをこめてプロポーズした時に、涙ぐみながらも笑顔を見せてくれた友里の姿。そして抱きしめた時の温もり――。
指にはめた指輪を嬉しそうに眺めいる表情。夕日の中の彼女はとても眩しく、どこか儚げだった。茜色に照らされ、浜辺の静かな波音のざわめきが将人にそう思わせたのだろう。
――まいったな。やっぱコイツじゃなきゃ駄目なんだ。
些細なことで喧嘩をしようが、言いがかりじみた小言をまくしたてられても、出会ってからの気持ちが揺らぐことはなかった。
彼女の笑顔を見るだけで自分は幸せを感じていられる。まして最高の笑みを見せつけられたのだから、これ以上何を求められよう。
――俺は友里の笑顔を見たいだけだったんだ。
素直な気持ちになるのを照れるあまり、ずっと気がつかなかった。いや、気がついていないふりをしてきた自分が今では腹立たしく感じてしまう。
思い返すと友里はいつも豊かな表情を見せてくれた。それにどうして応えてやらなかったのかと――。
もしも自分の気持ちと正直に向き合い、彼女の想いを素直に応えていれば違う現実になっていたかもしれない。幸福に感じていた日々の思い出が苦痛へと変わっていく最中、将人の口から小さな嗚咽が漏れる。
「あの時、強引にでも家まで送ってやるべきだった。もっと真面目に仕事をしてりゃ、お前も気に病んだりしなかったんだろうな」
遡る記憶の最後にあの日の悪夢が蘇り、路面に横たわった彼女の姿が焼きついたまま離れない。以前の自堕落した生活態度をどうしてもっと早く改めなかったのだろうかと己を責める。
今さら後悔したところで刻は戻らないと分かっていても、時間を巻き戻したいと切に願う。
いったい何度そう思ったことだろうか。後悔と自責の念に押し潰されそうになったのは、もう数え切れない。そして僅かな希望を抱いていたのもまた事実。だが、それは現実を前にして脆く崩れ去ってしまった。
残ってしまったのは絶望に染まった悲しみだけ。それでも友里の前ではいつもの自分でいなければという思いは残っていた。
「俺、今は真面目に働いているんだぜ。少しずつだけど貯金も溜まってきた。でもな、もうバイク辞めちまったからさ、友里と一緒じゃなきゃ使い道がないんだ。どうすりゃいいかな」
涙を零してしまうのをぐっと堪え、友里の手を握り締める将人の手は震えていた。
伝わってくる温もりに生命の息吹が感じられない。そっと重ねた柔らかな唇も、何故か冷たく感じてしまう。
意思が感じられない瞳は、いったい何を見ているのだろうか。やり場のない悲しみを抑えきれず、将人は肩を小さく揺らして嗚咽を漏らし続ける。
《どうしたのよ、そんな顔して。全然いつもの将人らしくないじゃない》
「――!?」
今、確かに友里の声を聞いた。
慌てて彼女の顔を見てみたもの、唇はまったく動いた様子がない。視線も自分に向いておらず、人形のように動かぬ瞳は天井を見ている。
慣れ親しんだ声を久しぶりに聞いた気がして将人の顔が幾分か綻んだ。
目の前のベッド以外に何も見えない無の空間――。
周囲の景色がないのは涙が邪魔をしているからなのだろうかという考えが将人にはなかった。
友里の声が聞こえたのは紛れもない事実。二人っきりの世界に浸っていられるのなら、今は何も考える必要はないと思う将人の心から痛みが和らいでいく。いや、そのように感じているだけなのかもしれない。
「ははっ、そうかな……そうだな。俺らしくない、か……」
《そうよ、こんな情けない顔をしている将人は全然らしくない。我がままで子供っぽいくせに、妙に男らしいのがいつもの将人だもの》
「散々な言われ様だ」
《だって本当のことじゃない。でもね、何があっても決して泣き言を言わず、いつも前向きで優しい将人だから今までついてこられたのも事実よ》
「そっか……ありがとな」
幻聴ではないのかという疑問は将人には些かもなかった。ごく自然に受け止め、一言一句聞き漏らさないように耳を傾ける。
ずっと当たり前だと思っていた会話ができる喜びは、彼の悲しみを優しく包み込んで癒すかのようだ。
《こんな姿になってもずっと傍にいてくれて本当にありがとう。嬉しかった。もう十分だから》
「もう十分って、なんだよそりゃ。意味分かんねぇよ」
《将人の気持ち、十分に受け取ったから。だから、これからは自分の将来のことをちゃんと考えて》
「何言ってんだよ。お前、マジで言ってんのか。本当にこのままでいいのかよ」
《ずっとこのままだなんて嫌に決まっているわ。でもね、このままずっと将人の悲しい顔を見るのはもっと嫌。そんなの耐えられない。それならいっそ私のことを忘れてもらった方がまだ気持ちが楽になれる。だからもういいの。将人の気持ちいっぱい貰ったから》
友里が言わんとしている事を理解はしても、将人には納得がいくものではなかった。現に表情を強張らせ、目尻を吊り上がっていく。
その面持ちは怒りというよりも、苦しみもがく様を呈しているように見えてしまう。
「馬鹿野郎、何ふざけたことを言い出すんだよ! お前はそれでいいかもしれねぇけどよ、じゃあ俺の気持ちはどうなるんだ。お前を見捨てて、辛い気持ちを抱えたまま生きろって言うのかよ。冗談じゃねぇ、ふざけんなって!」
将来の事を考えるのは二人一緒でなければ意味がないからこそ、将人は身を乗り出して叫ばずにはいられなかった。
涙が飛び散る程に首を左右に振り、ぎゅっと力を込めて友里の手を放そうとしない。握り締める手を祈るように額に当てると目蓋を閉じた。
「たとえお前がずっとこのままでも、俺はお前の傍から離れない。友里がいつも一緒にいてくれたから俺は俺のままでいられたんだ」
出会いから付き合いはじめての頃、そして共に過ごした日々が鮮明に蘇ってくる。
子供のように無邪気に笑う友里。まるで母親のように自分を叱る姿や、バイクのうしろに乗せた時に背中から伝わる柔らかな温もり。
将人にとって、それが心の支えになっている。友里を失うことは自分を失うのも同じだからこそ否定せずにいられなかった。
――もう一度、元気な姿の友里を見たい!
相沢看護士の言葉を突っぱねたのは、辛い現実から目を背けようとしただけかもしれない。それを自覚しながらも、もしかすれば本当の奇跡はいつか訪れるかもしれないと根拠のない希望に縋った。
だからこそ友里の声が聞こえたのではないのか。将人にはそう思えてならなかった。
せっかく心で会話ができたのに、こんな形で終わらせたくない。今度こそ本当の声を聞きたいと思う将人の口角がぎこちないながらも緩みだす。少しでも自分の想いを届けようと必死に笑おうとした。
「だったらもう悲しまねぇ。お前の前ではずっと笑顔でいてやるよ。それなら文句ねぇよな。だからもう二度とふざけた事を言うな」
ふと思えば、一度だって友里の前では沈んだ表情を見せたことがない。喧嘩をした時でも言い負かされてすねた態度は見せようが、一度も落ち込んだことすらなかった。
彼女の前では弱さを晒すことはなく、いつも強気な態度を崩すことはなかったがゆえに、友里は今の自分の姿を見るに見かねないと言いたいのだろう。
聞こえた声は決して幻聴ではない――!
友里はこのような姿になっても、傍に居るのが自分だと分かっている。そう思わずにいられない将人の視界が歪んで霞む。
やがて何も見えない闇に包まれて意識が遠退いていき、誰かの声が彼の耳に届く。
「――――さん」
女性の声だと分かっても、妙に聴き取りづらい。まるで遠くから呼びかけているように声は小さくおぼろげだ。
明るい声の質からして若い女性であるのは間違いない。唯一分かるのは、声の主が友里ではないという事だけだ。しかし自分を呼んでいるのが誰なのかと確かめようにも身体が鉛のように重く、目蓋が縫い合わせられたみたいに開かない。
声は次第に近づいてきているように思えても将人には確かめる術はなかった。
肩に手が触れたような温かさだけが伝わってくる。自分が知っている人物なのかと考えている最中、聴き取りづらかった声がやがて明瞭になっていく。
「――さん。将人さん、起きて下さい」
自分を呼ぶ声はやはり聞き覚えがある。それに微かな薬品の匂いに混じったアルコール臭は嗅ぎ慣れたものだ。
苦にならない程度の微かな匂い。それは看護士が自分の傍に近寄ってきた時にいつも漂ってきたものだ。
「風邪ひきますよ。起きて下さい」
肩を揺する細い手の動きが覚醒を促す中、朦朧としていた将人の意識が現実に戻されていく。声の主は決して乱暴に扱わずとも、早く起きろと急かしているようだ。
状況が分からない将人の目蓋がゆっくりと開いたのはその数秒後のことである。
「ん、なんだ!? 寝ちまっていたのか」
椅子に座ったままベッドにうつ伏せの格好でいつの間にか寝てしまった将人は、背後の女性が誰なのかまだ分かっていない。友里の手を握ったまま寝ていたことを自覚する程度にしか思考が働いていなかった。
「ええ、面会時間はとっくに終わっています」
身を起こしてふり返った先には半身に捻って正面を向いていない樋口看護士の姿があった。将人から離れた彼女はどこか落ち着かない様子で視線だけを送っている。
「そうか、もうそんな時間なんだ」
「ええ、ですから……」
遠慮がちに言葉を選ぶ樋口看護士を気にも留めず、将人はゆくりと立ち上がる。無表情の友里の顔に目をやり、頭を撫でた後に「また明日な」と言い残してベッドの脇を通り過ぎようとした。
「あ、あの……待ってください」
呼び止める声に将人の足が止まる。躊躇いがちだった先程までとは違う樋口看護士の切実なまでの声音に、青年の意識は何故か逆らえなかった。
とはいえ何を自分に訴えたいのか想像がつく。だからこそ振り返ることをしない。
「主任のこと、まだ怒っているんですか。友里さんのことを知って辛いのは分かります。でも主任は将人さんにショックを与えたくなかったからずっと黙っていたんです」
自分の声は友里に届かないと言われて以降、将人は相沢看護士と言葉を交わさなくなってしまっていた。何かを言いたげな素振りをしているのが分かっていても無視を決めこんでしまい、やり場のない感情が彼女の存在を拒絶してしまう。
自分から真実を求めたにも拘らず、事実を受け入れることが今もできない。まして薄々勘付いていたからこそ秘密にされていたことが腹立たしく感じてならなかった。
樋口看護士が言いたいことは百も承知だ。自分を気遣っての配慮であったのは分かっている。
ただ受け入れてしまえば何もかも終わってしまうと思ったがゆえにやり場のない怒りの矛先を求め、つい相沢看護士にぶつけてしまっていた。
「それに黙っていたのは主任だけじゃありません。あたし達だって黙っていたんですから」
「悪い。その話、今はしないでくれ」
気持ちの整理がつかない状況で何を言われても、今の将人は自分の感情を抑えることができない。
今度は樋口看護士に食って掛かりそうになってしまうのを懸命に堪える。感情の爆発はいつ起こってしまうのか分からないからこそ今はそっとして欲しいと願った。
しかし若い看護士はその気持ちに自分の思いを重ねようとしてくる。「待って下さい」と言いとめて将人が立ち去ることを頑なに拒む。
「将人さんに悪いことをしたって泣いてました。人前で弱いとこ見せなかった主任が泣いて、自分を責めていたんです。そして今も……」
背後の若い看護士が何を言おうとも、将人は一度もふり返ろうとしない。
言葉を返すこともなく、俯いたまま黙って一歩も動くことはなかった。
「今日、珍しく点滴の針を何度も打ち直して主任が患者さんに怒られたんです。それに最近どこか上の空だし、いつもの主任じゃないんです。なのに将人さんは話も聞いてあげないだなんて……そんなの酷いですよ」
背後の声にいつしか嗚咽が混じっていた。
微かにくぐもったように聞こえたのは口に手を添えているからなのかもしれない。まるで泣きたい衝動をぐっと堪え、気丈にも自分の思いを伝えようとしているみたいな声音が将人の胸に突き刺さる。
それを反論したい衝動に駆られそうになるのを堪えるあまり、強く握り締めた拳が小さく震えていた。
「別に将人さんを責めているつもりはないんです。ただ、せめて主任の話だけでも聞いてあげてください。たぶん大事なことを伝えようとしているんだと思うんです。ですから」
「聞いてどうにかなるのかよ」
一方的な言い分に、とうとう我慢できずに将人は訊ねた。
今更どのような言い訳を聞かされても納得できない。聞くつもりもなかった。それを一言に凝縮して若いナースに叩きつけた。
「で、ですから話を聞いてもらえれば……」
「それで友里が自分のことを分かるようになるのかよ。普通に喋ったりできるようになるっていうのかよ」
「そ、それは……でも、いつまでも黙っているわけにいかないじゃないですか。将人さんも薄々は気がついていたんでしょう。違いますか?」
背後の声は明らかに動揺している。
ところが気丈にも自分の主張を言いきる意思はあったようだ。
「……かもな。もしかしたらって思ったことはある」
「だったら!」
「分かってるよ! でも認めちまったらそれまでなんだよ。俺だけでも友里が元気になるって信じてやらなきゃどうなるんだ。なのに認めろっていうのかよ!」
樋口看護士が言いたいことを将人は十分に分かっている。友里が目を覚ます前まで何度も諦めかけていた自分は確かに存在していた。
そして相沢看護士に告げられたことが決定的であったがゆえに、自身が認めてしまえば待っているのは絶望しかない。
否定の叫びはあまりにも悲しい声であった。
「違います! 事実を受とめてこそ先が見えるんじゃないですか。だからあたしは諦めてません。それに主任だってまだ諦めていないんですから」
「なんだよ、そりゃ!?」
樋口看護士が言わんとしていることが将人には理解できない。友里の主治医だけではなく、ここの看護士達もこれ以上の回復は見込めないと断念したのではないのか――!
しかも事実と向き合えなどとは、まったくの意味不明だ。言葉に一貫性が感じられず、将人にはまだ一人前にもなれない若いナースの戯言にしか聞こえなかった。
「主任は先生に疎まれても何か治療方法があるんじゃないかって今も頼んでいるんです。自分の立場を考えずにこんなこと普通できますか? 自分でも過去の症例を調べたりして、先生のこと疑るような真似なんか、あたし達ナースができることではないんです」
「…………」
「それを偶然見かけて分かったんです。主任は最後まで諦めないって。だからあたしも自分に出来ることで力になりたい。それには将人さんがあたし達を信じてくれなければできません。お願いです、主任の話を聞いてください。お願いします」
「もう無理だって言っておきながら今更なんだよ。ふざけんなって!」
背後からの訴えが将人には自分の感情を逆撫でているようにしか思えなかった。
非情な宣告をした担当看護士が今更そんなことをするわけがない。もしも樋口看護士が言っていることが正しいのであれば、あのようなことをいう意味がないだろう。
将人はそれを確認しようなどと思っていない。一度だけ友里をちらりと見て、怒りを抑え込もうと奥歯を強く噛みしめた。
「それは……ですから……」
「もういい、頼むからもう放っておいてくれ」
呟くような低い声は心の慟哭そのもの。自分に関わるなと揺れる肩がそれを物語っている。
背後からの声はそれで止まった。
今の将人に何を言っても無駄であると感じたのだろう。病室を出ていく青年を追いかけようとしなかった。