表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
8/15

切に望むべき事は

 相沢看護士が友里の担当医を呼び出したのは午前10時頃のことだった。

 診察後すぐにベッドごと運び出してMRI検査(磁気共鳴画像診断)や脳波検査などを行った結果、脳に損傷がないにも拘らず、脳機能が正常に働いていないのが判明した。

 覚醒状態ならば五感から得られた情報を脳で処理し、その判断を神経から骨や筋肉へと伝達されることにより人は何らかの反応を示し、あるいは行動に移す。ところが友里の場合、思考を働かす前頭葉からの指令が神経に届いていないようだ。

 つまり五感から集められた情報を脳で処理した後、本来なら発せられるべき筈の指令が出ていない状態なのである。

 脳細胞が生きている事からして、これは決して脳死状態ではない。現に前頭葉以外はほぼ正常に機能している。今の友里は、起きていながら眠っている状態に近いと窺えよう。

 しかし前頭葉は人間の思考や意思、創造力などを司る脳の中核だ。そこの神経伝達が上手く機能していないという事は、人が生きていくために必要な意欲を失っている状態だと言っても過言ではない。

 過去に同じ症例がなく、まして有効な治療方法がない現状では手の施しようがないと判断した医師は、将人にありのまま伝えることを決断し、相沢看護士にはその場への同席を求めた。

 目を覚ました友里の様子を見れば隠し通せるものではないと相沢看護士は承知しながらも同意できず、できる限りの治療を続けてほしいと訴えた。

 彼女の言い分は医師も当然理解はしていたのであろう。検査結果の後、難しい顔をしながらしばらく考え込む姿があった。

 もしも治療の見込みが僅かでもあるとすれば、既に投薬や手術などの準備を手配していた筈だ。その様子がないということは結果が覆ることはないと意味している。

 まして時間が経てば回復する見込みもない。指先に微弱な電流を与えて脳を刺激するという処置を施しても、おそらく期待する効果は得られないだろう。

 それも改善の兆しがなければいずれ打ち切られてしまうのは明白だ。恋人の回復を願う青年にこの残酷なまでの結果を伝えるのは避けたいと思うのが人情というもの。

 相沢看護士は己の心に従って医師に異を唱える。

「このまま何もしないだなんて納得がいきません。それで患者様のお身内の方が納得されますか?」

 相沢看護士は己の分をわきまえず、如何に無理難題を吹っ掛けているということを分かっていながら食い下がる。彼女自身、もはや看護士の職務を逸脱しての懇願であるのは十分に理解していた。

 だが将人の心を慮る感情を抑えることが出来ない。傍からみれば誰もが取り乱しているとしか思えないほど相沢看護士は狼狽しきっていた。

 検査が終えて病室に戻った後も続く押し問答に、困り果てた医師は髪を掻き毟って溜め息を漏らす。

「いい加減にしたまえ! 相沢君は私にどうしろというんだ。これ以上の処置が無理だと分からん君でもないだろう」

「仰られていることは分かります。ですがまだ何かできることがあるかもしれません。先生、どうかお願いします。あと少しだけでも治療を続けて下さい」

「いったい相沢君ほどの者がどうしたというんだ。とにかく落ち着きたまえ」

 普段見慣れた姿とは違う必死なまでの形相に気圧されたのか、剣幕をたてた医師の表情がみるみると変わる。戸惑いを隠せないといった様子で落ち着きをなくす。

 一方の相沢看護士は自分の立場を忘れて懇願し続け、一歩も後に引かないという姿勢のままだ。いつしか物言わぬ患者を除けば二人だけという静かな空間になったことが、彼女から冷静な思考を奪っているのかもしれない。

 互いの主張が平行線をたどる中、時間だけが無駄に過ぎていく。

「でしたらせめて彼が心の準備ができるまで待ってあげて下さい。その時期が訪れたら私から伝えますので、どうか今すぐ伝えるのだけはやめて下さい。お願いします」

「――分かった。相沢君がそこまで言うのなら任せよう。但し、もしも何かあった場合は君がすべて責任をとってくれ。これは相沢君が一存で決めたことだからな」

「はい……それはもちろんです」

 ベッドに横たわる友里の前で交わされていた会話がそこで打ち切られ、医師が病室から去ったのは間もなくのことだった。

 今後何かあった場合のことなど今の相沢看護士にとって然したる問題ではなく、将人に大きなショックを与えたくないという思いが彼女にとっての重要なことであったのだろう。

 一人取り残されたあと、相沢看護士は無表情の友里を見つめながら物思いに耽る。まるで彼女自身の時間が止まったかのように、沈痛な面持ちのまま眉一つさえ動かすことはなかった。

「将人君を悲しませたくなかったらお願い、せめて目だけでも動かして。意識がちゃんとあると教えて」

 返事が返ってこないのを承知で相沢看護士は自分の願望を口にした。

 一人の患者に入れ込むのは看護士の精神に反しているだけではなく、己が辛くなるだけだと十分理解している。

 感情に流されては業務に支障をきたす。看護士は決して患者に私情を挟んではいけない。

 それは常日頃から心掛け、後輩達にはいつも口酸っぱく言っていることだ。本来ならば指導する立場の自分が決してやってはいけない行為であることも分かっている。

 しかし今だけは主任看護士として自分を装った姿を脱ぎ捨てたいという思いが心の中を占めていた。彼女自身分かっていながらも感情的になってしまう。

「彼だけじゃない。貴女自身のためにも……」

 正直な思いを伝えても、天井の一点だけを見続けている友里の双眸が動くことはなかった。

 人としての意思がまったく感じられない。今はただ生命活動を維持するために心臓が鼓動し、血中に空気を運ぶために自発呼吸を続けている。

 それは起きていても寝ている状態とさして変わりがない。聞こえる物音や目に見える景色に一切の反応を示さないのも、思考が働いていないのだから当然だ。

 手足を動かすにも脳からの働き掛けがないために、指先すら動かすこともできない。それを友里は感情で表現するどころか、何も感じていないと診断されたことを物語っているようだ。

 最先端の医療技術をもってしても麻痺した脳を回復させる術はなく、もはや一個人としての人格は無きに等しい。友里は人として生きる権利をほんの一瞬の出来事で奪われてしまっていた。

 しかも寝たっきりのまま生きる意志を失っていては、あと何年生きられるのかも定かではない。

 将人の心情を思えば、相沢看護士はありのままの事実を告知する気にはなれなかった。これまで通り彼に接し、知られないように努めることが自分に課せられた義務――。

 結婚を誓った恋人が自我を失ったまま人形のように生きていかねばならないと、いったい誰が告げられようか。

 とは言っても、今の友里の状態を見れば隠し通すことはまず不可能。いずれ話さなければならない日が必ず訪れることであろうと重々承知している。

 しかし現状で相沢看護士にできることは問い詰められても口をかたく閉ざし、後輩達には何があっても将人には知られないようにと厳命するしか手立てがなかった。

 ところが自分達も今後は看護方針をどうすべきか判断しかねていたところに、他の患者の容態が急変したのが重なってしまったのである。

 ただでさえ一人の看護士が何人もの患者の担当を抱えている状況での緊急事態。他の病室からのナースコールもたて続けにあって呼び出され、まさに野戦病院さながらの切迫した過酷な環境と酷似する程に誰もが患者の看護に追われてしまった。

 シフトから外れている看護士をすぐに呼び出したのは言うまでもない。相沢主任の指示のもと、看護士達は容態が急変した患者と通常業務に振り分けられて対応するのを余儀なくされた。

 だが今すぐに命の危険がないとはいえ、友里のことを先送りにすることもできない。

 そこで担当看護士である自分を補佐する形で樋口看護士の二人だけで対応することになった。将人が面会に訪れたのはその数時間後のことである。

 いつものように挨拶をしてくる青年は何も知らない。

 相沢看護士は迷った。事実をありのまま伝えるべきか、それとも――。

 だが、すべてを隠し通すことは不可能であることには変わらない。ならば友里と会わす前に少しでも心の準備をさせておく必要がある。

 ナースステーションの前を通り過ぎようとする将人に声を掛けたのはその為だった。

 ところが彼は話を最後まで聞かずに駆け出してしまった。

 そうなるのを想定していなかった自分は浅はかだったと悔やむ間もなく、相沢看護士は遠くなる背中を追いかける。咄嗟の事とはいえ、引き止められなかったのは自分の落ち度だと悟った時は既に遅かった。

 将人から厳しく問い詰められてしまうのも当然。もはや避けたかった事態から逃れることはできない。

 ただ幸か不幸か、別の患者の様態が急変したのが重なっている状況のために、皆はその対応や他の入院患者達の看護に忙殺されている。

 樋口看護士をつい先程通常業務に戻したばかりの今、恋人を想う青年を冷静になだめて納得させるには自分一人の方が都合はいい。

 そう思って彼を追いかけた自分を見かけた樋口看護士までもが病室に飛び込んできたのは誤算だった。動かない恋人を抱きしめて泣き叫ぶ青年の姿を見るのを、ナースになって一年も満たない新人にとって如何に酷なことであろうか。

 樋口看護士がこの状況下で冷静でいられる筈がないと分かっているだけに、一刻も早くこの場から去って欲しいというその願いは脆くも崩れ去ってしまう。

 傍にいる新人看護士が恋人の姿に嘆く青年に同情するあまりに思わず口を滑らせてしまった。だが相沢看護士はそれを咎めようとはせず、自分の職務に戻るように急かすだけで済ませてしまう。

 まだ半人前のナースを責めるなどという選択肢が彼女にはない。不注意な発言をしてしまったこと反省し、これを貴重な経験として今後に活かしてくれるだけで十分だと思った。

 同時に今から将人と向き合う自分自身にも言い聞かせる意味合いも含まれていた。

 そして目の前の青年にどう説明するべきかと即座に思考を切り替える。今となってはゆっくりと時間をかけ、将人が事実を受け入れられる心の準備が整ってから伝える術は残されていない。

 ならば自分を鋭い目つきで睨む彼を如何に落ち着かせつつ納得させられるのかと思案しつつも不安がよぎる。できなければ将人は再び心を閉ざし、今後の方針を話し合う場を失うことになるだろう。

 それは自分の都合を優先させているわけではない。恋人の姿に嘆く彼だけではなく、物言わぬ本人までも更に不幸にしてしまうのではないかと思ったからだ。

 同時に自分はどこまで冷静にいられるのだろうと心が挫けそうになる。しかし若い二人の為に弱音を吐くことは許されない。

 とは言っても状況は最悪だ。相沢看護士は平静を装いながらも、内心この場を収める術を見つけられずに苦悩する。

「何いつまでも突っ立ってんの! 同じ事を何度も言わせないで!」

 しかしここは現場経験の差というべきか。眉を吊り上げた主任看護士の怒鳴り声が経験不足の若いナースを呪縛から解き放つ。

 そして泣きべそをかきながら「失礼します」と言って出ていく後輩を見送ると、ゆっくりと深呼吸をしてから将人に向かい合う。

 数多くの現場経験を積み重ねてきた自分だけならば、この場を上手くやり過ごせるかもしれないと心を落ち着かせるも、相沢看護士に説き伏せる自信などなかった。現に自覚するほどに戸惑いの表情を隠しきれていない。

 今にも胸座を掴みかねない勢いで詰め寄る将人に「じゃあ言ってもらおうか。友里がどうなっちまってるかを」と言われて押し黙り、思わず視線を逸らしてしまう。

「相沢さん、黙っていちゃ何も分からない。頼むから誤魔化さずにちゃんと説明してくれ」

 つい今までの気迫がこもった表情がふっと消え、哀願して俯く将人が目の前の両肩を掴んだ。

 ナース服越しに食い込む指の力が込められ、相沢看護士の表情が苦痛に歪む。

「ぅっ――!」

 肉親がいない友里にとって、唯一身内ともいえる彼に言わねばならない事実がある。

 まして担当看護士という立場上、本来なら友里の容態について彼に無情な現実を突きつける結果になろうとも、きちんと説明する義務があった。

 だが言葉と感情を失った恋人を前にして取り乱す青年に伝えるのはあまりにも残酷すぎる。医療従事者としてよりも、一人の人間として患者の彼氏の気持ちを踏みにじりたくないと言わんばかりに、肩の痛みに耐えながら悲鳴をあげまいと黙り込む。

「なぁ、本当のことを言ってくれよ」

 相沢看護士も担当ナースとしてこの一年余り、ずっと心に葛藤を抱えていたことを将人が知る由もない。

 意識を取り戻した友里がなぜ人形のように動かないかと、悲痛なまでに問い詰めてくる。

「ずっと寝たっきりのままだったし、意識がまだ回復したばかりで脳の伝達が上手く働いてないだけだから。一年も意識がない状態だったのだから仕方ないでしょう。今は焦らず少しずつ時間をかけてゆっくりと」

 もはや隠し通せないと思いつつも、相沢看護士は将人にショックを与えたくないばかりにどうにか誤魔化そうと見え透いた嘘を吐く。

 彼は事実を受け止められる状態ではないのは一目瞭然。今すべてを話す時期ではないという思いが相沢看護士から冷静な判断を奪っていく。

「相沢さん、さっきから何言ってんだよ。普通こんな風になるか? どう考えてもおかしいじゃないか」

「それはつまり、思考の整理が追いついていなくて、彼女自身何も理解できていないんだと思うの」

「だからって声を掛けられたら反応ぐらいするだろ。ふり向いたり声出したりとか、なんで何もないんだよ」

「こういった症例は稀にあることで、あとは詳しい検査をすれば……。彼女のことが本当に心配だったらもうしばらくそっとしてあげて」

 誤魔化そうとすればするほど追い詰められていくように感じつつも、相沢看護士は苦し紛れに出た言葉を紡ぐ。立場上、本来なら事実をありのまま伝えなければならない。しかし人としての感情がそれを思いとどまらせてしまう。

 果たしてどちらの選択が正しく、何が彼に対しての思いやりなのか――!

 責務と人としての感情が鬩ぎあう苦悩の中、相沢看護士は通じないと分かっていながら嘘を重ねてしまう。そこには今まで隠し続けてきた負い目も含まれていた。

「いい加減にしろよ!! 本当の事を知りたいだけなのにどうして正直に言ってくれないんだ。確かに友里には家族がいねぇ。血が繋がっていないヤツに話せないのは分かるがよ、俺はアイツの身内も同然なんだ。結婚するって約束したんだ。なのに言えないってどうしてなんだよ!」

「そ、それは、その……」

「じゃあ何か、知られちゃ都合が悪いことでもあるのかよ」

「そんなことないわ。私はただ……」

 将人の怒声が胸に突き刺さる。もしも自分の恋人が同じような目に合っていれば、おそらく彼と同じように詰め寄っていることだろう。

 いや、狂乱したかのように我を失い、泣き喚いているのかもしれない。我が身に置き換えると自分がしていることは如何に残酷な仕打ちなのではと心が痛む。

 目の前の青年は一年近くも自分の恋人が意識を取り戻すと心底信じてきた。そんな彼にどう言えばいいのだろうと、相沢看護士は葛藤の中で自問自答を繰り返す。自分が友里の担当であることや主任という肩書きが心の枷となって苦しみが増していく。

「はっきり言ってくれよ。友里がどうなっちまっているのかって、どうして言えないんだ。アンタ友里の担当なんだろう。知ってること全部話してくれよ」

 先程までの激昂がふっと消えて哀願の眼差しを向けてくる将人に、もはや真実を隠し通すのに自分自身が耐えられそうにない。心の中の天秤が激しく揺れ動き、やがて一方に大きく傾きはじめる。

――自分の判断は誤りだった。

 そう悟った相沢看護士は、思わず「何度呼びかけても同じだからよ」と口走ってしまう。

 後悔しても遅かった。目の前の青年は過敏に反応した態度を示している。

 肩を掴んでいた手を放して後退り、耳を疑るような面持ちで唇を震わせていた。

「な、なんだよいきなり。同じってどういうことなんだよ!」

「声は聞こえていても、心にまで届いてないわ。だからもう……ごめんなさい、今まで黙っていて」

 感情を抑え込む心の壁が崩れはじめ、相沢看護士の瞳から一滴の涙が零れ落ちる。哀れみと同情、そして後悔の色を滲ませた目を伏せがちにして視線を逸らし、自分自身を抱きかかえるように腕を組んで身を震わせた。

 そして何かを言おうとして一度は思いとどまるも、しばしの沈黙のあとに意を決して将人と視線を合わす。

 自分自身は冷静を装っているつもりでも、実際は涙をボロボロと流して狼狽える様を隠しきれていない。そこには普段の優しい笑みを浮かべ冷静に対応する姿はなく、まるで怯えた少女のように身を震わせる弱々しい姿でしかなかった。にも拘らず、相沢看護士は気丈にも冷静に振舞おうと声を振り絞る。

「事故の際、頭部を激しく打って頭蓋骨を骨折していた。出血も酷かったからMRI検査をしたのを覚えているわよね?」

「ああ、血が脳に溜まらなかったのが幸いしたって言ってたよな」

「そう、結果は将人君も知っての通り、頭部の怪我よりも、むしろ胸部打撲による肋骨骨折と内臓へのダメージの方が深刻だった。そう診断した先生の判断は今も間違っていなかったと思う。あと少しでも処置が遅れていたら大量出血によるショック症状で助からなかったんですもの」

 ここまでは事故当日に将人も聞かされていた。

 全身打撲、特に折れた肋骨が肺に突き刺さっての出血によって、かなり危険な状態で運び込まれたのである。

 もちろん頭部からの出血も前頭骨の骨折により酷いものであったが、最初のMRI検査では重度の後遺症が出てしまうほど脳内に血が溜まっている形跡が見られなかった。しかし数日後に経過観察で行われたMRA検査(磁気共鳴血管造影)で脳内出血が再び発覚されたのである。

 まさか毛細血管に僅かな傷が原因だったなどと誰も想像すらしていなかった。

 あと数日発見が遅れていれば命そのものが助からなかったかもしれない程の出血量。決して頭部に受けたダメージを軽視したわけでもないが、これを事故当日に発見できなかったのは病院側の落ち度であろう。

 このことを将人は知らない。彼が病院にいない間に緊急手術(オペ)が行われた事すらも知らされていなかったのだから当然だ。

 理由はどうであれ、伝えなかったのは自分を守ろうとしたからではないのか。そう思うあまりに相沢看護士は自身を心の中で責めたてる。

「だから手術で治ったんだろう。それならもう大丈夫じゃねぇのかよ。だったらどうしてなんだ?」

「確かに身体の方は大丈夫。心肺の機能も特に問題はないわ。リハビリさえちゃんとすれば、不自由はあっても日常生活を取り戻せる筈だった。でも違ってたの」

 話の核心に迫って相沢看護士は言葉を切った。

 しかし目の前の青年はここで押し黙ることは許してくれないだろう。怒りと悲しみの色に染まった鋭い双眸がそう告げているのが分かる。

 何よりもここまで語って口をつぐむことはできない。僅かな躊躇いの後、一呼吸おいて自身の感情を内に秘めた相沢看護士の唇が再び開く。

「頭部に受けたダメージがここまで酷い状態だなんて、初見では先生も分からなかった。その後経過観察のために行われた脳波検査で異常が発見され、MRA検査で出血を確認するまで本当に分からなかったの。これは嘘じゃないわ。まさか小さな傷が残っていたなんて、ここまでダメージを受けるほど血が溜まっていたなんて誰も想像すらしていなかったのよ」

 もしも最初の検査の際に確認ができていれば、友里は一年近くも眠り続けることはなかったのかもしれない。既に目を覚ましており、今頃は後遺症があっても言葉を交わしている可能性だってある。

 ところが脳出血の発見を僅か数日遅れた結果、友里の運命は大きく変わってしまった。せめての救いは生命の危機を回避できた事ぐらいだろうか。

「オペは無事に成功したけれど、脳内に数日間も血液が溜まっていた影響で意識が戻るのは極めて難しいって先生は仰っていたわ。その後のことは貴方も知っての通り、友里さんは一年近くも目を覚ますことはなかった」

「だったら意識が戻ったってことはまだ望みがあるじゃないか。それなのにアイツに声を掛けんのが無駄だってどういうことだ」

「目を覚ましたけれど、それ以上はないってことよ」

「なんだよそりゃ、ぜんぜん意味分かんねぇよ。ずっと隠してきたかと思えば、今度はもうダメだって。そんなんで納得できるかよ、ふざけんな!」

「確かに目を覚ますかもしれないってことだけは僅かでも可能性はあった。望みは薄いと先生に言われていたからこれは奇跡よ。だから目を覚ました友里さんを最初に見たときに自分の意思を伝えることぐらいは出来ると思った。だけど、もう無理なの」

 将人の中で言いしれぬ不安と怒りが広がっていくのが否応なしに伝わってくる。

 否定したいが為に叫ぶ姿が胸に突き刺さる。

 しかし今は非情に徹してすべてを伝えなければならない。あとは今から話すことを受け止めてくれるの願い、相沢看護士は言葉を紡ぐしかなかった。

「友里さんを診たあとに先生がこう仰っていたわ。前頭葉の機能を回復させる手段がなく、これ以上は望めないって。あとは自然治癒に望みを託すしかないけど、それも厳しいらしいの。だって手足を動かすどころか、思考までもが働かなくなってしまっているんですもの。それに記憶が残っているかどうかも定かじゃない」

「それをなんとかするのが医者じゃないのか。目を覚ましたんだからさ、どうにかなるかもしれないだろ。なのになんで諦めなきゃならないんだよ」

「人間の脳ってね、とてもデリケートなのよ。そう何度も奇跡なんて起きないわ」

 信じ難い事実に将人の表情がみるみると青ざめていく。様々な負の感情が沸き起こっているのだろう。思考の整理が追いつかないといった様子で唇をなわなわと震わせている。

 そんな彼に対しての非情なる宣告――。

 相沢看護士は彼の前で自分が泣いては駄目だと感情を押し殺し、もう涙を零さぬようにと必死に堪える。

「そうか、最初から諦めていたから黙っていたのかよ。くそっ!」

「貴方が怒るのは無理もないわ。でもね、あの時はすぐにオペをする必要があったし、つい言いそびれてしまったの。それをずっと黙っていたことは謝るわ。だって将人君にショックを与えたくなかったのよ。それに私達も奇跡が起こるかもしれないって信じていたかったから。でも友里さんが目を覚ました後、貴方が今日ここに来る前にもう一度検査をしてはっきりと分かったの。もう奇跡すらも望めないってことが」

「で、アンタは友里は一生このままだって言いたいんだ」

「ええ、そうよ。友里さんはもう目に見える景色を眺め、物音を聞くことしかできない。たとえ記憶が残っていても自分が誰なのかさえ分かっていないんでしょうね。でも彼女は、それすらも自覚しないまま生きていくことになる。だから将人君には覚悟を決めてほしいの」

「覚悟って、なんだよ。今度はでたらめばかり言いやがって。俺はそんな話を信じないからな。信じてたまるか!」

「嘘じゃない、これが現実よ。今の友里さんは心がなくなっているのに等しい。残酷な言い方かもしれないけど、何度呼びかけたって将人君の声は彼女の心には届かない。貴方ならきっとそう言うだろうと思ってた。現実を受け入れられず、貴方自身の時間まで止まってしまうのは見ていられない。だから言いたくなかったのよ!」

 自身を抑えきれなくなった相沢看護士の叫びは彼女の心境そのものであった。

 献身なまでにつくす将人の姿を見てきただけに、今まであえて告げなかったことが如何に心苦しいものだろうか。

 いや、彼の心情が痛いほど分かってしまうだけに、罪悪感を感じていたと表現した方が正しいのかもしれない。ゆえに担当看護士としての立場だけではなく、一人の人間として奇跡というものを信じたいと願いながら今まで見守ってきた。他の看護士達に口止めさせたのはその為だ。

 この一年余りの将人の姿を目の当たりにして、健気なまでに呼びかけてきた姿に居た堪れなくなって真実を伝えようかと何度も思ったことがある。

 本音はいつも心の牢獄から解放してほしいと願っていた。

 しかし自分の苦しみなど、この青年の苦しみを思えば如何ほどのものであろうか。ならば彼と同じようにこれからもずっと同じように奇跡を信じてあげればいい。

 相沢看護士は今まで事実を隠し続けてきた懺悔の意味を込め、友里の回復を願って花瓶を置いた。その想いが他の看護士にも広がり、やがて心を開いてくれた将人を皆で励ましてきた。いつか彼の願いが通じるだろうと――。

 ところが現実は違った。今朝になって友里の意識が戻ったもの、何も反応を見せない。

 担当医をすぐに呼んで精密検査を行った結果、相沢看護士は絶句した。いったい将人にどう伝えたらいいのだろうと――。

 医師が事実を告げようとした時、彼が受ける衝撃を考えると首を縦に振れなかった。

 心の準備が整うまで黙っている方がいいのではないだろうか。せめて友里の容態を包み隠さずに話すのはもうしばらく待ってほしいと切願する彼女に、担当の医師はその時期の判断を任せると言い残して病室から去っていった。

 そしてまだ決心がついていないのにも関わらず、もはや隠し切れない今の状況を迎えてしまった。

――こうなるのを避けたかったのに!

 相沢看護士は将人が心に大きな傷を受ける状況の中で事実を告げねばならなかった自分の不甲斐なさを呪う。同時に彼を突き放すように言い放った己の弱さを責める。

 僅かでも自分を庇おうとした。それが許せない。

――どうしてこんな言い方しかできないのよ!

 今更後悔しても事態が変わることはない。ならば自分ができる最善を尽くのが看護士としての勤めではなかろうか。

 いや、そうでも思わなければ耐えられないと相沢看護士は唇に血が滲むほど噛み締めて心の慟哭を押し殺す。

――そうよ、まだ終わってない。自分がしっかりしなきゃ……。

 後は現状を維持するリハビリプランを将人にどうやって受け止めてもらうのか。同時に彼の心のケアもしていかなければならない。それが友里を担当する自分にとっての務めであり、唯一の贖罪でもあった。

 もしも将人が現実を受け入れてくれるのであれば、今の職を失おうとも彼等二人のサポートを生涯続けてもいいとさえ思っている。たとえすべての人に博愛と奉仕の心をもって接しなければばらないナイチンゲールの教えに背くことになろうとも、二人にしてあげられることは他に何も思い浮かばなかった。

 相沢看護士とってそれがせめてもの罪滅ぼしであり、また自分自身に対して罰を与えようとしているのかもしれない。

「私達も奇跡を信じてきた。信じていたかったから貴方には今までこの事を伏せてきた。だから言えなかったのよ。でもね、事実を知ったのだからこの現実を受け入れてほしいの。酷いことを言っているは分かってる。だからと言ってこのままだと貴方までいずれ参ってしまう。そんなこと友里さんも望まないでしょう」

「うっせぇ! それ以上言うな、もう黙ってろ!」

「もう奇跡なんて起きっこない。ううん、目が覚めただけでも十分奇跡は起こっているの。だからね、今後は私も今まで以上にお世話をさせてもらうから。それでね」

「黙れ、黙れって言ってるだろ!」

「お願い、最後まで聞いて!」

「もういい、出ていけ……。アンタの顔はもう二度と見たくねぇ。出ていけ、出ていけって言ってんだろ!」

 こうなることが分かっていただけに、将人にはまだ知られたくなかった。現実を受け入れてくれる心の準備が出来る頃合をみてから話そうと思っていた。

 しかし彼はもう自分達に心を開いてくれないかもしれない。

 だからとはいえ、一生責められるのを甘んじて受けるつもりだ。脳内出血に気がつかなかった事に対して医療ミスだと言われても否定はしない。

 いや、そう言って責められる方が気分的に楽だと相沢看護士は思う。

「落ち着いたら、もう一度ゆっくりお話をさせて……」

「…………」

 そう言うのが精一杯だった。

 今はそっとしておこう。落ち着いたら少しぐらい話ができるかもしれない。

 相沢看護士は将人に深々とお辞儀をすると、目を合わさないように病室からそっと出ていく。

 ドアを閉めた途端、ついに抑えきれなくなった感情が決壊してしまった。その場に蹲り、力なく泣き崩れてしまう。

「ごめんなさい……本当にごめんなさい」

 顔を両手で覆いながら嗚咽する様に、もはや厳しい主任看護士としての姿はない。今までたくさんの患者の死を見取ってきた彼女も、今回ばかりだけは耐えられなかった。

 人が死んでゆくよりも辛いことがあると痛感させられ、しばらく立ち上がることができず、ドアに向かって何度も謝罪の言葉を繰り返す。隣の病室から出てきた樋口看護士に肩を借りなければ、いつまでもその場で蹲っていたかもしれない。

 後輩に肩を借りながら「主任だけの所為じゃありません」と慰められ、おぼつかない足取りでナースステーションへと向かっていく。

 溢れとまらぬ涙を拭わずに……。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ