偽りの代償
相沢看護士は将人に告げていないことが二つある。
一つは事故をひき起こした加害者がこの病院と深い関わりがある代議士の息子。病院の顧問弁護士が友里の部屋に尋ねた際、将人に追い返されている場面を目撃していたからこそ、彼女自身に確証がなくても立ち聞きした会話の断片と状況から察しがついた。
意識が戻らずとも容態が安定して以降、ずっと個室の病室から移動の話がないのを顧みればもはや疑いようもない。但し、これに関しては証拠がない以上、自分の立場では将人に伝えることが出来なかった。事の真相を確かめることが出来ず、ずっと心の奥に秘めていた。
そしてもう一つは友里の容態。
打撲や骨折といったような身体的なダメージはすでに治癒しているもの、脳に受けた目に見えないダメージが意識の回復を妨げていることだ。
友里の主治医がこれ以上の回復は厳しいと判断した際、当初は将人に告知する方向に話は進んでいた。
それを先延ばしにしてきたのは担当看護士として相沢看護士が異議を唱えたのが発端となった。彼女自身に伝えられてはいないが、院長から主治医に何らかの申し送りがあったことから告知を先送りにされてきたのだろう。
これによって将人に告知するかどうかの判断を下すまでの時間を与えられたのだが、結果として相沢看護士が苦悩する日々が続くことになった。
もしも職務と徹していればここまで思い悩むこともなかったことだろう。相沢看護士が将人にここまで親身に考えたのは職務としての責任を果たすことよりも、恋人の回復を願う想いだけは踏み躙りたくないという思いがあった。
事故に病院も間接的に関わっている事実を隠している罪悪感もあったが、人としての情から友里の意識が回復する見込みは極めて低いなどと言えなかった。
まだ看護士を志す以前、彼女が女学生だった頃だ。完治の見込みがない病を患っていた父親を親身に看護してくれた一人のナースみたいに自分も出来ないものだろうか。父の死を間際にして、悲しみに押し潰されそうになった自分や母はどんなに救われたことだろう。
その献身的な姿に心を打たれ、憧れたからこそ自分は看護士になった。ならばその彼女のように接するべきだと思ったからこそ今まで必要以上に親身に接することを望んだ。
同じ悲しみを将人に背負わせたくない。いや、事実を知れば自分達以上の悲しみと絶望を背負うことになる。
相沢看護士はそれを心底恐れた。
――彼に同情しているから?
確かにそれもあるだろう。
将人がもしも事実を知ってしまえば、心に受けるダメージは計り知れない。自暴自棄になってしまう恐れも考えられる。今まで担当看護士として間近で接してきたのだから、彼の心情はひしひしと感じていた。
ゆえに職務をただ忠実に全うするだけが、果たして看護士の勤めなのだろうかという疑問を相沢看護士は拭い去ることができない。時にはこの青年のような患者の身近な人の心を汲み取ることも自分達の役目ではないかと思うようになって以降、やがてそれが日を追うごとに彼女の心を占めていった。
結果がいずれ同じであっても、自分が憧れた看護士のように振舞えば心の傷を幾分かは和らげることが出来るかもしれない。しかし真実を隠し通すことが必ずしも正しいとは言えないだろう。
いずれすべてを知ってしまう日は訪れる。このまま容態に変わりがなければ、彼にありのままを告げなければならない。
まだ将人は事実を受け入れられる心の準備ができていないのだからどう言い繕ったとしても結果は同じだ。いや、今以上に嘆き悲しむことになるかもしれない。
一つだけ確かなのは、どちらにしろ将人は拭えきれない心の傷を一生負うことになる。それを思うと胸が痛むからこそ誰にも相談することができずに相沢看護士の葛藤は続いていた。
将人が受けるであろう心の痛みを極力和らげてあげることはないのかと今日まで考えていたが、答えをいくら探しても見つからない。相沢看護士の心は絶えず悲鳴をあげていた。
――もう楽になりたい……。
幾度となく甘い囁きに苦しめられても己の心を押し殺してきた。事実を隠し通す罪悪感を感じても、それは己の問題に過ぎない。
看護士にとって自分のことは二の次だ。まして主任という立場なのだから人前で弱音を吐くことは許されない。
平静を装いながら己を叱咤激励して日々の職務に励んだ。その姿は以前と何一つ変わりない。誰もが見慣れた主任看護士を演じ続けてきた。
――でも苦しんでいるのは自分だけではない。
友里の治療を受け持っていた医師や他の看護士達も同じ思いだと己に言い聞かす。現に今まで誰一人として将人に伝えていない。
再び告知するどうかの話で呼び出された際、看護士長を交えて担当医との話し合いの中で相沢看護士のまだ告知しないという言い分が通り、最終的には友里の容態について箝口令を布かれるようになった。
何かあった場合の責任を、上司に申し出た自分がすべて背負うと言った相沢看護士の決意の程はそこから窺えよう。
それは友里の病室にガーベラーの花が飾られるようになった前日のことである。
だが経緯はどうであれ、命じられた看護士達も辛いことだろう。にも拘らず、主任から申し送りがなくても最初からそのつもりだったと、誰もが口にせずとも決意に満ちた表情で応えてくれた。
正直に言えば一人ぐらい事実を包み隠さずに話すべきだと異を唱える者がいるのではないかと危惧していただけに、相沢看護士にしてみれば意外な結果だった。今にして思うと、彼女達もそれなりの覚悟をずっと抱えてきたのであろうと――。
患者の噂話に興じることを仕出かすことはあっても、博愛と奉仕の心を忘れてはいない。自分達は看護士であるという自覚と誇りを持っている。
だからこそ反対する者がいなかったのではないだろうか。
相沢看護士に自分は仲間に恵まれていると思わせるには十分すぎた無言の決意と覚悟――。
杞憂に終わったという安心感などいとも簡単に消し飛ばす白衣の眼差しを前にしては、さしもの彼女でも平静を装う余裕がなかった。申し送りの際、感極まって涙を流すのを堪えるために深々と頭を下げなければならなかったのは、己の立場を人一倍理解しているからこその行動だと言えよう。
いつも口煩くて厳しい主任という仮面を後輩達の前で外すわけにはいかない。ならば精一杯の感謝の気持ちを込めて「みんな、ありがとう」と一言を口にして押し黙るしか術がなかった。
自分を信じて従ってくれる彼女達に報いるためにも弱音なんて吐くことは許されない。何よりも患者のため、そして恋人の回復を信じている青年のためにも尽くすのが己に課せられた使命。
今後も担当看護士であり、スタッフを束ねる主任であり続けなければならない。もしも本来の自分に戻れる日があるのなら、それは友里が元気な姿を取り戻してからだ。
相沢看護士がそう心に秘めてから月日は何も変化がないまま緩やかに流れた。
事故から一年近く経っても友里の意識に回復の兆しがまったく見えてこない。頭部の傷が癒えて自発呼吸ができる現状では、もはや施す治療が残っていなかった。
看護士にできることは毎日定期的に行う検温や血圧の測定などのバイタルチェック、それに栄養補給の点滴を施すのみ。今後も容態に変化がないかぎり、ただ二人を静かに見守ることしかできない。
将人に友里のことを訊ねられた時、今日まで曖昧な返事しかできなかったことを相沢看護士は心苦しく思っていた。
せめてもの救いがあるとすれば、彼に本来の姿であろうと思える明るさを時折見せるようになったことぐらいだろうか。もう少し刻が経てばすべてを話そうかと思うようになって久しいだけに、幾度となく心の中で詫びてきた。
自分から申し出たことだとはいえ、本音は毎日恋人のもとへ訪れる青年に事実をひた隠すのは辛い。しかし彼の気持ちを考えると自分の苦しみなど些細なことだ。
ならば将人を励ましながら友里の意識は必ず戻ると信じてやらなければならない。ゆえに仲間達と共に奇跡が起きると今まで看護してきた。
この二人には幸せになってほしいと心底願う気持ちに偽りはない。今日になって友里が突然意識を取り戻したのは、将人の想いが神様に届いたからなのであろう。
皆で願った奇跡は起きた。これで自分もようやく苦しみから解放される。数多くの生死の狭間を見てきた彼女であっても、ひたむきなまでに恋人を想う青年に真実を告げられなかった心の痛みは耐え難いものであった。
とは言っても、看護士になってからは常に覚悟してきたことだ。看護学校の戴帽式ですべての人に奉仕の心をもって看護すると誓った以上、如何なる状況であろうとも自分を押し殺して患者に尽くさねばならない。
相沢看護士は職務に従事する前に必ずナイチンゲール誓詞を唱和し、博愛の精神をもって接することを心掛けてきた。
『われはここに集いたる人々の前に厳かに神に誓わん
わが生涯を清く過ごし、わが任務を忠実に尽くさんことを
われはすべて毒あるもの、害あるものを絶ち、
悪しき薬を用いることなく、また知りつつこれを進めざるべし
われはわが力の限り、わが任務の標準を高くせんことを努むべし
わが任務にあたりて、取り扱える人々の私事のすべて、
わが知りえたる一家の内事のすべてわれは人にもらさざるべし
われは心より医師を助け、わが手に托された人々の幸にために身を捧げん』
青年が想う気持ちに同情はしても、この患者は自分が助けなければならない患者の一人にすぎない。自分はすべての人を平等の奉仕の心をもって看護をしなければならない身。一人の患者にいつまでも肩入れすることは許されていないのだ。
ゆえにこれ以上は決して深く踏み込んではならないと己に言い聞かそうとした矢先、目の前の現実が無残にも踏み躙る。
目覚めた友里の様子がどこかおかしい。呼びかけに一切応じず無表情のまま、半開きの瞳で天井の一点だけを見ている。
頭部に受けたダメージにより記憶が失われていようが、まったくの無反応な状態になるとは思えない。十分なキャリアを積んできた相沢看護士でもこのような症例は知らなかった。原因に心当たりがあっても、果たして不完全な状態で脳の覚醒で起こりえるのだろうかと戸惑うばかりで金縛りにあってしまう。
「もしかして、あの時に発見が遅れしまったから……」
それ以上何も言えずに掛け布団にのばそうとした手がとまる。将人に事実を隠していた理由が脳裏に浮かぶ。
友里が搬送されてきた際に見逃してしまった脳内出血が原因だとすぐに理解してしまったからだ。
もしかしてこれを知られたくなかった為に事実を隠そうとしたのではないのだろか。事故の加害者と病院の関係についてもそうだ。青年の心情を慮りながら、実際は我が身の保身を優先したのではないかと罪悪感だけが相沢看護士の中で膨らんでいく。
思考が負の感情で乱れて呆然と立ち尽くす姿に、普段の主任看護士としての面影はなかった。しかし看護士としての役割が彼女を突き動かす。
思考が乱れていても自分が今すべきことを実行に移す彼女の主任という肩書きは伊達ではなかった。慣れた手つきで胸ポケットから体温計を取り出して友里の腋へ挟む。
脈をとりながら呼吸数を計り、続けて血圧を測定して異常がないことを確かめる。まったく無駄のない迅速な行動は普段の彼女と何ら変わりない。
「脈拍、呼吸共に問題なし。血圧は若干低いけど正常な数値だわ。熱もないようね」
意識レベルは定かでないが今この場で可能なバイタルチェックを済まし、はだけさせた胸元を戻して無表情の友里の顔に視線を向ける。
目蓋さえ閉じていれば寝ているような穏やかさ。一定のリズムを刻んで吐き出される吐息からして、おそらく苦痛は感じていないのであろう。
「待ってて。すぐに先生を呼ぶから」
返事が返ってこないのを承知しながら相沢看護士は一声をかけ、ネックストラップが付いたハンディタイプのナースコールをポケットから取り出す。手早くボタンを押して操作をはじめると、一見薄型の携帯電話と見間違える端末の液晶ディスプレイに脳神経外科と表示される。
数回の呼び出し音の後、看護士らしき女性の声が聞こえた。すぐに友里の担当医を呼び出してもらい、受話器越しにその容態を伝える。
「――分かりました。では、私の方でMRI室の使用を手配しておきます」
声の主は状況を理解した後、すぐに向かうと返事した後に受話器を切った。
今から外来診療に就く前の担当医は、おそらく数分で駆けつけてくれるだろう。
しかしそれまで自分に出来ることは限られている。相沢看護士にとって、僅か数分が途方もなく長い時間のように感じていた。




