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黙した瞳の前で

 事故があった日からまもなく10ヶ月を過ぎようとしていた。

 シフト勤務で休みや就業時間が不定期だった以前とは違い、将人は朝から夕方まで真面目に働き、その後は毎日欠かさず病院へと訪れる。今では不便に感じていた電車での移動にすっかり慣れてしまい、満員になった車内の混雑も苦にならなくなっていた。

 そして今日もまた仕事を終えるなり電車を乗り継ぎ、寄り道をすることもなく病院へと駆けつける。疲労がたまって身体が休息を求めても将人自身に自覚がない。いつもと変わらぬ足取りで脇目も振らずにロビーを抜け、通路の奥にあるエレベーターを目指す。

 外来診療が終わった時間帯ともなると夜間照明になって周囲は薄暗く、誰ともすれ違うことはなかった。静まりかえった院内に彼の足音だけが響きわたる。エレベーターホールにある時計の針は午後6時を過ぎていた。

 入院患者の夕食の時間と重なって看護士の姿も見当たらない。壁にもたれてエレベーターの到着を待つ将人は、病室のドアを開いたら友里が目を覚ましているかもしれないと根拠のない妄想を膨らます。

「あいつ、顔を合わせたらなんて言ってくるんだろう」

 ぽつりと呟くと同時にエレベーターに乗り込み、病室がある6階のボタンを無意識に押していた。

 頭の中で友里の恥ずかしげな仕草が浮かび、自然と表情が綻んでいく。おそらく視線を逸らして「お疲れ様。ちゃんと真面目に働いているみたいね」と、何食わぬ顔を装うであろう。その彼女の態度に何を言ってやろうかと妄想にふける間にエレベーターが動き出す。

「毎日来ていたって知ったら、おもいっきり恥ずかしがるんだろうなぁ」

 友里の性格からして、将人には後の展開が手にとるように想像がつく。おそらく顔を真っ赤にに染めて「バイク売り飛ばして他にすることが何もないこの暇人! 人の寝顔をずっと見ていただなんて、なんてデリカシーないのよ!」って、上ずった声で一気に捲くしたてることだろう。

 あれこれと羞恥に染まった友里の姿を想像しているうちに、気がつけば目的の階へと到着していた。

――あいつはそうでなきゃ全然らしくねぇ。今日こそドアを開けたら……。

 妄想が願望に変わっていく中で、将人は二人で過ごした何気ない日常がどんなに幸せだったのだろうかと噛み締める。

 当たり前だった二人だけの時間。他愛もない話やお決まりのツーリングデート。暇さえあればバイクを弄り、自堕落な自分に説教をする友里の姿が浮かんでくる。

 自分にとっての幸せは常に身近にあり、すべてが遥か遠い過去のようにも感じた将人にそう長く感慨にふけている時間はなかった。エレベーターの扉が開いた先にあるナースステーションの光景によって現実へと引き戻されてしまう。

 とは言っても、悲観的になったわけでもない。友里は一生このままなのかと不安に駆られることがあっても、目覚める日が必ず訪れると前向きな自分がいるのも確かなのだろう。

 何もかもすべてを自分だけで背負い込もうとしていた時と比べ、心の負担は幾分か軽減しているのが見てとれる。以前まで煩わしいと感じていた看護士達が今では彼の支えになっていたようだ。

 相沢看護士が博愛に満ちた眼差しで友里の世話をする真摯な姿に勇気づけられ、樋口看護士との他愛もない会話が心の痛みを和らげてくれる。

 他の看護士達もそうだ。自分に対しての接し方は違えど、友里が必ず意識を取り戻すと誰もが信じてくれるからこそ、将人は次第に心を開いていった。

 ゆえに近頃はすれ違うと挨拶を交わしてから病室に入るのが新たな日課となったのだろう。

 ただ将人本人だけがそれに気がついていない。周囲からみれば心境の変化が窺えるにも拘らず、友里のことばかりを思い浮かべながら自分に出来ることは他にないのかと思案にふける。自分にとって身近な存在となった看護士達について関心をもつことが一度もなかった程だ。

 頼んでもいないのになぜ今もまだ花瓶に花を活け、こまめに水を入れ替えてくれるものだろうかとすら考えていない。唯一訊ねたのは、花が枯れる前に新しい花を買ってくる相沢看護士がお金を渡そうとしても受け取らないことぐらいだろうか。

 職務とはいっても、担当患者だからという理由ではとても説明がつかない。以前に若い女性の病室にしてはあまりにも殺風景だからと言っていたが、果たして患者の為にそこまでするのだろうか。

 花の香りが眠り続ける友里の嗅覚を刺激するとも言っていたが、それならばアロマなどを用いる方が効果あると普通は考える。

 ところが彼女曰く、自然の匂いの方が脳によい刺激を与えるという。

 また趣味のガーデニングを兼ねているから迷惑でなければ続けさせてほしいとまで言われてしまえば、もはや将人に断る理由は一つもない。最近になってガーベラも育てるようになったという話までされては金銭面でも断れなくなってしまった。

 真面目な相沢主任の考えそうなことだと素直に納得してしてしまい、以後は疑問に思うこともなくなって今に至っている。

 しかし今日に限って目の前で看護士達が慌しくナースステーションに出入りする姿が異様に映ってしまう。いつもなら笑顔で迎えてくれる彼女達が、誰一人として自分に気がついていない様子だ。緊迫した空気を張り詰めさせて近寄りがたい。

 病棟ではあまり見かけない医師が難しい顔をしながら受話器を片手に彼女達に指示をしている姿からしても、何か切迫した事態になっている事だけが素人目にしても分かる。

――まさか友里に何か……!

 容態が急変したのではと思ったもの、看護士達が向かう先は友里の病室とは正反対。白衣が流れていく方向が将人に最悪の事態を即座に否定させる。

 以前ならともかく、今の彼には状況把握をする冷静さは多少なりともあった。末期ガンを患っている患者が同じ病棟にいることを思い出したからであろう。

 そもそも6階は内科の病棟なのだ。重篤患者が入院していても不思議ではない。

 友里がここの個室を与えられているのは病院側からの申し出を受けたに過ぎなかった。一般病室と同じ費用なのだから将人に断る理由がなく今に至っている。

「確か余命が短い爺さんが向こうの個室にいたって、誰か言ってたよな」

 おそらくここの入院患者の誰かの容態が急に悪化したのだろう。将人は友里ではなかったと安堵しながらも、己が不謹慎な気持ちになったことを心の中で出会ったこともない見知らぬ相手に詫びた。

 そこへ背後から相沢看護士に声をかけられてふり返える。

 普段は何事にも冷静な彼女がどうも落ち着きがないように見えてしまう。見慣れた凛としたたたずまいと優しい微笑みは消え、何かを言おうとしているのを躊躇っているような面持ちだ。

 将人は他の看護士達の様子からして、相沢看護士もまたその対応に追われているからだと思った。ならば自分に構わず患者のもとへ駆けつけるべきだと言いかけた矢先、目の前の彼女の唇から友里の名前が漏れる。

 そこへ「落ち着いて最後まで聞いて」と切りだす相沢看護士の悲壮感を漂わせる決意の眼差しが将人を硬直させた。

「今朝、意識が戻ったの」

「――本当ですか、友里が意識を取り戻したって!?」

「ええ、でも……ちょっと、まだ話が終わってな――! 待って!」

 思いがけない言葉を投げかけられ、将人は歓喜で身を震わせると呼び止める声を無視して友里の病室へ一目散に駆ける。

 半ば諦めかけたときもあったが、ようやく意識を取り戻したのだ。そんな彼を引き止められる術を、いったい誰が持ち合わせているのだろう。もはや涙を溢れさせながら喜び勇んで病室へと飛び込む背中に追いつける者はいない。

 将人は先に言葉の続きを聞いていておくべきだった。つかの間の喜びが一瞬にて絶望と悲しみに打ち砕かれることもなかったことだろう。

 喜び勇んで病室に駆け込んだ為に、天井を見上げたまま一切の反応を示さない友里の様子をまるで分かっていない。涙と鼻水で顔を汚しながら嬉しそうに呼びかける。

「ゆ、友里……」

 いくら声をかけても友里は何も反応を示さない。起き上がろうとするどころか、まったく振り向こうとすらしなかった。

 まるで人形のように一切の感情を出さず、半開きの瞳は天井だけをじっと見ている。体温は感じられても死人のような友里の様子に、将人はようやく気がついて病衣が乱れるほどに肩を激しく揺すりだす。

「おい、どうしたんだよ。友里、まさか俺が分からないのか?」

 意識があるのなら、後頭部を何度も枕に叩きつけられては抗おうとする。真っ先に肩を激しく揺する手を払おうとするだろう。

 ところが幾度となく乱暴なまでに揺さぶられても、物言わぬ恋人は嫌がる素振りを一切見せない。逆らおうとするどころか眉をひそめることもせず、半開きに開いたままの瞳を虚ろに頭が無気力に跳ね上がる。

 揺すられた勢いで唇から微かに歯を覗かせても声を発することがないばかりか、拒絶の意思を示すことすらもなかった。

――なんで何も言ってくれないんだ! 声を聞かせてくれよ!

 動揺するあまりに、将人は心の中で叫ぶ。

 まったく反応を見せない様子に言いしれぬ不安が渦巻く。

 たった一言でもいいから声を聞きたいと願う。

「こんな時に冗談はやめてくれよ。頼むからさ、何か言ってくれ。友里、友里ーーーーっ!!」

 顔を擦り寄せた将人に耳元で大声を出されても、友里は表情を歪めようとしない。強引に上半身を起こされて背筋が仰け反り、力なくもたれかかってくる。

 それはあたかも彼女だけが時の流れから取り残されたかのようだ。瞬きをほとんどしない双眸は光を失い、本人の意思がまるで感じられなかった。

「そうか、一年近くも寝ていたから、まだ寝ぼけているんだな。ハハッ、お前まで寝起き悪くなっちまったのかよ。しかも俺より酷いじゃないか。なんなら毎日起こしてやろうか。耳元で大声出してやるから覚悟しとけよ」

 おどけてみせれば何か反応を示すのではないかと悪態を吐く。感情だけではなく、まるで思考や記憶といったすべてを失ったかのような姿に将人は耐えられなかった。

 時に恋人でありながら時には母親のような優しさを、またある時には小さな子供のように振舞って接してくれる彼女とはいつまでも繋がっていると信じていたい。いや、信じているからこそ痛々しいまでの行動だった。

 脳裏に浮かんでくるのは友里と出会ってからの日々。様々な思いが胸中を駆けめぐり、とめどもなく涙が溢れてくる。

 意識を取り戻したのなら希望は必ずあると思う反面、一生このままなのかと不安を拭うことができない。葛藤の中でひきつった笑顔が崩れ、やがて後悔と悲しみの色に包まれていく。

「俺はお前を守ってやれなかった。あの日だって俺を心配してくれたから家まで送らなくていいって言ったんだろう。友里の言うことちゃんと聞いてもっと真面目に働いていりゃ、こんなことにならなかったもんな。悪かったよ、友里……。こんな目に合わせたのは俺だ、すまなかった。だからさ、いつもみたいに怒ってくれよ。なぁ、いつもみたいバカとかなんでも言ってくれよ」

 自虐の言葉を吐き続けるも、不安は拭えそうにない。いや、広がる一方で黙っている方がもっと辛くなってしまう。

 たった数秒の出来事が、今更ながら悔やんでも悔やみきれない。バイクにばかりうつつを抜かしていた自分が如何に愚かだったのだろうと。

 そして現実をどんなに否定しても目の前にあるからこそ、心の痛みは将人をより責めたてた。

「おい、いい加減に何か言ってくれよ。頼むからさ……友里、友里っ!」

 涙を拭うこともなく、将人は必死になって何度も呼びかける。

 今の自分にできることがあるとすれば、ただ呼びかけながら手を握ってやることしかできない。だからこそ触れて想いが通じるのを心から願う。

「聞こえているなら俺を見てくれよ。何も言わなくていいからさ、ちゃんと見て聞いてほしいんだ」

 それは将人の偽らざる本音だった。

 些細な反応でもいい。自分の声が届いているのを確認したかった。

 もしも記憶を失っているのなら、ゆっくりと時間をかけて取り戻せばいい。たとえ戻らなくても、新しい思い出を作ればいいとさえ思っている。

 その健気な姿を目のあたりにして、いったい誰が声をかけられようか。

「主任、将人さんに本当のことを言ってあげた方が……」

「ダメよ。彼を傷つけるだけだって、それぐらい貴女にも分かるでしょう」

 相沢看護士と樋口看護士がずっと後ろから見守っているのを将人は気がついていない。友里の意識をどうにか自分に振り向かせようとするあまりに気配すら感じていなかった。

 背後で交わされる会話すらも耳に届いておらず、表情のない友里が口を開くのをひたすら待ち続ける。

「でもあたし、もう見ていられないんです。これ以上の回復は望めないんですよ。友里さんはもう……」

「しっ、大きな声出さないで」

「だって後で知った方がショックが大きくなるかもしれないんですよ。目を開いただけでも奇跡は十分に起きています。だから」

「黙ってなさい!」

「だって!」

「いい加減にしなさい。貴女がそんな顔をしていれば、彼はもっと不安になってしまうでしょう。それよりも早く自分の持ち場に戻りなさい。ここは私一人で大丈夫だから」

 小声だった二人の声が大きくなり、将人はそこで背後に気配があるのを感じてふり返った。

 いや、友里の名前が鼓膜に突き刺さり、その後の会話を聞き入ってしまったからだと言った方が正しいのかもしれない。

「なぁ……友里がもうって、どういう事なんだよ」

 聞き捨てならない話に衝撃を受けても信じたくはなかった。

 だが確かめずにはいられないからこそ将人は問いただす。自分の聞き間違いであって欲しいと願いながらも、彼女達が何を言っていたのか確かめずにはいられなかった。

「ま、まだ意識が混濁しているみたいだから、しばらくはそっとしてあげてって言おうと思って」

「嘘を吐くな! 何か隠していることぐらい分かっているんだ。正直に言えよ!」

「そ、それは――! 樋口さん、貴女はいつまでそうしてるの。早く自分の持ち場に戻りなさいって言ってるでしょ!」

 睨みつけるように自分を見据える将人の視線に言葉が詰まった主任看護士は、話をすり替えようと後輩に目を向けた。

 また口を滑らされては困ると言いたげに病室から出て行くように促すも、足を竦めた若い看護士は立ち去ろうとしない。将人の気迫と目覚めた友里の容態について何かを隠している罪悪感からなのか、押し黙ったまま身を震わせていた。

 睨みつけるように二人のナースを交互に見る将人に対し、相沢看護士は押し黙り、病室から立ち去るように言われた樋口看護士はうろたえたまま立ち竦める。

 狭い個室の中に重苦しい空気が漂う。

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