心通わせるガーベラの花
季節はまためぐり、今は冬に飾られた小さなクリスマスツリーの代わりに以前に旅先で撮った二人のツーショットの写真が飾られていた。
薄着の身なりからして夏頃だろうか。その背後にバイクと長閑な田舎らしき風景が映っていることからして、どこかへツーリングに行った先だと思われる。
その写真を見ていた一人の看護士が病室から出ていく。そして一人残された友里はベッドの上で静かに眠り続けていた。
病室の外は寒さも幾分か軽減され、まもなく春が訪れようとしている。昼間となれば暖かな日差しが心地よく、病院の中庭に入院患者や付き添う人の姿をちらほらと見かけるようになった。
花壇の近くにあるベンチに腰掛ける老人やリハビリを兼ねて散歩している若者、他にも様々な人達が各々違った目的をもって訪れている。
退屈な入院生活の変化を求めたり、あるいは早く日常生活を取り戻そうとしているのだろう。ただ誰もがベッドで寝ていた時と比べて、幾分か血色のいい顔をしているように窺える。
敷地の外にある梅の木が蕾を開花させようとする時期になれば毎年見かけるこの光景。看護士達は温かく見守りながらも季節の移り変わりを実感していた。
そして将人がバイクに乗る姿を見かけなくなったのも数週間前のことだ。
ある日を境に愛車を捨てたらしいという噂話に興じる姿が目立つようになる。その理由を聞こうにも、誰も寄せつけない雰囲気を漂わせている彼に看護士達は尋ねることができなかった。
面会に訪れるのがいつもより遅くなっても、病室に入ったら面会時間いっぱいまで帰らず、友里の傍から片時も離れないのは今までと何ら変わりない。彼の中で何かが変わった様子が特に見当たらないだけに、ナースステーションでは様々な憶測が飛び交う。
「そうじゃなくて、彼がここの入院費用を全部出しているからよ。やっぱ生活が苦しくなって売ったんじゃない」
「それも違うわ。スピード違反で免停になったらしいって聞いたんだから」
「免停って、そんなに長いものなの? もう一ヶ月ぐらい経っているのに」
「バイクなんて乗ったことないんだから、あたしが知ってるわけないじゃん」
「じゃあ、それも違うみたいね。で、結局はどうなのよ。誰も彼から聞いてないわけ?」
「そう言うけどアンタ、あの雰囲気の中で聞けると思う?」
「う~~ん、無理……」
噂の出所を確認もせず、各々が勝手な理由をつけて噂話に興じる。将人の姿に心を痛めても、こういった話になればつい盛り上がってしまう。
さも自分が言ったことが正しいと主張し合い、あるいは真実を突き止めようと躍起になって身を乗り出してしまう始末。今は勤務中であることを彼女達は完全に忘れてしまっているようだ。そこへ友里の担当をしている相沢看護士が分厚い資料を束ねたファイルを抱えながら戻ってきても、誰一人として気がついていない。
「貴女達、いい加減にしなさい!!」
ファイルで机をおもいっきり叩いて怒鳴る上司の姿に、誰もが先程までとは違う神妙な面持ちで身を硬直させて黙り込む。一瞬にして静まりかえったナースステーションに相沢主任の張り上げた声だけが響く。
和気藹々とした空気が一変して張り埋めたのは言うまでもない。誰一人とて例外なく縮こまる。
「また患者様のお身内の方を興味本位であれこれ噂をたてるなんて、まったく何考えているのよ。さっさと自分の持ち場に戻りなさい。まだ勤務中なのよ。急いで!」
今度は手の平で何度も机を叩く彼女に圧倒された看護達がカルテや医療器具などを携え、鋭い双眸に怯えながら散りぢりになって出ていく。
その慌てふためく姿に相沢看護士は呆れ、ファイルを自分の机に置くと溜め息を吐いた。
「みんな自分の立場というものを分かっていないんだから……」
将人がバイクに乗らなくなった理由を自分も知りたいからその気持ちはよく分かる。だからと言って看護士が患者や身内のことに対して根も葉もない噂をたてていいものではない。
知り得たプライバシーを守るのも自分達の仕事の一つなのである。特にあの患者と青年のことは静かに見守ってやるべきだと相沢看護士は思った。
今日は仕事が休みなのだろうか、将人は朝から病院に来ている。いつものように面会時間が終わるまで決して傍から離れないだろう。昼間に病室へ立ち寄った時、動かない友里の手をずっと握り締めていた。
点滴を施している最中でも、今と同じ頃の季節を感じさせる思い出話を語り続けていたのを思い出す。その悲しいまでの献身的な姿の前にして、病室に長く留まっていられなかった。
ゆえに最近になってからは将人が面会に訪れている時間帯を極力避けて窺うようにしていた。業務に必要な会話を彼と手短に交わすと病室から出ていく。看護に支障をきたさなければ点滴とバイタルチェックを同じ時間に行うように努めた。
自分が非番の日に代わりを任された看護士達の行動も何一つ変わらない。淡々と業務をこなし、事務的な会話を済ますとすぐに出ていくように徹底させた。
二人の邪魔をしてはいけないと気遣った相沢看護士の行動――。その甲斐があって今ではむやみに病室に立ち寄る者はおらず、看護士達に広がった噂話が消えるまでに時間はそう長くかからなかった。
皆も少しは将人の気持ちを考えてあげられるようになったのだろう。ある者は居た堪れなくなったのか、どこかぎこちない手つきで血圧を測ったと聞く。
ただ、どうしても面会時間の終わりを告げなければならない。
院内規則が煩わしいと思うほどに嫌な役目だと感じている者もいることだろう。ゆえに自分が不在の夜勤勤務の看護士達は、その役目を新人に押し付けたと思えてならない。
翌日に聞いた報告によれば、新人看護士は「もう面会時間は終わっています。ですから、そろそろ……」と言いよどみ、ドア付近に立ち止まったまま一度も顔を合わせられなかったそうだ。おそらく自分と同じように少しでも留まっていることに引け目を感じ、いそいそと病室から立ち去ったことだろう。
そして将人は二人だけの時間を名残惜しむあまりに、涙ぐんだ新人看護士の様子にすら気がついていないだろうと想像がつく。
居合わせていなくても状況が脳裏にはっきりと浮かんでくるだけに、相沢看護士は夜勤のシフトを誤ったと後悔した。
* * *
春の暖かな日差しが病室の窓に差し込んでくる。
ベッドの横にあるテーブルの上には、二人の写真が入ったフォトフレームに並べて底が楕円の形をした細長い花瓶が置かれていた。ピンクと黄色、そして白い花弁が彩りよく添えられたガーベラの花は中庭にある花壇に咲いたものではなく、どこかで買ってきたのだろうか。
昨日までなかった花が将人の目に飛び込んでくる。
小さなテーブルの上に置かれた花瓶の存在に最初は面食らうもの、見舞いに訪れた友里の会社の同僚か友人によるものかと思い込む。
しかし実際は違っていた。
彼の心情を酌んだ相沢看護士によるものである。
一年近くに及ぶ彼の献身的な姿を目の当たりにして胸が痛んだのだろうか。看護士としてではなく、一人の人間として自分に何かできることをしてあげたいと思っての行動のようにも窺える。
だとすれば、奇跡というものを将人と同じように信じてあげたいという気持ちがあるからこそではないだろうか。そして何時しか他の看護士達も彼女と同様に自らの意思で花瓶の水を入れ替えはじめた。
将人が頼みもしないことを、彼女達は当たり前のように毎日欠かすことなく花の世話をしているようだ。
枯れはじめたら新しい花を活ける。これを誰もが当たり前のように続けた。
業務にない厚意に感謝の言葉を求めたりもしないのだから、将人にしてみれば理解できなくて無理もない。
どうして急に、いったい何を目的に花瓶を置いたのか――。
しかも自分がいない時間帯に花の世話をしている意図が分からない。彩り鮮やかに咲いた花が友里に似合うと思いつつも、その疑問が今まで誰とも言葉を交わそうとしなかった将人をナースステーションに立ち寄らせた。
「あの花ですか。あれは相沢主任が置いたんです」
「相沢主任?」
「ええ、芹沢さんの担当をさせて頂いている看護士です。いつも自宅の近くで買っているらしいんですよ。詳しいことは明日にでも本人に直接聞いてみてください。今日はお休みでいませんので」
尋ねた若い看護士の返事に嘘はないようだ。話しかけられて最初は驚き戸惑っていたもの、どこか嬉しそうに見つめている。
ところが将人は先日に病室から涙ぐんで立ち去った新人看護士だと気がついていない。今までに何度も顔を合わせたことすら覚えていなかった。
晴れやかな表情の彼女に対して素気ない態度のまま、ショートカットの可愛らしい風貌に興味すらみせない。
「だよな、そうするよ。お礼言わなきゃいけないし。でも花なんか置いても見ることが出来なければ意味ないんじゃないのか」
「あら、お花って見るだけでなく、香りも楽しめるんですよ。それに匂いの刺激で意識の回復を見込めるかもしれません。そう思ってあたしもお花の世話をさせて頂いています。と、言っても買ってくるのは主任なんですけどね。あのぉ、もしかしてご迷惑だったでしょうか」
「そんなことはないよ。気を遣ってもらってありがたいと思ってる。だから、もしも続けてくれるんならお願いしてもいいかな」
「はい、もちろんです」
目の前の無邪気な笑顔に、そして名前すら覚えていない担当看護士の心遣いが周囲に対して心の壁を張り巡らせていた将人の気持ちに変化をもたらせる切欠となった。だからこそ翌日になって花を活けた本人に「ありがとう」と素直に言えたのかもしれない。
ただ理由を尋ねても「女性の病室にしてはあまりにも殺風景でしたから」という返事しか訊けず、本当の理由は未だに分からないまま結局は疑問の解消はされなかった。
妙に引っかかる花瓶を置いた理由と感謝の気持ち――。以前なら気にも留めなかったこの事を意識するようになって以降、看護士達とのコミニュケーションも次第にとれるようになっていく。
彼自身はまだ自覚していなくても、たまに訪れる友里の同僚や友人と普通に言葉を交わし、検温に訪れた看護士達に友里との思い出を語りはじめたのが何よりの証だろう。担当看護士の名前が“相沢志津子”という名前だと覚えたのもこの頃だった。
生真面目ながらも優しい物腰で接してきたからこそ、長く心に根付いた将人の不安を和らげていったのかもしれない。
――こんなにも一生懸命になって看てくれているんだから、友里は必ず目を覚ます。
ガーベラの花が盲目的な彼の視界を広げ、信頼という花を咲かせてきた。ただ新人の看護士が「こんなにも愛されている友里さんが羨ましい。将人さんみたいな彼氏、私も欲しいなぁ」と口走った一言には苦笑いで誤魔化すしかなかったようだ。真横から面と向かって言われたのが照れくさかったのか、友里の手を咄嗟に放すと落ち着きがなく頭を掻きながら俯いてしまう。
そもそも苗字の“徳山”で呼ばないのはこの樋口という若い看護士だけだ。多少馴れ馴れしい接し方であったが、逸早く打ち解けたのもあって違和感を覚える間もなかった。
やがて他の看護達も苗字で呼ばなくなり、それが今では定着している。ナースステーションで花瓶のことを尋ねてからというもの、どうも樋口看護士のペースに巻き込まれてしまっているのではと将人は感じてならない。
顔を合わせるとすぐに話しかけてくる彼女は、おそらく人懐っこい性格をしているのだろう。場所が何処であろうが関係なく、親しい友人のように接して無邪気な笑顔を振りまいてくる。
それは友里と二人っきりになりたい時でも変わらない。場の空気を読む能力に欠けているのではないかと思ってしまうほどの懐きように、この人は苦手だと将人はつくづく思った。
「あのぉ、あたしヘンなこと言いました?」
「いや、別に……」
チラリと横目で見ると、樋口看護士のキョトンとした表情が目に飛び込んでくる。座っている自分を見つめている若いナースにどう返事をしていいのか分からず、将人は思わず花瓶を持って立ち上がった。
視線を合わしたくないばかりに右往左往した挙句、顔を背けたまま「花瓶の水、入れてくるんで」と言い残して後ろを通り過ぎる。呼び止められる前に病室から出たのは、照れてしまった自分を見られたくなかった為だ。
樋口看護士は将人の顔が真っ赤に染まっていたのを気がついていない。丸くなった背中を不思議そうに黙って扉が閉まるまで見送ると体温計を取り出し、血圧計をベットの隅に置いて友里のバイタルチェックをはじめた。
将人自身は少しばかり迷惑に感じていたもの、つかの間の時間だけでも事故の時の記憶を忘れられたのは確かだろう。
「勘弁してくれよ」
呟くように愚痴を吐き、また何か言われたくないと思って時間を潰しに売店へ寄った。
いつもなら友里の傍からほとんど離れない将人が、缶コーヒーを片手に病室へ戻ったのは、しばらく時間が経ってからのことである。
* * *
いつもと同じ毎日、いつもと同じ風景。
そして目覚めぬ恋人の傍には、寄り添う青年の姿がある。
残っていた小さな傷や痣もすべて消えた友里の手を握り締める日々に今までと何ら変わりはない。ただ唯一今までと違っているとすれば、ぎこちないながらも時折笑顔を見せるようになったことぐらいだろうか。
様子を窺いにくる看護士達との何気ない会話は、心労が窺える彼を優しく労っていたのかもしれない。以前なら声をかけられてもろくに返事すらしなかった将人が、今では看護士達から雑談を持ちかけられても嫌な顔をしなくなっていた。
一年近く経ってもまだ自分を励ましてくれる彼女達の様子からして、希望を捨てなければ友里は必ず元気になる。不意に襲い掛かる不安に押し潰されそうになってもそれをグッと押し込め、眠り続ける友里に笑顔をふりまく日々が続く。
「俺は信じている。お前がいつか目覚めて、俺の名前を呼んでくれる日が必ずくるって」
傍から見れば誰もが無理に作り笑いを浮かべているように見えても将人には精一杯の笑顔だった。しかし悲しみに沈んでいる時に比べれば、幾分なりとも本来の自分を取り戻しつつあるのも事実なのだろう。
やがて表面だけの作り笑いが何時しか本当の笑顔に変わっていった。検温に訪れた樋口看護士の恋愛話に付き合い、他愛もない話にすらも耳を傾ける。
話がつい弾んでしまうのは、看護士という立場を忘れたかのような振る舞いをする若い看護士のペースに毎度のことながら巻き込まれてしまうからなのかもしれない。
下手な手料理をどうしたら上手くなれるのかと相談されたりもした。
以前なら友里が元気だった頃を思い出してしまうような話に付き合うことはない。周囲にも意識を向けられるようになり、心に余裕があるからこそ苦手なタイプだと思いつつも、止まらない樋口看護士の話に相槌をうち、自分が知りうる限りの知識を総動員して言葉を返す。
「へぇ、牛乳にニンニクを浸けておくと臭みを抑えられるんですか。全然知らなかった」
「水よりも浸けておく時間が短くて済むし、カレーにだって相性が良いんだ。今度試してみるといいよ」
「将人さんって、料理もできるんだ。凄いなぁ」
和やかな空気に包まれた中、感嘆とする自分より年下の若いナースに尊敬の眼差しを向けられ、将人は気恥ずかしそうに視線を逸らす。
友里がカレーライスを作ってくれた時の事をただ思い出しながら話しただけなのにと思いつつ、瞳を輝かせて嬉しそうにしている表情をまともに見ることができない。照れくさくなった自分を隠すために、乱れてもいないベッドの掛け布団を整えはじめた。
「ちょっと何か勘違いしてない? 俺、料理なんて無理。まともに出来っこないよ」
「へっ!?」
樋口看護士が素っ頓狂な声を出したときは、必ずといっていいほど言葉の意味をまったく理解していない時だ。その反応からして無意識によるものだと将人は認識している。
本人曰く、これは癖で治らないらしい。その真偽はどうであれ、将人にしてみれば気さくな振る舞いで接してくる彼女はどこか看護士らしくないように思えてならなかった。
実際に病室に入ってからというもの、樋口看護士は本来の目的を終えた後もずっと雑談に興じて職務を忘れているようだ。気がつけば、かれこれ10分以上も経っている。
「だからコイツがニンニクを使う時はいつもそうしていたのを見ていただけなんだ。それでいつの間にか覚えてしまったってこと」
「なんだ、そうなんですか。へぇ、友里さんって料理も上手だったんですね。あたし家事が苦手なんで尊敬しちゃいますよ」
将人につられて樋口看護士も友里の寝顔に見入る。
穏やかに寝息をたてる彼女の顔には事故の時の傷が何一つ残っていない。綺麗な顔立ちにはシミ一つなく、透き通るような綺麗な素肌は潤いに満ちていた。
「綺麗で家事はもちろん、なんでも得意……しかも将人さんみたいな素敵な彼氏もいるんだから羨ましいなぁ。なのにあたしったらいつも彼氏と喧嘩ばかりで……あっ、なな、な、なんでもありません! い、今の忘れてください。聞かなかったことに!」
将人に羨望の眼差しを向けていた樋口看護士の顔がみるみると赤く染まりだす。何かに嫉妬していたような発言を撤回しようと慌てふためく。
ところが突然なまでの狼狽ぶりの意味に将人は気がついていない。
「え!? 喧嘩って、そりゃ付き合っていたらたまにはするだろう」
「違っ! で、ですから……ひゃわぁ、や、やだ。え、え、え~と……そうそう、他の患者さんの検温がまだでした。ですからそういう事で、そろそろ……し、失礼しますね。何かあったら呼んでください。それでは!」
思わず出た本音を誤魔化そうとして、慌てふためく樋口看護士はお辞儀をするなり足早に出ようとして転ぶ。膝小僧を片手で擦りながら愛嬌笑いをしたかと思えば、ドアを開けっ放しに逃げ出さん勢いで去っていく。
何かを必死に隠そうとしたその慌しい後ろ姿を、将人は唖然としたまま見送るしかなかった。
「俺、何かヘンなこと言ったっけ?」
片眉をひそめて考え込んでみるも、答えが見つかることはなかった。
まさか二人の関係や自分の幼顔をしたルックスと友里の美貌を見比べて思わず口走ってしまった言葉だったと分かるはずもなく、機嫌を損ねてしまうようなことを言ってしまったのではないかと勘違いしているのだから尚更だ。帰り際にナースステーションへ立ち寄り、居合わせた相沢看護士に本人は不在中と告げられて詫びを伝言してしまった。
自分の早とちりから、まさか他の看護士達から失笑を浴びるとは思いもしなかったことだろう。いったい何を間違えてしまったのかと更に深みに陥る。
そこへ相沢看護士から「あの子自身の問題ですから気になさらないで下さい」と苦笑まじりに言葉を返されてしまい、余計に意味が分からなくなってしまう。
「友里も突然笑ったり、怒ったりすることがあったよなぁ。いったい何だってんだよ」
過去を思い返しても分からない将人に、複雑な女心を理解するのは難しすぎたのかもしれない。挨拶を済ませると身を翻し、とぼとぼと歩きながら片手をジーンズのポケットに突っ込んで頭を掻き毟る。
エレベーターに乗り込んだ自分を見送ってくれる相沢看護士の笑顔が妙に引き攣っているように感じて、やはり樋口看護士を傷つける言動をしたのではないかと思い込んでしまった。
* * *
将人は何か勘違いをしたままのようだと思いながら、相沢看護士はエレベーターのドアが締まるまで見送った。
樋口看護士が咄嗟に隠れた理由を教えてあげれば今頃は単なる笑い話で終わっていた筈だ。彼が気に病んだまま帰ってしまうこともなかったであろう。
失笑を買ったことにしても気の毒だと思いつつ、友里のことで暗く沈んでしまうぐらいなら、まだ他のことで気に病んでいる方が幾分かは良いだろうと思って話を濁し、あえてナースステーションの奥に隠れている後輩が望んだ通りにこの場を収めた。
ただあの青年が明日になっても気に病んでいる様子ならば、事情をきちんと説明してやるべきだろう。相沢看護士が将人を見送る前にどう表情を浮かべたらいいのか困惑したのはその為だった。
「主任、すみません」
「ホントにもう!」
将人の姿がエレベーターに消えたあと、樋口看護士がひょっこりと顔を出して相沢主任に詫びる。彼の声が聞こえて咄嗟に身を隠し、挙句には代わりに相手をしてもらった己の無責任な行動についても反省している様子だ。
普段の明るい性格とは思えないほど縮こまって頭を下げ、上目遣いにおどおどした態度で主任看護士を見つめている。
「患者さんのことを羨むなんて、貴女いったい何考えているのよ。しかも将人君に気を遣わせることまで仕出かして。それとプライベートを職場に持ち込まないこと。いい、分かったのなら今後は気をつけなさい」
「はぃ……すみません。以後、気をつけます」
消え入りそうな声でそう返事するなり、樋口看護士は書類を挟んだバインダーで顔を隠すと、恐々としながら潤んだ瞳で鋭い双眸を見つめたままひたすら許しを請う。
ところが小言がまだ続くと覚悟している様子の若いナースにしてみれば、しばしの無言の後に大きな溜め息を吐くなり「もういいから仕事に戻りなさい」と言われたのが意外だったように呆気にとられて黙り込む。
俯き加減に安堵の表情を浮かべている後輩に、相沢看護士は呆れながらも可愛く思えてならなかった。仕事のミスを何度となく咎めても腹がたたないからこそ、実の妹のような愛しさすら感じていた。
但し、立場上からしてこのまま甘やかしてはならないと一度は下げた目尻を吊り上げる。まだ一人前と認められないからこそ厳しく接してしまう。
「話が終わったら、いつまでもぼやっとしない! 6号室の山田さんの点滴まだなんでしょ。ぐずぐずしないの!」
「は、はいっ!」
裏返った声で返事をするなり、足早にナースステーションの奥へ入っていく後輩の姿を見ながら相沢看護士がまた大きな溜め息を吐く。
一方の樋口看護士はステンレス製のトレーに乗せてある点滴容器のラベルを確認すると、慌しく自分が受け持つ患者の病室へと向かう。
夜勤担当の看護士と交代と交代時間が過ぎても、多忙な彼女達の業務が終えるのはもう少し先のことだった。