胸中に去来するもの
友里が一命を取りとめ、容態が安定したのは数日後のことだった。個室のベットに移されてからは生命維持装置も外され、今は静かに眠り続けている。
そして意識が戻っても当面の間はじっと安静にしていれば大丈夫という医師のお墨付きに、将人はようやく胸を撫で下ろすことができた。
しかし安心したのもつかの間、意識が戻らないまま更に数日が過ぎ去ってしまうとやはり気懸かりでならない。医師や看護士達にいつ目を覚ますのかと尋ねても、もうしばらくすれば戻るという答えしか返ってこなければ不安にもなろう。命の危険は過ぎ去ったという安心感と、しこりのように残る不安に将人の心は揺れ動く。
「明日からは日勤だけにしてもらったんだ。早出はあるけど、残業はしなくていいってさ」
将人は軽々しく言葉を投げかけたが実際はそう易々と希望が叶ったわけではない。面会時間と重なってしまう今のシフト勤務では仕事に集中できないと、必死になって頼み込んだ結果だった。
不安が残ったまま働くよりも、日勤だけにしてもらった方が専念できると所属長に粘り強く食い下がり、最後は何事かと集まった従業員の前で土下座をしてみせた。
いつもは周囲に弱い自分を見せない彼の覚悟を決めた涙混じりの懇願。これが功を奏したのか、今までの不真面目な勤務態度も改めるという条件で受け入れられた。
但し、早朝からの勤務もあると言い渡されただけではなく、一度でも約束を破れば即解雇。挙句に皆の前で念書までも書かされてしまった。
恥も外聞もない行動はすべて友里が意識を取り戻したときに安心させるため。不安が拭えなくても、必ず目を覚ますと信じていたからである。
周囲の者はどうせ三日坊主で終わるだろうと思っていた将人の決意は予想を大きく裏切る。一度も遅刻することなく真面目に定時まで働き、仕事が終えたら必ず見舞いに訪れる日々を続けた。
たとえ早朝出勤のために寝不足であっても、勤務が終えたらすぐに病院へと向かう。バイクに跨ると一目散に友里のもとへ急いだ。
そして夕方の6時頃に聞こえるバイクのけたたましいエンジン音は、いつしか喫煙する入院患者にとっての時報代わりとなっていた。
将人が駐輪場にバイクを停める頃には喫煙所から人が談笑しながら消えていく。夕食の時間を教えてくれるありがたい騒音になっているなど、当の本人は夢にも思わないだろう。
そして季節が夏から秋に変わっても、友里が目を覚ますことはなかった。
毎日見舞いに通っては手を握り、呼びかける日々が続く。
痛々しいほどに巻かれた包帯やガーゼはすでに外され、僅かに残った傷痕や痣がなければ、ただ眠っているようにしか見えない。小さくスー、スーと聞こえる寝息をたてている彼女に、今日も呼びかけては手を優しく握りしめる。
但し、いつも決まって右手ばかりだった。左手の傷はすでに癒えているもの、傷だらけの指輪を見ると事故の記憶が延々とフラッシュバックしてしまうのが辛かったのかもしれない。
将人自身は意識をしていなかったが、トラウマとなった記憶が友里の左手に触るのを拒ませる。毎日決まって折りたたみのパイプ椅子をベッドの右側に置いて座り、友里の右手を優しく包み込むように握り締める日々が続いた。
「なぁ、友里……去年のこと、ちゃんと覚えているか。二人で山頂の展望台に行って、お前が作ってくれた弁当を一緒に食べたよな。俺、お前の料理で玉子焼きが一番好きなんだ。ネギと人参が入ってるあの出汁巻きをまた食べたいんだよ。これからは弁当を作るのを手伝うからさ、早く治してまた一緒に行こうな。冬になってからだったら寒いだろう。だから早く起きろよ」
山の頂上にある展望台に出かけた日のことを思い出しながら静かに語りかける。
それは今と同じ紅葉に彩られた季節。その日も背中にしがみつく友里を連れてバイクを走らせた。
思い返すと止めたバイクの近くから麓を見下ろし、遠くに見える景色から自分達の町を探していた記憶が鮮明に蘇ってくる。思い出に浸る将人の目頭が熱くなり、ピクリとも動かない彼女の手を握り締める手に自分の頬を擦りつけた。
そして次の日、またその次の日も、二人で過ごした思い出を語る。現実をまだ受け入れられないからこそ思い出に浸り続けた。
ところが友里の笑顔や怒った仕草が次々と脳裏に浮かんでも、最後は路面に横たわる姿が浮かんでしまう。
静かに眠り続ける彼女の頬にそっと触れると目頭がまた急激に熱くなる。堪え切れなくなって溢れだした涙を拭おうとせず、将人は穏やかな寝顔を見つめたまま静かに語りかけた。
「友里……俺、どうしたらいいんだよ。なぁ、友里……友里……」
嗚咽しながら何度も呼びかけては手を握り締めて指を絡める。返事が返ってこないのが分かっていながら声をかけずにはいられなかった。
室内にあるスピーカーから面会時間終了のアナウンスが告げられても、将人は友里の傍からすぐに離れようとしない。
少しでも長く彼女の傍に居たいからであろう。様子を見にきた看護士が面会時間の終了を呼びかけにくるまで一度も椅子から立ち上がろうとしない。もうしばらく待っていれば友里が意識を取り戻すかもしれないという淡い希望と、いつ容態が悪化するかもしれないという不安が心の中で絶えずせめぎ合う。
将人にとって仕事を終えてからの面会時間が短すぎたようだ。病院の外へ出た後もバイクに跨ったまま友里の病室をしばらく眺めてから帰るのが日課になっていた。2ヶ月という月日は短くもあり、途方もなく長い日々のように感じたからこそ名残り惜しそうに見つめる。
そして季節が秋から冬へと移り変わっても、友里が意識を取り戻すことはなかった。将人自身も変化がなく同じ毎日を過ごす。今日もまた見慣れた病院の正門を抜け、ロータリーに隣接された駐輪場へと向かう。
病院の駐輪場にバイクを止めた将人の前を、入院患者らしきパジャマ姿の若い女性と寄り添う自分と同世代の男性が通り過ぎていく。楽しそうに会話を弾ませる二人の姿をしばらくじっと見つめ、居た堪れない面持ちでヘルメットを雑に脱いだ。
若いカップルが入っていく病棟の6階にある友里の病室を見上げ、拳をギュッと握り締める。何かを言おうとしてやめ、ライディングジャケットのポケットに両手を突っ込んで病棟の入り口へと向かう。雪がちらほらと舞いはじめたのはリュックサックを背負った将人が病室に入った頃だった。
いつものように友里に呼びかけると背負ったリュックサックを降ろす。ベットの横にある小さなテーブルに取り出した手の平サイズのクリスマスツリーを置き、米粒ぐらいの大きさしかないLED電球を慎重に飾りつけていく。彼女の看護を担当する20代後半ぐらいの看護士が検温に訪れていたことさえ気がつかず、夢中になって細かな作業を黙々と続ける。
背中を丸める彼に看護士は声をかけようとしない。自分の仕事をそつなくこなしながらその姿を静かに見守っていた。
電池ボックスのスイッチを入れる将人が友里に微笑む姿が何処か悲しげに見えたからなのだろう。業務的に小さな声で「何かあればコールして下さい」と言い残し、病室から出て行く間際に一度だけ振り返って次の患者が待つ病室へと向かった。
同情の眼差しを向けられていたのを将人は気がついていない。小さなクリスマスツリーが色鮮やかに灯ったのを確かめ、友里の手をそっと握り締める。
「明日はイブなんだから、せめてこれぐらいの飾り気があった方がいいよな。お前もそう思うだろう?」
小さなテーブルの上には小型のテレビが設置され、あとはベッドの横に将人が座っている折りたたみ式のパイプ椅子の他には何も置いていない殺風景な病室。ベッドに据付けられたスイッチを押して照明を落とすと、小さな灯火が幻想的に仄かな輝きで友里の寝顔に煌めく。
この小さく色鮮やかな輝きを少しでも感じてほしいと、語らずとも穏やかで悲しい眼差しがそう告げていた。
「なぁ、何か欲しいものはあるか? 俺は何もいらない。友里がまた元気になってくれるだけでいい。憎まれ口を叩くお前の笑顔が見たいんだ」
小さな声で呟いた将人の表情にまた俄かに諦めの色が浮かぶ。このまま意識を取り戻すことはもうないのかと、事故の時の様子が繰り返し脳裏によぎる。
日を追うごとに痩せていく姿を目の当たりにすれば尚更だ。元々細かった色白い手を握り締めていると以前より細くなったように感じてしまう。
ところが事故にあう前と然程変わらぬ綺麗な顔立ちを保ち続けている。友里は今も懸命に生きようとしているのではないのか。まるで微笑んでいるかのような寝顔にしても、安心させようとしているようにしか思えない。
ならば自分が信じてやらなければ誰が信じてあげるのかと己に言い聞かして無理に口角を緩めた。
誰が見ても分かる作り笑い。
そんな彼の痛ましいまでの姿に、点滴を持って入ってきた先程の看護士は声をかけられなかったようだ。ベッドに近寄ろうとせず、立ち止まったまま動かない。
「仕方ないわね」
しばらくその様子を見て後ずさり、気づかれないようにドアをそっと閉めて出ていく。いつもならあと30分程もすれば面会時間の終了を告げるアナウンスがあるのに、今夜にかぎってなかったのは、彼女が病室のスピーカーをオフにしたからだった。
患者の看護をするだけがナースの仕事ではないという心遣いが、せめて時間いっぱいまで二人だけの時間に浸らせてあげようと思ったのだろう。未だに友里の担当を務めている自分の名前すら覚えていない盲目的な患者の彼氏に対しても、博愛の心で接することができるからこそ彼女は若くして主任という肩書きを得られたのかもしれない。
この日を境に面会時間が終わるまで、将人は看護士達と顔を合わす機会が減っていった。担当看護士としての立場と主任という肩書きによる権限で、彼女が他の看護士達にその申し送りをしたからである。