長い夜
二人にとって最高の思い出となるはずの日に突然襲い掛かってきた悪夢――。
友里の様態は全身打撲と手足の骨折、そして頭部からの夥しい出血に加え、折れた肋骨が肺に刺さって今も予断が許されない。もしも迅速な救命処置が行われていなければ、病院へ搬送される前に手遅れとなっていたかもしれない程の重症だ。
これを医師から聞かされて将人は目の前が真っ暗になるほどの衝撃を受けた。
頭部の出血が脳内に血が溜まらなかったのが幸いして脳へのダメージを軽減したが、生死の境を彷徨っていることに間違いない。また全身を激しく打ちつけられた際による内臓へのダメージ、特に肺出血は深刻であり、彼女の治療を担当した医師はこのニ、三日がヤマだと告げた。
助かる見込みが少ないとまで宣告されては将人が取り乱すのも無理はない。白衣が破れんばかりの勢いで胸座を掴み、狼狽しきった形相で医師にすがりつく。
「冗談はよしてくれ。なぁ、助かるんだろう。また元気な姿に戻るって言ってくれよ。頼むからさ。先生なんとかしてくれ。友里を助けてやってくれよ!」
「手はすべて尽くしました。あとは……」
「あとはってなんだよ!」
「彼女次第だとしか……。とにかく早急にご家族の方を呼んでください。現状ではそうとしか申せませんので」
「ふざけんな、そんな事があってたまるか! 必ず助けるって言ってくれ」
「ですが……」
「アイツに身内はいねぇんだ。俺しかアイツの傍に居てやれるヤツは居ねえんだよ。なんで、なんでだよ……」
悲痛な面持ちの医師はそれ以上何も言わず俯く。現に集中治療室のベットに横たわる友里には生命維持装置を施され、その機械に頼らなければ心肺の機能を維持することができない。
たとえ一命を取りとめたとしても、その先には過酷な現実が待ち受けることになる。どんなに過酷なリハビリを続けたとして、おそらく日常生活すら満足に過すことすら望めないだろう。
全身打撲に加え、大量出血によって重度の後遺症が出るかもしれないと、将人の狼狽ぶりを見れば言えないからこそ医師は口を噤む。
「俺達……やっと始まったばかりなんだ。今日プロポーズしたばかりなんだよ。アイツ、泣いて喜んでくれたんだぜ。俺とずっと一緒にいたいって……。だからさ、頼むから友里を助けてやってくれ。俺はアイツの傍から離れられねぇんだ。離れるわけにいかねぇんだよ!」
自分の胸座にすがりつく青年の姿に、治療を施した医師は顔を背ける。如何に言葉を取り繕っても、結果的には残酷な宣告をしなければならない。
この場に居合わせた看護士も黙ったまま、ただ見守ることしか出来ないといった様子だ。自分の立場を弁え、割って入ろうとする素振りすらない。
だが将人が集中治療室の扉を開こうとすれば、すぐにでも止めにはいる準備はできているのだろう。扉を塞ぐように医師と並んで動こうとしなかった。
目の前の青年はこちらの話をまともに聞いてくれそうにないのは一目瞭然だ。いつ患者のもとへ駆け寄ろうとするのか分かったものではない。緊張の面持ちが隠しきれていないといった様子で書類を挟んだファイルを両手で抱きしめ、時折チラリと医師に目線を移して次の指示を待っている。
しかし将人に視線を戻すとやはり同情してしまうのだろう。このような場面を幾度となく経験しているであろうにも拘らず、居た堪れない面持ちで青年の狼狽ぶりをじっと見つめた。
「君、彼を頼む」
「はい」
短い言葉にこめられた意味を看護士が察して将人の肩に触れ、あくまでも自然体を装いながら彼を医師からゆっくりと引き離す。
こういった場面に何度も遭遇して慣れているのだろう。将人はそれを嫌がらずに受け入れていた。
「医師や看護士の出入りが頻繁に行われますので、ここでお待ちになられると治療の妨げになりかねません。患者様の様態に変化があれば必ずお知らせします。ですからロビーにてお待ち下さい。私がご案内致します」
肩をおとして頭を垂れる将人に寄り添って連れて行く看護士に後を任せ、医師はまた集中治療室へと戻ると静まり返った通路に二人の足音が響き渡っていた。
* * *
友里が病院へ運び込まれて日付けが変わり、刻だけが無情にも過ぎていく。
ひんやりとした空気が漂う静まりかえったロビーに、いつしか日差しが差し込んでいた。
将人だけが止まった時間の中に取り残されてしまったかのように、ここへ招かれてから佇んだまま動こうとしない。友里と引き離された意味すらも分かず、バイクから降ろした時にもっと周囲に注意していればと今度は己を責める。
何かに怒りの矛先を向けていないと耐えられない。友里がこんな目に合うぐらいなら強引に家まで送ってやるべきだったと悔やみ、自分が何もできない歯がゆさに握り締めた拳を震わせた。
たった数秒での出来事がいまだに信じられず、突きつけられた現実を受け入れることができない。怒り、悲しみといった様々な感情が入り乱れ、地面に横たわった友里の姿が脳裏へ鮮明に浮かんで重なる。
事故が起きた際、信号が変わったのを気がつかなかったと車を運転していた若い男の言い訳に、将人は激昂して胸座を掴みかかった。我を失った彼を事故現場に居合わせた人達で取り押さえ、救急車が到着するまで遠ざけられなければ、怒りにまかせてその若い男を殴り続けていたことだろう。
呆然と車の傍で立ちすくむその若い男に罵声を浴びせても、怒りは静まることはなかった。友里が病院へ搬送されても落ち着くことはなく、手術室の前で苛立ちを抑えきれずに何度も壁を蹴っては悲痛なまでに叫んで手がつけられない有様が続く。警察の事情聴取にすらまともに応じられないほどだ。
手術室から集中治療室へ移される友里に縋りつこうとすれば数人掛りで取り押さえられ、引き離された後もオペを執刀した医師の話をまともに聞けなかったのは先刻のことだった。
そして今は僅かながらも落ち着きを取り戻し、誰もいないロビーで彼女の回復を待ち続けている。意識を取り戻せば、またすぐにでも憎まれ口でも叩いてくることだろうと思いながらも、はやり不安が心の大半をしめてしまう。痛々しい姿を思い返す度に、今も生死の境を彷徨っている現実を否応なしに突きつけられる。
「くそ、くそーーーーっ!!」
やり場のない怒りがふつふつと沸き起こり、叫びながらロビーに並べられたソファーを蹴り飛ばすとスチール製のフレームが床を滑って不快な甲高い音を響かせた。
列を乱したソファーに一瞥した後、奥歯が噛み砕けんばかりに食いしばった将人の怒りがそれで静まることはない。そこらにあるソファーを手当たり次第に蹴り飛ばす。
「なんでこんな事になっちまったんだよ! なんで友里がこんな目に合わなけりゃならないんだ! アイツが何したってんだよーーーーぉぉっ!!」
将人の悲痛な叫びが薄暗いロビーに響き渡る。
周囲の物に当り散らし、おもいっきり泣き喚いたところで気持ちが晴れることはない。分かっていならがの衝動的に体が勝手に動いてしまう。
ただ何かに怒りの矛先を向けていないと耐えられないからこそ憤りを抑えようとしなかった。
やがてこの騒ぎを聞きつけて数人の看護士が駆けつけたのは間もなくのことだった。