夕日の中に君がいた
最終話は将人視点の一人称で物語りは進み、ボリュームも4~5話分ぐらいあって長くなっております。
どうか最後までお付き合いくださいます様、宜しくお願いします。
相沢さんが病院からいなくなった後も何かが劇的に変わることはなかった。違いがあるとすれば、あとを引き継いで友里の担当になった樋口さんが以前よりも顔を見せるようになったことぐらいだろうか。
数日ほど暗い表情こそ見せていたもの、今ではすっかりいつも通りの元気いっぱいな樋口さんに戻っていた。いや、相沢さんがいた時よりも随分はりきっているように見える。
友里の担当を任された為か、それとも相沢さんがいない寂しさをまぎわらせようとしているのか。どちらにしろ沈んだ樋口さんよりも何事にも一生懸命の姿の方が彼女らしい。
元気いっぱいの明るい樋口さんを見ていると、その元気を分けてもらった気分になるのだから不思議な人だ。この病棟に入院している患者達に人気あるのがなんとなく分かる気がする。これでミスを頻繁にしなければ、最高の看護士だと誰もが思うことだろう。
ところが樋口さんは周囲の目をまったく気にならないようだ。年配の男性患者相手でも友達のように接している姿を見かけた。
もちろん俺に対して遠慮なんてしない。友里を看るついでとばかりに愚痴をこぼす相手にされてしまっている。
そして今日もまた相沢さんから受け取ったファイルをベッドの端に置き、それを見ながら実践していた。まだその姿を見はじめて日が浅い所為か、どこか新鮮に感じてしまう。同時に見慣れた姿がない寂しさも感じていた。
「え~~と、ここでこうして……その後にこうやって……あっ!」
なかなか上手く出来ないらしく、ファイルのページを捲ってもう一度やり直す。
悪戦苦闘する姿はどこか頼りない。不安ばかりを感じてしまう。
「はは、あはは……そんな不安な目で見ないでください。ちゃんとやれます。ホントに大丈夫ですから」
大丈夫じゃない。心配するに決まっているぞ!
関節が硬くならないように肘や肩を動かして解すマッサージなのに、それをあり得ない方向に曲げようとしだす。あれではマッサージというよりもプロレスの関節技を掛けているみたいだ。普通なら痛みに耐えかねて悲鳴をあげ、とっくに苦情を訴えているだろう。
そもそもリハビリの先生にやってもらうことを、内容をよく読まずに自分でやろうとしたのが間違いだって気がつかないのがなんとも恐ろしい。
理学療法は間違った方法ですれば筋肉や筋を痛めてしまうことがある。ファイルにはその注意書きを添えられていたのに、樋口さんは見落としているようだ。
以前より不安が増していくように感じるのは俺の気の所為か。相沢さんがよく樋口さんを怒鳴っていた気持ちが今ならよく分かる。何やってんだとつい文句の一つでも口走ってしまいそうだ。
とはいえ、樋口さんをまったく信用していないわけではないのだが――。
「あはっ、ねぇねぇ見てくださいよ。ほら、ちゃんと上手くできたでしょう」
ようやく要領を掴んだのか、友里の腕を上げて曲げ伸ばす樋口さんが得意げに見せつけてくる。まるで小さな子供が親に自慢するかのように無邪気な笑顔をされては、こちらの言いたいことも言えない。
だが一つだけ伝えなければならないことがある。樋口さんはいつまもでもここにいるわけにいかないことをそろそろ告げてあげるべきだろう。
「ああ、ようやくコツを掴んだみたいだな。だけどよ、もう1時間以上こうしているんだけど。そろそろ行った方がいいと俺は思うんだが……」
「へっ!?」
「だからさ、友里にばかり構っていていいのかって」
「あ~~~~っ、いっけな~~~~い!!」
素っ頓狂な声で叫んだ樋口さんが友里の腕を放すなり「将人さん、あとお願い!」と言い残し、ドアを閉めずに慌てて出ていく。
ちょっと無責任じゃないかと思いはしたが、これは仕方がないことだ。通常業務の合間にしてくれている事なのだから俺が文句を言うのは筋違いだろう。
それよりもドアの向こうで凄い音と悲鳴がしたのが気になる。患者らしき人に謝っているみたいだけど、いったい何をやらかしたのやら。
ドアがゆっくり締まると何も聞こえなくなった。
その後どうなったのかと後で聞かない。悲鳴が聞こえたのも知らないことにする。
「ホント、何やってんだか。相沢さんがあれを見たら、きっと怒鳴り散らしてるぞ」
こんな騒がしいことがあっても、友里は相変わらず無表情で何も反応がない。天井をじっと見ているだけで、いったい何を思っているのだろう。樋口さんや他の看護士さんが来た時、俺達の話し声をどう思って聞いているのだろうか。
焦っては駄目だというのが頭で分かっていても、やはり不安に感じてしまうことがある。そんな時に樋口さんがよく励ましてくれた。口癖なのかいつも最後に「絶対に大丈夫ですから、一緒に頑張っていきましょう」と、屈託のない笑顔に何度も救われた。
俺一人なら今頃はすでに心が折れてしまい、友里は一生このままだと嘆いているかもしれない。少々頼りないところがあっても、樋口さんはちゃんと相沢さんのあとを継いでくれている。
何よりも友里の回復を心底望んでくれているのだから。
* * *
俺の生活も今まで通りだ。仕事を終えたら急いで病院へと向い、面会時間が終わるまで友里の傍にずっといる。いつか必ず自分を取り戻してくれると信じ、その日にあった出来事や二人の思い出を語り聞かせた。
バイクばかりを弄って仕事をサボる不真面目だった俺が少しでも変わったと安心させてやりたい。今思えば、友里にはいつも心配ばかりかけていた。
小言をまくしたてる彼女に反発し、よく喧嘩になったものだ。事故からまだ2年も過ぎていないのに、何気なかったあの日々が遠い昔のように感じてしまう。
「――で、最後はいつも俺が謝って終わったよな。口じゃお前に敵わないよ。それにしてもよくあんなにスラスラと文句が出てくるもんだ。呆れるより感心してしまうよ」
友里と付き合うようになって1年ぐらい経った頃からというもの、互いの主張を言い合うことがしばしばあった。住んでいるアパートの前でバイクを弄っていると必ずと言っていいほど喧嘩になる。そして最後に「私とバイク、いったいどっちが大事なのよ!」と、口癖のように問い質してきたものだ。
それまでの友里は自分の言い分を主張しない方だったのに、出会った頃と比べると随分と変わっていた。おそらく本来の自分を表現できるぐらいに気が許せるようになったのだろう。
だからとはいえ、俺の友里への気持ちが変わることはなかった。
いや、お互いに遠慮なく本音で言える間柄になったことがとても嬉しかった。
「そうだ、今日は報告することがあるんだ。所長が俺の働きを認めてくれて、来月から直接雇用してくれるんだって。正社員だぞ、正社員。給料も上がるんだ、どうだ凄ぇだろう」
実際に今までの生活は苦しかった。ずっと住んでいたアパートを引き払い、友里のマンションで生活をしてみたもの、家賃の違いに驚かされたものだ。
なるべく部屋の状態を事故前と変わらぬように維持し、自分の物をすべて処分したといっても貯金なんてそう貯まるものではない。だが地道に働いていていたからこそ給料が少しずつ上がりはじめ、正社員として雇用されると僅かでも蓄えられるようになった。
「言っておくけどバイクやめたのは生活が厳しいからじゃないからな。だからさ、なんで手放したのってあとで聞くなよ」
友里の入院費と俺自身の生活費を差し引いても、どうにかバイクの維持ぐらいはできただろう。
しかし俺には手放すしかなかった。車のヘッドライト浴びると、どうしても身体が硬直して運転どころではなくなってしまう。
ずっと気のせいだと思っていた。いや、思い込もうとしていたのかもしれない。
それに気がついたのは友里と喧嘩した際に口酸っぱく言われた「私とバイク、いったいどっちが大事なのよ!」というあの一言が、震える手でバイクのハンドルを握っていると頭ん中に浮かんだ時だ。
もしも俺が事故を起こして死んでしまえば、友里はどうなってしまうのだろう。
そう考えると怖かった。
友里が元気だった頃はずっと答えをはぐらかしていたのに、バイクを捨てようとかと思った時は何も迷うことはなかった。
俺にとって何が一番大切なのか、そんなのは言われずとも決まっている。ただ面と向かって言うのが照れくさかっただけなのだ。
それを迷うふりをして、はぐらかしていたに過ぎない。なのに友里がこんな目に合うまで自分を偽ってしまった。
ずっと傍に居るのは当たり前だと思い込んでいた俺は馬鹿だ。あの頃はどうして素直になれなかったのだろう。
もっと早くに言ってやれば友里は喜んでくれたのではないだろうか。その答えを彼女の口から直接聞きたい。
* * *
仕事が休みの日はたまに昼頃になる時もあるけど、急用でもないかぎり朝からずっと友里の傍にいる。それを苦に思ったことなんて一度もない。日課や義務とかそういったものではなく、ただ傍にいないと俺自身の気持ちが落ち着かなかった。
もしかすれば今日こそ自分を取り戻してくれるのではないかという期待半分、離れている間に彼女を失ってしまうのではないかという怖さがどうしても拭いきれない。黙ってしまえば余計にいろいろと考えてしまうからこそ、俺は友里に何かを語りかけてしまうのだろう。
特にあの夜のことを夢で見たときは気持ちが沈む。友里は必ず元気な姿に戻ると信じていても、やはり2年という月日が流れてはそう思ってしまうものだろうか。
この日の彼女は昼を過ぎても眠ったままだ。
春を迎えて差し込んでくる陽射しが暖かく、気持ちよさそうな寝顔が微笑んでいるように見えたのは目の錯覚なのだろうか。静かな寝息を立てている彼女を見つめながらそっと手を握っていると、その陽気に俺まで睡魔に誘われる。
「――少し眠っちまったか。ん!? なんだ友里、起きていたのか。退屈させちまって悪い」
友里は起きてからというもの、相変わらず無表情のまま天井だけを眺めている。
その瞳が動くこともなく、静かに一定の呼吸だけを刻む。見慣れたとはいえ、今の彼女を見るのは正直辛い。
しかし友里の前では笑顔でいると誓った。沈んだ顔を見せるわけにいかない。
「だいぶん暖かくなってきたよな。なぁ友里、今日は外に出てみないか」
友里はずっと2年近くもベッドで寝たっきりだ。
意識が戻ったとはいえ、天井だけを眺めたまま動くことも叶わなかったのだから退屈していたことだろう。なにより外の空気を吸えば、多少なり反応を見せるのではないかという期待もある。
幸いにもこの病院の中庭にはたくさんの花を咲かせた花壇があった。そこへ連れていけばきっと喜んでくれるだろう。
「待っててくれ。すぐに車椅子を借りてくるから」
返事がない事は分かっている。それを承知で友里に声をかけて病室から出ていく。
ナースステーションに寄って車椅子を借りるのに、まさか手間取るとは思わなかった。
一人で連れ出すのは危険だなんて言われることを想像すらしていなかった。
それにしても、いくらなんでも大袈裟すぎやしないだろうか。最近この病棟へ赴任してきたばかりの看護士さんが言うのはまだしも、その場に居合わせた樋口さんまで口を揃えてくる始末。
長く続いた押し問答の末、最後は1時間ほどで必ず戻ってくるという条件をのんでどうにか借りることができた。
あと、樋口さんに付き添うと言われたのを断ったのは正解だと思う。今日は午前中からずっと忙しそうにしていた。
外来の応援にいった看護士さんの分の仕事を任され、あまり顔を出せないかもしれないと言っていた。
それに主治医の先生に許可をもらいに行ってもらうのだ。なのに事後報告をさせるだけでなく、わざわざ時間を割いて付き添ってもらうのは悪い。
ただ、付き添われては聞かれたくない話をできないというのもあったが――。
「待たせて悪い。すぐに外へ出してやるからな」
病室に戻るなり、ベッドの横に車椅子を置いて掛け布団を捲る。狭いスペースで無理な姿勢のためか、友里を抱きかかえて乗せるだけなのに意外と手間が掛かってしまう。抱いたまま倒れないようにと注意を払い、慎重なまでに動くのは想像していたよりも重労働だ。
その場で回転するように向きを変えるのが思い通りにいかない。足が車椅子に当たって倒れそうになる。
「うわっ! ととっ、あぶねぇあぶねぇ」
ベッドがつっかい棒代わりに太腿の裏へ当たっていなければ、友里を抱えたまま後ろ向きに倒れていたかもしれない。
どうにかバランスを保ち、友里をそっと車椅子に座らせることができた。
「ふぅ、抱いて乗せるのって結構難しいもんだな」
今の友里は意識がないのと似たような状態。人って意識がなくなると何故か普段よりも重くなるものらしい。
なのに抱き上げた友里は思ったよりも軽かった。
見た目はそんなに痩せていなくても、やはり2年も寝たっきりでは痩せ細っていた。病衣越しに感じた彼女の身体が事故前と比べると華奢に感じたのが無性に悲しくなってしまう。
「お前、こんなに痩せて軽くなってたのかよ」
気がつけばボロボロと涙がこぼれていた。どんなに拭っても溢れ出る涙は頬を濡らし、友里の足の甲にぽつぽつと落ちていく。
「汚しちまって悪い。ちょっと待っててくれ。すぐスリッパ履かせてやるから怒るんじゃねぇぞ」
裸足のまま床につかせていたのを謝りながら新品のままだったスリッパを履かせ、そっとフットレスに乗せる。ぶらりと垂れ下がった両手を膝の上で組ませ、ようやく出発の準備ができた。
しかし俺の心はまだドアを開けるなと訴え、グリップを握ったまま前に進まそうとしない。まるで戒めるかのような呪縛を強引に振り払おうと、首をおもいっきり左右に振った。
溢れやまぬ涙で視界を邪魔されても一歩前に、そしてもう一歩前にとゆっくり押し進む。
「さぁ、行こうか」
友里にそう言ったもの、これは自分自身に言い聞かせようとしたのかもしれない。悲しい気持ちがどうしても抑えきれず、笑ってみせたつもりが自分でもどんな表情をしているのか分からなかった。
彼女を抱き上げた感触が今も心の痛みとなって手に残ったままだった。
* * *
俺と友里に新たな日課が増えた。
病院の中庭への散歩は最初の頃は週に2,3回だったが、今では毎日通い続けている。
仕事が終わって夕方になっても、雨さえ降らなければ外の空気を彼女に吸わせた。花壇に咲いている色とりどりの花を見て、友里はいったい何を思っているのだろうか。
「こうやって外の空気を吸うのはいいもんだよな。それにずっと同じ景色じゃつまんねぇだろう」
俺に少しでも花の知識があれば気の利いた話でも出来たことだろう。せめて花の名前だけでも知っていれば話題に事欠かなかったかもしれない。
「友里は花が好きだったよな。俺、花のことはよく分かんねぇけど、これ見てみろよ。すげぇ綺麗だろう。お前の好きな花、あれなんだっけ?」
前に身を乗り出して車椅子に座る友里の横顔をのぞき見る。
しかしその瞳は輝きを失ったまま前だけを見据えて動くことはない。膝の上で組んだ手が花へさし向けられることもなかった。
せめて何かを感じてくれたらと思ったが、それをすぐに求めるのは酷なのかもしれない。
――そうだ、焦っちゃいけない。相沢さんにも言われたじゃないか。
不意に一人の看護士の言葉を思い出す。辛いことはたくさんあるから覚悟するようにと言われた。
実際に現実に慣れるほど辛くなってくる。今もこうして散歩をしているのも何か反応を見せてくれるだろうと思ってのことだが、その期待が外れるとやはり心が苦しい。
友里を抱き上げた時だってそうだ。事故前とさほど変わっていないように見えても違っていた。
多少頬が痩せただけだと思っていた彼女の身体は痩せ細り、少しでも力を込めてしまうと折れてしまいそうだった。
――相沢さんはそれをもっと前から知っていたんだ。そりゃ身体を拭いたりとかしていたんだから当然だよな。
ただ傍で付き添っていた俺とは違い、相沢さん達は毎日交代で休むことなく看護してきた。ちょっとした身体の変調とかもすべて把握していたのだろう。
車椅子を初めて借りようとした時もそうだ。樋口さんは今の友里の状態をよく分かっていたからこそ渋り、すぐに貸してくれなかったのかもしれない。
「そりゃ駄目だの一点張りになるわけか」
少し前のことを考えているうちに陽が沈み、茜色だった空がいつしか暗く星の輝くだけを映しだしていた。
ひんやりとした強い風が急に吹き、友里の長い黒髪をなびかせる。
「だいぶん冷えてきたな。暗くなってきたし、そろそろ戻ろうか」
車椅子の向きを変えて中庭を後にする。
病院の窓の所々から照明の明かりがもれているのが見え、屋内に入ると喧騒としていた人の姿もなく、エレベータに向かう通路は夜間の照明になって薄暗い。エレベータの到着を待っていると、あまりにも静かすぎて寂しさを感じてしまう。
しばらくしてドアが開き、車椅子を押して乗り込もうとした時だ。中から血相を変えて飛び出してきた樋口さんとぶつかりそうになる。
「おいおい、なに慌てているんだよ。ぶつかったら危ないだろ!」
「なに慌てているんだよじゃありません! ぜんぜん戻ってこないんだからすっごく心配したんですからね!」
「少しぐらい遅くなってもいいじゃないか」
「これのどこが少しなんです!」
そう言ってエレベータの上にある時計を樋口さんが指で示す。
見上げてみれば時計の針は8時を過ぎようとしていた。
「2時間もいったい何処へ行ってたんですか。友里さんが風邪をひいたりしたらどうするんです!」
「いや、それはちょっと考え事してたもんだからつい」
「ついじゃありません。もう明日からあたしも一緒にいきます」
「なんでそうなる」
「心配だからです!」
最近の樋口さん、怒ると凄みが出てきたような気がする。目の吊り上げ様からして、まるで相沢さんが怒ったときみたいな迫力だ。似たような雰囲気をたまに感じることがあるからそう思えてしまうのだろうか。
「わ、わかった。謝るからもう勘弁してくれ。明日から遅くならないようにするから、ついてこなくていいから」
「駄目です! 車椅子での散歩を認めてしまったあたしの責任もありますから」
こうキッパリと突っぱねられは太刀打ちができない。車椅子での散歩は確かに俺が無理に頼み込んだからこそ認めてもらえるようになった。
友里に何かあったらと危惧する樋口さんの気持ちは分かる。しかし彼女に甘えてばかりいられない。何よりもこの二人だけの時間を失いたくないという思いもあった。
「分かりましたか。この事が先生に知られでもすれば病室から出られなくなる……かもしれないんで……で、ですから……」
強い口調で捲し立てる樋口さんが急に歯切れが悪くなった。顔色がみるみると青白くなり視線を泳がせてどこかおかしい。
まさかと思うが主治医の先生に許可を貰うのを忘れているのでないだろうか。それはないだろうと思いたいが、そわそわと落ち着きがない様子を見ているとつい疑ってしまう。それを確認するべく「おい、まさか先生にまだ知らせてないってことはないよな?」と訊ねてみた。
「それが、実は……ちょっとまだ言ってなかったりして……あは、あははっ!」
おい、いくらなんでもそれは不味いのではないだろうか。笑って誤魔化せることじゃない。
俺は先生がとっくに知っているからこそ今まで認められていたと思っていたのに、このドジっ子ナースは大事なこと忘れていたようだ。
前言撤回!
相沢さんとはどこも似ているところはないときっぱり言い切れる。彼女ならこんなミスはなかった筈だ。
「どうするんだよ」
「さぁ、どうしましょう」
顔を引き攣らせて苦笑する樋口さんにとどめを刺すべく、エレベーターのドアが動き出して左右から彼女を挟み込む。低い呻き声を発してへたり込んだドジな看護士さんと目が合うなり、急に可笑しくなって笑いを堪えようにも噴出してしまう。
この人が担当では俺の方が心配事は絶えないかもしれないが、気持ちが沈んだときでも何故か元気にさせてくれる。相沢さんが樋口さんに自分の後を任せたのは、もしかすれば俺の気持ちが沈みこまないようにする為なのかもしれない。
なぜかそんな気がした。
* * *
じめじめとした梅雨の時期になると、友里を連れ出して中庭へ散歩に行くことがめっきり減った。以前と同じ刻の流れに戻っただけなのに、降りしきる雨と一緒で気分が晴れない。窓を激しく叩く雨音がとても憂鬱にさせる。
たった1時間程度の短い散歩は、たとえ一方通行の会話でも気持ちを和ませてくれた。友里のためにと始めたことなのに、いつしか俺自身のためになっていたようだ。
「今週は雨ばかりでつまらないよな。でも明日は晴れるみたいだ。だからさ、樋口さんにいつもより少し長めに出てもいいか聞いてみるよ。そしたら近くの公園にまで行こう」
病室に戻るのが遅くなったあの日、樋口さんは主治医の先生のところへすぐ報告に駆け込んだらしい。正直その時はもう散歩に出られないかもしれないと覚悟した。
ところがその日まで外出していたことについて特に何も咎められることなく、しかも看護士の同伴もなくて構わずに今後も外出することすら許されたのには正直驚いた。
ただ報告を忘れていた件で樋口さんは大目玉を喰らったらしい。先生に怒られただけでなく、婦長さんにもこってりとしぼられたそうだ。
自業自得だとはいえ、貧乏くじを引いた彼女にはちょっと悪いことをしたと思うからこそ、外出時は真っ先に伝えることにしている。
そして次の日、天気予報の通りに空は雲ひとつなく晴れ渡っていた。
しかしその翌日からはまた雨の日が続くと気持ちが沈んでくる。小さなテーブルにある花瓶の花が枯れはじめて俯いているのは、まるで俺の心情を代弁しているかのようだ。
「そうだ、友里の好きな花って百合の花だったよな。自分の名前と同じだからって。悪い、すっかり忘れてたよ。お詫びに明日必ず買ってくるからそれで勘弁してくれ」
ろくに話をしないまま、気がつけば面会時間の終了を迎えていた。
花に興味がない俺がまさかこんな事を言うとは思わなかった。もしも友里がずっと元気だったら、花屋とは一生縁がなかったかもしれないのにと思いつつもう一度花瓶に見入る。
相沢さんが転属で去った以降、花瓶に活ける花は特に決まっていない。その日の気分次第で買ってきた花を活けている。
それが不評だったのか、プリザーブドフラワーという長持ちする花を勧められたこともあった。
しかし飾るケースみたいな籠とセットになって花瓶が不要になってしまう。俺には相沢さんが残してくれた花瓶を捨てることができなかった。
それに水が不要な花というのがどうもしっくりとこない。だから今は季節にあうという樋口さんの勧めで紫陽花を活けている。
これは後で聞いた話だけど、相沢さんも最初は買ってきたらしい。その後ガーデニングの趣味もあってガーベラの花を育てはじめるようになったらしく、丁度いいぐらに咲いてから持ってきてくれていそうだ。
よくよく考えてみれば、こういった面でも相沢さんには世話になりっぱなしだったと思う。
花を飾るなんて発想が俺にはなかった。髪や爪の手入れにしてもまったく気がつかなかったぐらいだ。
男はそういう面では鈍感だと一蹴されたが果たしてそうか。いくら自分が担当している患者だからとはいえ、普通に考えれば看護士がそこまで面倒をみてくれるとは思えない。
樋口さんもそれを見習って続けてくれているが、このまま厚意に甘えっぱなしになっていいものだろうか。今更になってそんな疑問が湧いてきた。
以前なら友里のことしか考えもしなかったのにおかしなものだ。いや、ただそんな余裕がなかっただけなのかもしれない。
翌日、病院に向かう道中で百合の花を買ってきた。大輪の白い花を誇らしげに咲かせているのがとても綺麗だ。これならきっと友里も喜んでくれるだろう。
早速、花瓶の水を入れ替えて活けてみた。
困った――思ったよりも大きく、花瓶が傾きそうになる。
匂いが少々強いように感じるが、鼻腔を刺激するには丁度いいだろう。不快に感じる程ではないし、何よりも友里が好きな花なのだ。
そう納得したところに樋口さんがその匂いで顔を顰める。
「あのぉ、お花の匂いがちょっときつ過ぎやしませんか」
「そうかなぁ。でも個室だからいいじゃないか」
「まぁ、確かにお花の香りは嗅覚を刺激するってことは分かるんですが」
「そう固いこと言うなよ。これは友里が好きな花なんだ。自分と同じ名前だって。だからいいだろう」
「はぁぁ。これ、カサブランカなんですけど」
「違うのか!?」
俺は店の人に百合の花が欲しいと言った筈だ。それで勧められてこの花を選んだのに、いったい何処で間違ったのだろう。
今さら交換なんて出来ないし、そもそもきちんと確認しなかった俺のミスだ。
友里には今日だけ我慢して貰うしかないと思ったのだが――。
「いえ、確かにこのカサブランカは百合の仲間ですけど、まぁいいですけどね。仕様がないか」
間違っていなければ構わないではないかと思いつつも、樋口さんが何を言いたいのか妙に気になる。
もしかして場違いな花を持ってきてしまったのだろうか。目の前で腰に手を添えながら落胆の溜め息を吐かれては不安になってくる。
「匂いは気になりますけど今回は大目にみます。ですが次からはもう少し考えて下さいね」
注意を促す樋口さんは怒っているのか、それとも笑っているのかなんとも区別ができない。
渋々ながらも分かったと返事をした途端に「よろしい!」と言って明るくなるのだからよく分からない人だ。よくもこんなにころころと表情を変えられるものだとつい感心してしまう。
――友里もこんな風だったよな。
雰囲気はまったく違うけど、友里もよく怒ったり笑ったりしていた。
貯金がほとんどなく、収入が不安定だった俺の将来を心配して不安そうにしていることも度々あった。
しかし辛くて悲しんだ顔は見ていなかったと思う。
泣き顔を見たのも一度だけ。そう、浜辺で夕日を背にプロポーズをした時に泣いて喜んでくれたあの時だけだ。
嵌めた指輪を大事そうに右手を重ねる友里はこんな俺を受け入れてくれた。
なのに俺は守ってやれなかった。
「将人さんどうしたんですか。急にそんな暗い顔して」
「いや、なんでもないよ」
「だったらいいんですけどね。ですけど友里さんの前でそんな顔しちゃ駄目でよ」
樋口さんは俺がまた不安に押し潰されそうになったと思ったのだろうか。友里をちらりと見たあとに微笑みかけてくる。
この微笑に、いったい何度助けられたことだろうか。
「そうだな。俺が不安そうな顔をしたら友里が心配しちまうもんな」
自分では精一杯の笑顔を作ってみせたつもりだけど、実際はどうだろう。どこか無理があるのか、何やら頬が引き攣るような違和感を感じたその時――布が微かに擦れた音が聞こえた。
座っている椅子の前、そう友里が寝ているベットの辺りから確かに聞こえたのだ。
もしかしてと期待させる予感めいたものを感じで即座に目を移す。
だが、見慣れた彼女の姿に変わりない。無表情のまま天井だけを見つめ、呼吸で胸元辺りがゆっくりと小さく起伏しているだけだ。
しばらく友里の顔をじっと見ていると、ベッドを挟んで樋口さんが同じように身を乗り出して覗き見る。
そこでふと視線が合った。
「どうかしましたか?」
「ああ、ちょっと考え事して……俺、また暗い顔でもしてたか?」
「いえ、そんなことありません。ただ驚いていたみたいなので、もしかしたらって思ったんです」
「そっか、どうやら俺の気の所為みたいだ。焦ったら駄目だったんだよな」
無言で頷く樋口さんが「それじゃまた後で様子を見にきますね」と告げて出ていく。
ドアの外側でお辞儀する姿を見送ると、もう一度友里の顔を見ながら頭をそっと撫でる。
この時、彼女の口角が緩んで微笑んでいるように見えたのは目の錯覚だったのだろうか。目を凝らしてもう一度見てみると、友里は目蓋を閉じて穏やかな寝息をたてていた。
* * *
そして季節は初夏を向かえ、窓の外からは眩しいばかりの陽射しが照らし続けいた。空調が効いている病院内だとはいえ、窓のブラインドを閉じても多少の暑さを感じてしまう。
さすがに胸元まで布団を被っているとこの暑さが堪えるようだ。友里の額に薄っすらと汗が滲んでいる。
日中の間だけ腰の辺りにまで掛け布団をさげ、病衣は胸元を少しだけ肌蹴させているのは熱中症にかからない為の処置だ。空調による空気の乾燥と友里自身に水分補給ができないのだからなるべく涼しい格好にしてやらなければならない。
これを樋口さんや他の看護士さん達が毎日やってくれている。ただ俺が一度だけこれをやろうとしたら樋口さんが「スケベ、変態っ!」と怒って不機嫌な顔をしだした。
その意味がどうしても分からない。彼氏が彼女の事を思っての行動なのに、どうしてそんな風に言われなければならないのだろう。長い付き合いなのに、この人の考えていることが本当に分からない。
いや、今はそんな事なんてどうでもよかった。
正社員に昇格して収入が上がったのはいいもの、毎日定時で帰るわけにいかなくなるかもしれない。今まで事情を汲んでくれていた所長から、来週以降は一人だけ特別待遇をするわけにいかないと告げられたことを考えなければならなかった。
しかも休日の出勤もしなければならなくなる。自分の立場が変わったから仕方がないことは分かっていても、友里と毎日会えなくなるのは不安で寂しい。
残業や休日出勤をすれば収入が増えて生活や友里の入院費の面で楽になるのは理解している。しかし俺には割り切って受け入れることができない。
答えが出ないまま時間だけが虚しく過ぎ、気がつけば時計はまもなく12時を示そうとしている。
そこへドアを開く音が聞こえた。
「失礼します」
ぺこりとお辞儀をして入ってきた看護士さんは片手に点滴の容器を抱えていた。
今年入ってきた新人さんらしい初々しさを醸し出し、空いているもう一方の手でドアを締めると「今から点滴をしますね」と一言添えてベッドに近づいてくる。
樋口さんは出勤していた筈なのに、休日以外で他の看護士さんが代わりに来ることは今までほとんどなかった。
もしも自分が忙しいのなら先に一声かけている筈。まして今日は慌しい素振りすらもなかったのが気になる。相沢さんの時のように彼女も突然いなくなるのではと不安を感じてしまう。
「あれ、樋口さんは?」
「先ほど先生に呼ばれていましたので私が代わりに」
「また何かやらかしたのか。あっ、もしかして昨日のこと?」
はきはきとした受け答えに安堵した途端、真っ先に浮かんだのは樋口さんが先生に怒られている姿。
それに思い当たる節がある。
昨日本人から直接聞いた愚痴話によれば、昼食を残した患者を叱ったそうだ。そこでひと悶着があったらしい。
食べ残した理由が嫌いなものだったらしく、それを聞いた樋口さんは無理矢理食べさせたという。
さすがにそれは不味いだろうと咎めたもの、樋口さん曰く「口移しで食べさせてくれるならなんて言うもんですから、お箸で摘んだトマトを口の中へおもいっきり捻じ込んでやったんですよ」とのことだ。あと以前にお尻を触られた仕返しも含んであったらしい。
これはいくらなんでもやり過ぎだ。平然と得意げに言い放つ樋口さんの姿に唖然として何も言えなかったのを思い出してしまう。
「いえ、違いますよ。先輩は患者さんの今後の対応について打ち合わせがあるとかで呼び出されたみたいですから」
「そっか、ならいいんだ」
部屋の隅に置いてあった点滴台をベッドの横に引き寄せ、そこに点滴の容器をかける看護士さんは手馴れている。俺の質問に答える間も手が止まることなく準備を済ましていた。
とにかく心配は杞憂に終わってなによりだ。昨日のことで怒られた様子もないので安心していると、看護士さんが苦笑まじりですまなさそうに見つめてくる。
「すみません、先輩のことで余計な心配をさせたみたいで」
「いや、謝るようなことじゃないよ」
謝罪されるとむしろ申し訳なく思ってしまう。普段はあまり顔を合わすことのない看護士さんに言われると尚更だ。
それにまじまじと見られてこちらの様子を窺われると妙に気恥ずかしく感じてしまい、思わずそっぽを向いてしまった。
ちらりと横目で見ると、看護士さんは「では、失礼しますね」と友里に告げてアルコール消毒液を染み込ませた綿で腕を消毒し、ゴムチューブで二の腕辺りを縛るとすぐに針を刺す。
樋口さんみたいに手間取る様子がまるでない。紙テープで針を固定したら即座にゴムチューブを外し、溶液の落ちる調整も速やかに終わらせていた。
「へぇ、上手いもんだ」
感心してしまうあまりに、思わずそう感想をもらしてしまう。今年入ったばかりの新人さんとは思えぬ手際の良さはまるで長年努めてきたベテランみたいだ。
「そうでしょうか」
「うん、樋口さんはいつも血管が浮いてこないって喚いてるから」
「ま、まぁ……これは得手不得手の問題なので」
「いや、そういうレベルじゃないと思うんだけど」
「そ、そんなことは! ですから先輩は一生懸命に」
謙遜する新人看護士さんが言葉を濁すのも無理もない。彼女なりに樋口さんを庇おうとしているのだろう。
さすがに先輩が下手だと言えず、急に落ち着きを失いはじめて慌てふためく。その反応が面白く、ついからかってしまいたくもなる。これはありがたいことに、いい気分転換になりそうだ。
「一生懸命でも下手は下手だろう。それにそそっかしいし、昨日だって」
「あゎゎ、わ、私、他の患者さん待たせていますので……」
俺から視線を外すと目をきょろきょろと忙しなく動かし、ゴムチューブを握り締めたまま「お、終わりましたらコールしてください。し、失礼します」と言い残して去っていく。入れ違いに入ってきた樋口さんは不思議そうに逃げ去った後輩に目をやり、俺を見るなり「どうしたんですか?」と尋ねてくる。
「何でも次の患者さんの所へ急がなきゃならないみたいだったらしいから慌てたんじゃないか」
いくらなんでも本人に本当の理由を言うわけにいかない。
ここは彼女の名誉のためにも話題を変えてあげるべきだろう。
「それよりも先生に呼ばれたんだろう。何か打ち合わせがあるとかで」
「ええ、それで将人さんにも来てもらいたいんです」
「俺に!? もしかして友里のことか」
「はい、今後のことでお話をしたいことがあるそうなんです。それで将人さんがここにいるって言ったら先生がすぐに連れてきて欲しいって」
事故当初はまだしも、主治医の先生とは最近あまり顔を合わすことがない。友里を看ることですら週一回に行われる回診の時にだけだ。
それも同行する樋口さんに友里の様子に変化がないか訊ねる程度でろくな診察もしていないらしい。なのに、今さらいったい何を話すというのだろう。
今以上の回復が見込めないという先生が俺に用があるとはとても思えない。もしも効果的な治療方法が見つかったというなら話は別だが、果たして期待していいものだろうか。僅かでも希望があるのなら縋りたいと思う気持ちが不安を押し退けてどうしても逸る。
「それって何かいい治療方法でも見つかったんだろう。そうなんだよな」
「大事なお話なのであたしの口からは何とも言えません。今は一緒に来てもらうとしか。ですからとにかく一緒に来てください。お願いします」
理由を教えてくれないのが気になるけど、樋口さんの神妙な面持ちや口ぶりからして教えてくれそうにない。
だったら後で聞くのも同じことだ。ここは素直についていくしかない。
それにしてもここで言えない理由とは、いったい何だろう。何か嫌な予感がしてならない。
「分かった。友里、ちょっと行ってくるからまた後でな」
友里に一声掛けて病室を出ると樋口さんに案内されるままついていく。そしてナースステーションを過ぎ去って通路を曲がったすぐにある一室に案内された。
病室とは違うそこは面談室。友里の容態が安定して集中治療室からこの病棟に移された時に一度だけ入ったことがある。その時のことを思い返すとここに入るのは気が進まない。友里をこんな目に合わせたヤツの弁護士が屁理屈ばかり並べてきたのを思い出す。
病室にまで押しかけてきたのを追い返して以降、あれから来ていない。まさか今頃になって押しかけて来たのではと思うと怒りが込み上げてくる。しかし有無を言わさず中に案内されてしまい、心の準備を整えるゆとりすらも与えられなかった。
また嫌な顔を見なければならないのかと思ったが、あの弁護士の姿はなかった。主治医の先生だけが椅子に座り、俺を見るなり向き合って椅子に座るように促された。
面と向き合ってすぐに前置きなしに話を進められる。事故からもうすぐ2年を向かえ、ここまでの治療と経緯について淡々と語る口調に感情というものが感じられない。
そこに口を挟む隙がなかった。どうやら俺に話の主導権を渡したくないらしい。
「――と言うわけですから良好に向かうことはないと判断させていただきました。つきましては当院としてもベッドの空きをお待ちになられている患者様のことを考えると、回復の見込みがない患者様をこれ以上入院していただくわけにいかないのです」
カルテと一緒に数枚の書面を見せられる。
要は治らない患者をいつまでも入院させられないと言いたかっただけなのだ。
回りくどい言い方をしたのも、俺を納得させる為なのだろう。それが腹立たしく感じてならない。
「――ですのでご理解して頂けましたか」
気がつけば声は聞こえていても何を言っていたのか分からない。同意を求めたような口ぶりからして見当はつく。
つまり友里をここから追い出したい理屈を並べていただけなのだ。長々と説明していたのは反論をさせない為に違いない。
その証拠に先生の隣に座っていた樋口さんがすまなさそうに目を逸らす。彼女が自分の口から教えられないといったのもこれで納得がいく。
「つまり出ていけということか」
「いえ、そうではなく、今の容態に適した施設に転院を勧めているのです。治療の見込みがないからと、何も患者様を追い出すような真似などいたしません。それに転院先は私共の関連施設ですので、どのような状態の患者様でも万全の体制で受け入れられるようになっています。ですのでそういった面でもご安心いただけるのではないかと」
どう言い繕うが言っていることに変わりない。俺にはただ不愉快な発言としか受け取れなかった。
ましてここから遠い施設では、今までみたいに友里の傍にいてやることができなくなる。ただでさえこれから会う機会が減るというのに、先生の言い分はまるで友里から引き離されるように感じてならない。だから頷くことはできず、返事をしないまま席を立って病室に戻った。
「悪いけど、しばらく友里と二人っきりにさせてくれないか」
俺の気持ちを察してくれたのか、心配してついてきてくれた樋口さんが何も言わず出ていく。
ベッドの横にある椅子に座ってみたもの、頭の中が真っ白になって何も考えることができない。
いったいどのくらい時間が経ったのだろう。
ブラインドの隙間から漏れていた陽射しもなく、室内がひんやりとしてきた。
「そうだ、今日はまだ散歩に行ってなかったよな。ごめん、すぐ準備するから」
立ち上がろうとすると身体に気だるさを感じる。
頭の回転も上手く働かない。疲れていないのにどうしてだろう。
ベッドの反対側に折り畳んだ車椅子を拡げて友里を抱え上げようとした時、前につんのめってしまった。
友里の身体がベッドの上で小さく弾む。怪我はないかと咄嗟に彼女を見ると、本人は何事もなかったように目を開いたままだ。痛みや驚きといった感情が一切感じられない。
「大丈夫か、怪我はないか!」
咄嗟に叫んでいた。
手足をベッドの柵にぶつけてないかと狼狽えたもの、どこも打撲した痕がないのを確かめて安堵する。
だが安心したのもつかの間、やはりこんな友里を見ているのが辛くてならない。彼女の前では笑顔でいるようにと思っても、やるせなさが込み上げてくる。
「驚かせて悪い。ちょっと気が抜けていた。ごめん、次からは気をつけるよ」
今度は倒れないように踏ん張って抱え、あとはいつもと同じ要領で腰をねじり、車椅子の位置を確認しながら身体を慎重に反転させる。背中にまわした手を上げ、両膝を抱える手を下げて椅子の角度に合わせるのも慣れてきた。
あとはフットレスに足を乗せてやり、膝の上で手を組ませるだけ。右手から順に左手を重ねようとした時、薬指から傷だらけの指輪がするりと抜け落ちていくのが目に入る。
拾おうにも何故か身体が動かず、声すらも出ない。
まるで金縛りにあったみたいだ。床に金属音を響かせて転がっていく指輪の残像を目で追いかけることしかできなかった。
* * *
家に戻ってからというものベッドを背もたれ代わりにして座り込んだまま刻だけが過ぎていく。小さなガラスのテーブルにコンビニで買ったビールとカップ麺がレジ袋に入ったままになり、手を伸ばそうという気分になれない。
傷だらけの指輪を握り締め、ふと部屋の中を見渡す。
ここだけは事故前と然程変わらない。小奇麗に整頓された部屋はどこか殺風景に感じられる。隅に半透明の衣装ケースを二段に重ね、三段ボックスを横に寝かした上には閉じたままのノートパソコンと小型のテレビが置いてあるだけだ。
そして中には化粧品や女性誌などが整理され、友里がずっと質素な生活をしていたのを物語っていた。
俺の荷物は自分の服と日用品だけ。ベッド側にある木棚の引き出しに服をしまい、あとは台所や洗面所と用途に見合った場所に置いた以外はすべて処分した。
友里がここへ戻ってきた時のためにと思ってのことだ。少しでも元通りの日常を取り戻してくれたらと思い、彼女への償いという意味も込めている。
今さらながらバイクに夢中になっていた自分自身が情けない。友里は将来の事を考えて自分が欲しいものをずっと我慢していた。
余分な物は何一つない。
彼女の年頃ならブランド物のバッグの一つぐらいあってもいい筈なのに、高価な物は一切なかった。本当ならもっと自分を着飾ってみたかった事だろう。
なのに出費を必要最低限に抑え、残ったお金はすべて貯金していたようだ。唯一拘っていたのは三段ボックスの中にあるアルバムぐらいだろうか。
少女じみた装飾を色鮮やかに施したのが数冊ある。ガキっぽいと冗談で難癖つければ「そんなことない。将人が分かってないだけなんだから!」と、よく口を尖らせて拗ねたものだ。
友里には写真の趣味はなかった。
彼女にとってこのアルバムは、幼い頃からの思い出がいっぱい詰まった一番大切な宝物。小さい頃に両親を亡くしたからこそ、幸せな思い出だけは失いたくないと思っていたのかもしれない。
思い出のアルバムは友里の成長と共に増えている。
その中で一番新しい一冊を手にとって開いてみた。最初のページを開くと、付き合ってまだ間もない頃の俺達が未来を信じて疑わない姿がそこにある。
「あ、これ友里を初めてバイクに乗せた時だ。ツーリングだと言ったのにスカート履いてきやがって。見える見えるってうるさかったよな」
この頃からデートはもっぱらツーリングで何処かに出かけるようになっていた。
山や海、いろんな場所に二人で行った。
これを友里はとても大切にしてくれている。俺達だけの思い出だけは他の写真と区別して、どの写真も彼女の想いが一言ずつ添えられている。
そして写真は花火大会の夜に撮った写真で終わっていた。ページを捲っても、その先には一枚もない。
最後に撮ったのは友里が事故に合う10日ほど前。
まさかこんな事になるなんて思いもしなかった。着物姿で笑っている友里を見ていると、左手に握ったままの指輪の冷たい感触もあって悲しくなる。
なのに不思議と涙が出てこない。もう枯れ果ててしまったのだろうか。
病院からの帰り際に樋口さんから渡された大きめの封筒を何気なしに手に取り、書面を出してガラスのテーブルに置いた。
そこには転院について事細かく記載され、あとは署名と捺印するだけ。
一方的に勧められたのが納得いかなかった。かと言って自分の会社での立場を考えれば、この状況で友里を連れて帰ることはできない。
俺がいない間、いったい誰が彼女の面倒をみるというのか。
なら、答えはすでに出ている。あとは決断するだけなのに、離れたらもう二度と会えなくなってしまうのではないかという不安を拭い去ることができない。
一睡もできないまま朝を向かえても、気持ちの整理がつかなかった。
「もう7時か。そろそろ会社に行かなきゃ」
立ち上がった拍子にテーブルからはみ出ていた封筒が落ちる。
それをおぼつかない手で拾おうとした時に折り目がついた1枚の便箋が入っていたのに気がつく。
「なんだ、この封筒?」
おそらく中の書類を取り出そうとした際、封に引っかかって出てこなかったのだろう。
広げて内容を確かめると樋口さん宛ての手紙だった。何かの手違いでこの中に入ってしまったらしい。
「樋口さん相変わらずそそっかしいな」
この封筒を渡してきたのは樋口さんだった。
如何にも彼女らしいと思いつつも、手紙に友里や俺のことを書いている内容にどうしても目が離せなくなる。
読み進めていると差出人が誰なのか判った。
そして手紙の後半が俺宛に書き綴られたものだった。
会社に休むと連絡した後に病院へと向かった。
結論は既に出ているもの、まだ決心がついていない。簡単に割り切って考えられたらどんなに楽なことだろう。
――今さら何を躊躇う。決めたから来たんだろ!
心に鞭を打って院内に入る。
リュックサックに入れた封筒を捨てたい気持ちを堪えて病室がある6階を目指す。エレベーターを降り、ナースステーションを素通りして病室へ真っ先に向かった。
転院の書類を出す前に、どうしても友里と最初に会っておきたかった。なのにベッドの横にある椅子に座って彼女を見ても、伝えるべきことが声に出ない。
伝えなければ踏ん切りがつかないというのに、この期に及んでまだ決めかねぬ自分はなんて女々しいのだろう。結局のところ、俺は自分の事しか考えていないだけなのだ。ただ遠くに離れることが嫌なだけだった。
毎日欠かさずに病院へ来ていたのも、一人でいるのが寂しいだけだったというのが今になって分かった。そして今まで傍にいてくれるのを当然のことのように思い込み、友里がこんな目に合ってようやく彼女が如何に大切な女性であったのかと。
だったら友里のことを一番に考えれば自分のするべきことは決まっている。その為に会社を休んでまで朝からここへ来たのだ。
「これからあまり会えなくなる。だってさ、今のままの方がお前に余計な心配をかけるだろう。勝手に決めちまったのは悪いと思ってる。でも、この方が友里は安心できるだろう。それに向こうは景色が綺麗で空気が美味いんだってさ。だから俺のことで何も心配するんじゃねぇぞ」
友里に伝えたのは寂しい気持ちを誤魔化したにすぎない。これで本当に友里が安心できるのならと俺自身を納得させる理由がほしかった。
無意識のうちにポケットの中の指輪を握り締めていた。
もう一方の手で友里の手の甲から軽く握る。すると指先が僅かに動いたような気がした。
いや、間違いない。
ほんの一瞬だけ確かに動いたのだ。友里は今も懸命に自分を取り戻そうとしている。だから動かない手を必死に動かし、自分の思いを精一杯伝えようとしたのではないだろうか。
「そっか、これで良かったんだよな」
俺の声は届いていた。
反応できなくても聞こえていた。
その気持ちを受け止めるべく、手をぎゅっと握ると友里の指先がまた僅かに動く。まるで自分は大丈夫だから安心して欲しいと訴えかけられているみたいだ。
「お前を安心させるつもりだったのに、俺が安心させられちゃ世話がねぇよな。ああ、もう心配かけるようなことは絶対にしない。友里を迎えにいくまで、精一杯がんばるよ。それにもう一度友里に伝えたいことがあるんだ。それはまた今度な」
* * *
数日後、友里が転院する日が訪れた。
仕事を午前中で切り上げさせてもらい、そのまま病院に来ていた。
大した荷物もなく、準備は午前中に樋口さんがしてくれたおかげで転院の手続きも滞りなく済み、後は迎えが来るのを待つだけだ。なのに樋口さんだけはどこか落ち着かない様子で忙しない。
友里を車椅子に乗せて正面玄関に着いてからというもの、正門あたりを気にしている。
「さっきからずっとそわそわしてどうしたんだよ」
「いえ、お迎えの車がまだかなって」
「なんだよ、それってさっさと出ていけってことかよ」
「ち、違います! あたしはただ……」
もうこういったやり取りはおそらく今日で最後になるだろう。
せめて暗い別れにだけはしたくないと冗談で言ったつもりなのに、樋口さんは真に受けて激しく否定する。
「わかってる、わかってるって。そうムキになるなよ。でないといつまで経ってもみんなにからかわれてばかりだぞ。ホント進歩ねぇや。な、カナちゃん」
「あ~~~~っ、もう! 将人さんだけは樋口さんって呼んでくれてみんなと違うと思ってたのにぃぃっ!」
膨れっ面で恨めしそうに睨む樋口さんは誰からも好かれる性格もあり、ここで入院している人達からの受けがいい。それで入院患者達には“カナちゃん”というあだ名で親しまれている。
ちなみにそのあだ名の由来は“樋口香苗”という彼女の名前から名づけられたらしい。ただその親しみやすい性格が災いして普段のドジっ子ぶりからよくからかわれてしまい、患者達からは鬱屈した入院生活の捌け口としてある意味で玩具にされてしまっているそうだ。
しかし樋口さんは同じ目線で誰とでも接するからこそ助けられた部分はあると思う。
実際に俺は助けられた。持ち前の明るさと、辛い時には同じ気持ちになって励ましてくれたからこそ絶望せずにここまでこれた。
「そう呼ばれるの嫌なのか?」
「別に嫌じゃないですけど、ただ……いいですよ、もう! ですが将人さんがウチに入院したら覚悟して下さい。点滴のとき思いっきり痛くしてあげるんですから」
「それは普段からだろう」
「なっ――!」
本当のことを言った途端、樋口さんの顔がみるみると赤く染まる。
どうやら図星をつかれて言い返せずといったところだろうか。
「ま、いいや。俺、入院する暇なんて当分ないし」
暑い陽射しから逃れようと日陰でじっとしていても、汗が吹き出て不快を感じさせる。かれこれ20分ぐらいこうしているだろうか。車椅子の友里も汗をかいていた。
樋口さんがブツブツと何か文句を言っているのを聞き流し、額から目に流れ落ちる汗をハンカチで拭っていると正門から白いワンボックスカーが入ってくる。
そしてロータリーをぐるりと半周して俺達の前に停まった。
付き添ってくれているもう一人の看護士さんが俺達に少しさがるように促してきたのでそれに従うと、樋口さんが入れ替わるように前にでる。
同時に助手席側のドアが開く。車から降りてきた見慣れないナース服姿の女性を前にして、樋口さんが肩を震わせたのは無理もない。
その人との再会を望んでいたのだから。
俺も同じようにもう一度会いたいと思っていた。ただ友里と離れなければならないこともあって複雑な気分だ。
「私、このたび芹沢友里さんの担当をさせて頂きます相沢志津子と申します。芹沢友里さんのお連れ様で宜しいでしょうか」
「はい、徳山将人です。どうか友里のこと宜しくお願いします」
仰々しく互いに名乗る。それが妙にくすぐったい気分で気恥ずかしい。
目の前の相沢さんも同じようだ。凛としていた表情が崩れてにこやかに口元が緩みだす。
「クス、相変わらず変わってないようね」
「相沢さんも変わりなく」
「でも安心した」
何か思うことがあったのだろう。
優しい微笑みを浮かべ一人納得して頷くと、俺の斜め前にいる樋口さんに向きなおる。
一方の樋口さんは今日ここへ迎えにくるのが誰かと知っていたのだろう。だから先程まで落ち着きがなかったのだ。
そしてようやく待ち望んでいた再会に、今は相沢さんの胸に飛び込んでしまいそなぐらいに感極まっている。目尻から涙が零れるのを堪えていたようだが限界に近いらしい。小さな嗚咽と共に肩が震えだす。
「主任……」
「樋口さんも久しぶりね。元気にしていた?」
「はい……」
「もう、後輩が見ている前で何泣いてんのよ」
「だって……」
我慢していたがついに感情を堪えきれなくなったのだろう。人目をはばからずに泣きじゃくる。
相沢さんに宥められる姿は少女のようであり、二人は先輩と後輩というよりも本当の姉妹のように見えた。
「いつまでも泣いているんじゃないの。さ、ちゃんと自分の仕事をしなさい」
「――はい。では、これにサインをお願いします」
俺のいる位置からは見えないが、友里の搬送に関する手続きの書面に署名を求めたらしい。その最中、樋口さんの嗚咽が今も小さく聞こえた。
書面上の手続きが終えると、相沢さんの呼びかけで車を運転していた職員らしき人が後部ドアを開く。車椅子に友里を乗せたままでも大丈夫なようにリフト付いてあり、それが降りる間に相沢さんが俺の傍に寄ってくる。
「では、芹沢友里さんを当院でお預かりします」
車椅子のグリップから手を放して下がると相沢さんが入れ替わる。
そして程なくして友里の姿が車中にあった。
今までずっと傍いた彼女が遠くに行ってしまう。本当は離れたくない。
だけどこれは友里のためにと思って決めたことだ。引き止めたい気持ちをグッと堪え、窓越しの姿を目に刻み込む。
この別れを悲しむ気持ちを察してくれたのか、相沢さんがそっと肩に触れてきた。
「将人君が来るのを友里さんと一緒に待っているからいつでもいらっしゃい」
「ああ、それまで友里のこと頼むよ」
そうだ、この人が友里の傍にいてくれるから決意した。必ず合いにいくと誓った。
二度と会えないというわけではないのだから悲しんではいけない。会いたくなればいつでも会いに行ける。
だから任せようと決めたのだ。その決意を揺るがさない為に差し出した手を、相沢さんが察して握り返してくれる。
「それじゃ待っているからね」
その一言に頷くと相沢さんも車に乗り込んだ。友里の横顔に「またな」と言う時間はあったようだ。程なくして車が動き出す。
――友里、待っていてくれ。必ず迎えに行く。だから……。
僅か数分だった。
今までずっと近くにいた友里が遠くに去っていく。
だからって何一つ不安がることはない。寂しさは残るけど、これからは友里の傍にはずっと頼れる人がいるのだから。
走り去る車を見送っていると樋口さんが肩を並べてきた。
「いっちゃいましたね」
「ああ、転院が決まってからの手続きはいろいろと面倒だったのに、最後は呆気ないものだったよな」
「そうですね」
同意する樋口さんの横顔を見ていると、一つ疑問が浮かび上がってきた。
転院に関しての書類に相沢さんさんからの手紙が入っていたのは意図的ではないのか。あの手紙を読んだからこそ友里と離れる決断ができたのだから偶然だとは思えない。
「あれ、いつものうっかりじゃないだろう」
「何がです?」
「最初に転院の話があったとき、渡してくれた封筒に相沢さんからの手紙入っていただろう。あのことだよ」
「そんなことありましたっけ?」
樋口さんは視線を合わせようとしない。つかの間の再会を惜しむかのように走り去って見えなくなった車の方を見つめたままだ。
「いや、忘れたんならいいよ」
本当はどうなのだろう。記憶にないというのは疑わしいもの、今さら追求することでもない。
過去のことより大事なのはこれからのことだ。前だけを見据えなければならない。
「ありがとな」
「へっ!?」
礼の意味が分かってないらしい樋口さん。この相変わらずな反応は如何にも彼女らしい。
とはいえ、笑ってサヨナラが言えるのならしんみりとするよりもいいだろう。
「いや、いい。そろそろ俺も帰るよ」
「そうですか、これで将人さんとも会えなくなるんですよね」
「別に一生の別れじゃねぇだろう。また何処かで会うこともあるって」
「そ、そうですよね。それに将人さんがここへ入院してくることも考えられますし」
さらりと笑顔でとんでもない事をいとも簡単に言ってのける樋口さん。まるで俺にそうなって欲しいと思っているようにも受け取れる。
身近にいた人がまた自分の傍からいなくなることに寂しく思う気持ちは分からなくないけど、この願いだけはどうか勘弁してほしい。だから「それはないよ」ときっぱり否定した。
「どうしてです。大きな怪我や病気をすることがあるかもしれないじゃないですか」
「たとえそうなってもここで入院することはないよ。樋口さんが俺の担当になるかもしれないだろう」
「将人さん、もしかしてあたしのこと嫌いだったんですか?」
樋口さんの表情がみるみると曇る。否定して欲しいと訴えかける瞳が潤みはじめ、今にも泣きだしそうだ。
それにしても、なぜ自分のことが嫌いだったと思ったのだろう。その思考経路がいまいちよく分からない。
「嫌ってなんかないよ。樋口さんって、なんか看護士さんっていうよりも一緒に看てくれる友達みたいな感じだったもんな」
「じゃあどうしてです。あたしが担当になったら何か都合が悪いことでもあるっていうんですか」
そりゃ都合が悪いに決まっている。友里の面倒を看てくれたことに感謝はしているもの、心配事も尽きなかった。
それを間近で見てきたのだから当然だ。
他にもいろんな噂を聞いている。なんでも他の病室で採血の必要がない患者から採血したり、包帯を取り替える際に強く巻きすぎてうっ血させたりとか。
点滴の液漏れなんか頻繁にやらかしたのだから丁重にお断りさせて頂く。ちなみに聞くところによると、これは針を刺したところが腫れ上がってとても痛いらしい。友里の腕の惨状を見れば当然といえば当然なのだが……。
「そりゃ樋口さんに看護されたら治るもんがかえって酷くなるかもしれないだろう。それ以外に理由なんてあるかよ」
少々大げさだったかもしれないが、言ったとこは間違ってないと思う。まして嫌っているなんて誤解をされたままにするわけにいかない。
ところがこの事実を聞くなり樋口さんが頬を膨らませてしまう。
「そんなのかなり前の話じゃないですか。言っておきますけど、もうミスなんてしてないんですからね」
背筋を伸ばし、腰に手を添えて胸を張れることではないことを恥ずかしげもなしに言ってのける姿に唖然としてしまう。その彼女のサポートとして付き添った看護士さんに目をやると、自分は知りませんとそっぽを向きだす。
さすがに後輩という立場上、下手なことは本人の前では言えないとでも思ったのだろうか。知らん振りしたまま院内に消えていく。
看護士になって一年目という新人さんにしてはなかなかのしたたかさ。いや、そんな感心をしている場合ではない。
自らの正当性を訴える樋口さんが詰め寄ってきているのだ。このままだとすぐに帰してもらえそうにない。これは正直困る。
「ほら、何も反論できないじゃないですか。あたしだって将人さんが気づいてないうちに成長していたんですからね」
その主張は樋口さんの噂をよく聞いていることからして否定したい。とはいえ、正直に言っていいものかどうかも悩みどころだ。彼女のドジっぷりは今も健在なのだ。
しかし言われっぱなしになるのはどうも癪に障る。やはりここは正直に言ってあげるべきではないだろうか。
「いや、そこまで言うなら俺も言うけど……」
いざ正直に言ってしまおうとしたけど、口にしてしまうのを躊躇ってしまう。
そんな俺に対して樋口さんは容赦ない。眉を吊り上げ、身体が密着しそうなぐらいに迫ってくる。
「なんですか? 言いたいことがあるならはっきり言って下さい」
「先週だったっけ、頭を洗ってもらった患者、首の筋を痛めたらしいんけど……」
「げっ、どうしてそのことを!」
「すれ違ったときに愚痴ってたんだ。で、どうしたんだと訊ねたら樋口さんの所為で自分が代わりに怒られたってあの子が……」
敢えて名前は出さなかったけど病院の中を指し示す。なのに樋口さんは理解していない。隠していた事実を知っていたことがかなりショックだったようだ。
恥ずかしさもあったようで顔がみるみると真っ赤に染まる。
「だから樋口さんに髪を洗ってもらった患者が首の筋を痛めてしまったことで自分が怒られたって。それにしてもあの子、急に変わったよな。つい最近まで樋口さんのこと庇ってたのに、あの調子じゃ他でも言ってるかもな」
どういった経由で知り得たのかを説明しているうちに、誰の事かと樋口さんもようやく分かったようだ。羞恥に染まったまま憤り、鼻息荒く頬を膨らます。
「三村さん、内緒にしてって言ったのに!」
いや、これを隠しているの不味いのではないだろうか。この口ぶりでは被害者に謝ったのかも怪しいところだ。
しかしこれで上手くいっているのだから呆れを通り越して感心してしまう。樋口さんらしいと言えばそうなのだが……。
この分だとドジっ子ぶりはしばらく治りそうもないだろう。でも持ち前の明るさで上手くいくのではないかとも思えてしまう。
実際、友里を見送った直後だというのに寂しさをあまり感じていない。これなら暗い足取りで家路につくことはないだろう。だから樋口さんには心から感謝したい。
「じゃあな、いろいろと世話になったよ。本当にありがとう。元気でな」
「へっ!? あ、はい。将人さんもお元気で」
いつまでも立ち止まっているわけにいかないからこそ明るく別れを告げた。
ここでの記憶は辛いことばかりだったけれど、すべてがそうではない。辛く心が折れそうになったとき、傍で温かく見守ってくれる人達がいた。
今思えば、俺は過去の思い出にしがみついて前を向こうとしていなかっただけなのだ。ただ現実に背を向けて逃げていた。
それでは駄目だというのを樋口さん、そして相沢さんに教えられたからこそ先に進もうと思えるようになった。
友里を預けたのはその為であり、彼女を想うのなら俺自身が未来を見据えなければならない。離れてしまうのは寂しいけど、一時の感情で踏み止まっていては駄目だからこそ、今日この日を迎えることにしたのだ。
でも今少しだけ思い出に浸ろう。見送ってくれる樋口さんに手を振りかえしたあとに――。
* * *
友里を相沢さんがいるサナトリウムに預けて半年――仕事が忙しくほとんど会いにいくことがなかった。
けれど理由はそれだけではない。ある目的があり、それを果たすべくひたすら走り続けた。
会いたいという気持ちを抑え、それを明日への希望に多忙な毎日を駆け抜ける。そんな俺を支えてくれたのは相沢さんが定期的に送ってくれる手紙だった。
たとえ友里の状態に変化がなくても、今はそれだけで十分だった。あと樋口さんのことや相沢さん自身のことも書かれており、何故かみんなと離れた気がしない。
「樋口さんが産婦人科へ移動だって! おい、大丈夫なのかよ。赤ちゃん落っとこしたりしねぇだろうな。ふ~~ん、で、相沢さんはなになに……」
こういった近況報告は嬉しくなる。
みんなちゃんと未来に進んでいるのだから。
そしてまた半年が経ち、友里を預けてから一年が過ぎた。
正月休みを利用して一度会いにいって以来、今日は久しぶりに会いにいく。今回からは電車やバスを乗り継いでいくのではなく、ようやく手に入れたマイカーだ。
バイクに乗りたいという気持ちはあっても買う気にはなれなかった。
未練はないと言えば嘘になるけど、それ以上にある目的を果たすためという気持ちが丸いハンドルを握らせる。
どのみち友里のもとへ行くとき以外は乗ることはないだろう。たとえバイクから車に乗り換えても、ヘッドライトの光を浴びるとこの身体はいうことをきいてくれないのだから。
「くそっ、やっぱ中古じゃこの坂はきついか。うげっ、あのバスもうあんな所まで行ってやがる。おい何やってんだ、唸ってばかりじゃなくもっと速く走れって!」
海辺の県道からの上り坂の先に友里がいるサナトリウムがある。前を走るバスと目指す場所は同じなのに、手に入れたマイカーはアクセルを踏み込んでも進んでくれない。エンジンだけがけたたましく唸り、夏の暑さもあって不快にさせる。
エアコンがほとんど効かないこのオンボロ車の中では、いくら汗を拭っても噴きだしてとまらない。ほんの数分で昇り終える小高い丘の天辺にまで辿り着くのに、まさか30分もかかるとは思わなかった。
おかげで到着した頃には全身汗まみれになっていた。
「風がないとこんなに暑いとはなぁ。もっとマシな車を買ってりゃよかった」
今更愚痴を言ったところで仕方のないことだ。友里の入院費と生活費を差し引いて貯金するのは相当苦労した。
もっと良い車を買おうとするならあと数年は掛かる。そこまで待てないからこの車を買ったのだ。たとえオンボロでも走ればいい。目的は友里に会うだけではないのだから。
しばらくして先を走っていたバスが折り返してきた。サナトリウムに到着したのはそのバスがルームミラーから見えなくなった直後ぐらいだろうか。車を無駄に広い駐車場に停めると目の前には2階建ての長細い建物があった。
友里が入院しているサナトリウムの周囲には、唯一ここで働く人達の寮が隣接されているだけで他に何もない。海を一望できる絶好の場所に建てられているのに、人里から離れた陸の孤島みたいだ。都会にある病院とは違って人の出入りがまるでない。
見舞いに訪れる人が少ないことを物語るように、広い駐車場に停めてある車もまばらだ。建物自体がまだ新しいためなのか、どこか寂しさを感じさせる。
初めてここへ訪れたとき、真っ先にそう思った。
リュックサックを片手に担ぎ、正面玄関をくぐって中に入る。階段を駆け上がって2階の通路をしばらく歩いていると小さなナースステーションがあった。
そこで自分の名前を記入し終え、脇目もふらずに友里がいる病室を目指す。
ここは末期患者を多く収容しているものあって全室個室らしい。患者の人数そのものが少なく、一人の看護士さんが多くの患者を受け持つこともないそうだ。
そういった面も考えると、友里をここに預けたのはやはり正解だったのだろう。まして入院費が安く、しかも看護してくれているのが相沢さんなのだから安心できる。
「将人君、遅い!」
ドアを開けた途端に相沢さんの第一声が飛び込んでくる。前もって来る時間を連絡していたのだが、高速道路で渋滞に巻き込まれたのと予想外のトラブルで予定していた時間を大幅に過ぎていたのだから待ちくたびれてしまったのだろう。かなり苛立っている様子だ。
昼すぎには着くと言っていながら時計を見ればもう3時半を過ぎていた。そりゃ怒るのも無理はない。
「ごめん、ちょっと渋滞があって」
「だったら連絡してくればいいでしょう。それに何よその汗まみれの格好。まるで服を着たままシャワーでも浴びてきたみたいじゃない」
来る途中に遅れると連絡しなかったことだけでなく、汗だくになった姿を見るなり冷ややかな目で非難してくる。顔をしかめ、あたかも汗臭いと言わんばかりだ。
「車のエアコンがぜんぜん効かねぇんだ。こうなるに決まってんだろ」
「呆れた。よくそんな車でここまで来たわね。ま、それはいいけど友里さんずっと車椅子に座ったまま待っていたのよ。挨拶ぐらいしたらどうなのよ」
相沢さんから視線を横にずらして少し下げると車椅子に座った友里がいる。普段は病衣姿のだが、前もって連絡したからなのか薄着の洋服姿で迎えてくれた。
正直驚いたが、彼女に変わった様子は一つもない。相変わらず無表情のまま光を失った瞳は正面だけを眺めている。俺や相沢さんに意識することがなければ、転院の際に持ってきた花瓶を気にする素振りもない。
とはいえ、服装も然ることながら化粧をした友里は事故に合う前の元気だった彼女そのもの。どう声をかけていいのか正直戸惑う。
「相沢さん、これはいったい?」
「久しぶりに将人君が来てくれたんですもの。おしゃれぐらいしなきゃ、ね」
さも当たり前のように相沢さんは言ってのけるが、まったくついていけない。俺と会うのにどうしておしゃれをする必要があるのか。ただ面食らうばかりだ。
「もう、そういうところは相変わらず鈍感ね。外に出るんでしょう。これぐらい当然よ」
「そんなもんなのか。まあいいや。ありがとう、気を遣わせて悪いな」
「いいわよ、これくらい大したことじゃないから。でもここって何もないわよ。せいぜい海を眺めることぐらいしか」
相沢さんには前もって連絡した際に外に出ることを伝えていた。
だから半年ぶりの再会を察して友里に化粧をし、服も着替えさせてくれたのではないだろうか。
こういった気配りは本当に嬉しい。
ただ以前から疑問に思うことがある。相沢さんはどうしてここまで親身になってくれるのだろうかと。
ありがたいとは思っても、看護士の職務としてこれは行き過ぎた行為だとしか思えてならない。
友里と年が近いからなのか――いや、それは違う気がする。そもそも俺は相沢さんの年齢を知らない。それに理由として説得力が無さすぎる。しかし他の理由も思い浮かばなかった。
――ま、いっか。せっかくの好意なんだから追求するのはやめておこう。
理由はどうであれ、相沢さんが友里にしてくれいてることには何ら変わらない。
ここはこの心遣いに甘えておこう。それに今から向かう所に連れて行くには丁度いい。
「それなんだけど、少し遠くまで出かけさせてくれないか」
「え、どういうこと?」
前もって出した手紙では外に出るとしか伝えていなかった。
敷地内をぶらりと散歩するだけとでも思ったであろう相沢さんが眉をひそめる。
今の友里の状態を考えれば遠出するなど想像すらしていなかった筈だ。どう思っているのか想像がつく。
だから本当は黙って連れて行くつもりだった。けれど相沢さんは見返りを求めずにここまでのことをしてくれたのだから、その気持ちを裏切るわけにいかない。
「友里を連れて行きたい場所があるんだ。どうしても今日じゃなきゃ駄目なんだ。遅くならないようにするから頼むよ」
そう、友里をある場所へ連れて行く為に車を買った。
この日を迎える為に節制して貯金し、ここへ来るのを極力我慢してきたのだ。
「理由を訊かせてくれるかしら」
担当看護士として理由を知る権利があるとでも相沢さんは言いたいのだろう。もちろんここまで話をしたからには黙って行くつもりなんてない。
だからあの日、事故にあう前に友里と海に行ったことを話した。そしてその場所はここから1時間ほど西に向かった所にあり、日付が今日と同じであることも。
「なるほどね。そういう事なら外出は今回だけ特別に認めてもいいけど、二人だけじゃ危ないわ」
「まさかついてくんのかよ」
「仕様がないでしょう。それに将人君の車では友里さんが熱中症になりかねないわ。ちゃんとした車も必要だし」
確かにそうだ。あの車の灼熱地獄は友里には厳しいだろう。それにあの坂道をまた上がるのは大変だ。
しかしバスで行くにしても、日に数本しか走っていないのだから今度は今日中に戻れないかもしれないという問題がある。いったいどうやって行けというのだろうか。
「そりゃそうだけどさ。なら、どうやって行くんだ? バスでなんか行けなし、そもそも相沢さんまだ仕事中なんだろう」
「仕事は昼までだからもう終わったわ」
「じゃあなんでその格好のままなんだよ」
「将人君がいつまで経っても来なかったからでしょう。おかげでお昼抜きよ、お昼抜き。それに今日は何も食べてないんですからね!」
「ごめん」
ずっと待たせていただけでなく、相沢さんはここから一歩も出ていないらしい。言葉の最後を強調したのは、おそらく昼食にありつけなかった恨みからであろう。
大食漢らしい相沢さんにとって、それは耐えがたきこと。これには素直に謝るしかなかった。
「じゃあ車は私のを出すってことでいいわよね。これなら文句ないでしょう」
「相沢さんの?」
空腹だけでなく仕事明けで疲れているだろうに相沢さんはごく当たり前のように言ってのける。ありがたい申し出だけど、果たしてここまで甘えていいものだろうか。
「そうよ。住んでいるのはこの裏手にある寮なんだけれど、この辺りは何もないから買い物とかするのに車がないと不便でしょう。だからここに赴任してきてすぐに買ったのよ」
「でもいいのかよ」
「ここの車を使うわけにいかないでしょう。他にないじゃない」
「そうだけどよ……」
「じゃあ決まりね。簡単に食事を済ませてさっさと着替えてくるから少し待ってて。それとそれまでに汗ぐらい拭いておきなさい。なんなら詰所の手前に浴室があるから使ってもいいわ。患者さん以外の使用は駄目なんだけど、そのままだと風邪ひくかもしれないでしょう。臭いまま車に乗られるのも嫌だし。うん、その方がいい」
至極もっともな意見だけど、言葉の最後で本音が出たような気がする。理由がどうであれ、友里を連れ出すためにはこの厚意に甘えるしかないようだ。
なんだか相沢さんのペースで事が進み、まともに反論する間すら与えられなかったのがどうも釈然としないが、この際しかたがないだろう。
結局はその好意に甘える形となり、三人で外出する破目になった。
それにしても相沢さんの雰囲気がどこか違っているように感じてしまう。以前の生真面目なまでの彼女はいったい何処へいったのやら。
食事のことはまだしも、あの病院にいた頃の相沢さんなら浴室の使用を勧めるなんてなかった筈だ。
多少の融通は利いたけど規則を破るなんて真似は絶対にしない。ここに来て、いったい何が相沢さんを変えたのだろうか。
お互いの準備が終えるまで考えてみたけど、納得がいく答えを導き出すことはできなかった。
* * *
車はサナトリウムがある丘を下り、海岸沿いの県道を西へと進む。運転を相沢さんに任せ、俺は友里に寄り添うように後部座席に座った。
この辺りは急カーブがいくつもあり、背中から肩を抱いてやらないと自分で支えられない友里は倒れてしまう。
久々に抱いた彼女の温もりは今までより温かく感じたのは気のせいなのだろうか。それともエアコンが効いた車内の冷えた空気がそう感じさせたのだろうか。
漂う香水の匂いが以前に使っていたものと違う。どうやら相沢さんは自分の香水を友里に使ったらしい。
着替えてきた相沢さんと同じ香りが漂ってくる。
これに違和感を覚えても、嫌な感じはしなかった。むしろ心地よく鼻腔を擽られ、友里を自分の方へ引き寄せてしまう。久々に抱いた彼女の身体は以前よりまた痩せたような感じがした。
「お前も行ったことがある場所だ。着いたら驚くぞ」
この先に峠から下ってきた国道と合流する。そこからしばらく走ると見覚えがある景色にたどり着く。
目的の場所はもうすぐだ。そこに近づくにつれて、足元に置いたリュックサックに目がいってしまう。中に入っている物をあの場所で友里に受け取ってもらいたい気持ちが逸る。
「あのカーブを曲がったら見えてくるから、あと少しこのまま我慢してくれ」
国道と合流して最後のカーブを曲がる。すると海沿いに海水浴場が見えてきた。
夏本番ともなると、やはり多くの人がつめかけている。遠目から分かるほどみんな楽しそうだ。
しかし俺が目指す場所はそこではない。海辺に並ぶ木を越えた先にある。
「あれからもう3年も経つのか」
ふと懐かしさがこみ上げてくる。思えば事故と同じ日のことなのに、遥か遠い日のように感じてしまう。
だからこそもう一度ここにくる必要があった。過去を振り返らず、まっすぐ未来だけを見据えるために。
「相沢さん、ここだ! ここで止めてくれないか」
叫ぶと同時に車が緩やかに速度をおとし、退避スペースに寄せられて静かに止まる。
水平線にまで広がる海と蒼天の空。
先程過ぎ去った海水浴場とは違って人の姿がない。見たかぎりまっさらな砂浜には踏み荒らした形跡がなかった。
あの日と同じだ。ここは3年前の記憶にある景色と何一つ変わっていない。
「そう、ここがその場所なのね」
「ああ、たった一度っきりの思い出の場所。ここにどうしても友里を連れてきたかった」
「じゃあ私は車の中で待っているから」
「ついてこなくていいのかよ」
「そこまで野暮じゃないわ。でも1時間だけよ。もしも1時間過ぎて戻ってこなかったら迎えにいくからそのつもりで」
一度も振り返らなかった相沢さんがどんな表情で言ったのか分からない。
ただルームミラー越しに映った唇からして微笑んでいるように受け取れる。
「分かってる。それまでに帰ってくるよ」
まだ陽は明るくても夕方の6時前。サナトリウムを出発するのに時間がかかったのもあったが、友里のことを考えて車の速度をおとして走らせた為にかなり遅くなってしまった。
帰りのこと考えるとそう長く留まっていられない。だから1時間という制限を約束させたのだろう。
しかし帰りのことを考えれば、それでも十分に気を利かせてくれたと思う。
「だったら急がないとね。友里さんを降ろすの手伝うわ」
「ごめん、助かるよ」
トランクに積んだ車椅子を取り出し、二人がかりで友里を車から降ろして乗せかえる。リュックサックを右肩にかけて背負い、相沢さんに預けた車椅子のグリップを譲ってもらった。
そして緩やかな傾斜をくだって砂浜にでると、大きな車輪に砂が絡んで思った以上に進みにくい。ある程度は想像していたが思うように進まず、時折倒れそうになったり蛇行してしまう。
小さな凹凸をした砂の山がまるで行く手を遮っているかのようだ。車椅子を押すだけでもかなりの重労働を課せられる。
それでもどうにか少しずつ前に進んでいった。慎重に足場を確認し、一歩ずつゆっくりと歩みを噛み締める。
「ここ、覚えてるか? プロポーズしたのは確かもうちょっと向こうだったよな。我ながら情けねぇプロポーズだった。でもよ、友里は喜んでくれたよな。噛みまくった言葉に安物の指輪、それでもあんなに喜んでくれた姿を見て、実は俺も泣きそうになってた。あ~~ぁ、これ言うつもりじゃなかったんだけどなぁ」
太陽が沈みかけていても、陽射しは容赦なく頭上から降り注ぐ。浜風がささやかに吹いた程度ではこの暑さを凌げそうにもない。
車椅子を押すのに力をこめているのもあって汗が滝のように溢れ出てしまう。だがここまできて止まるわけにいかない。
3年前、友里にプロポーズした場所はもう目と鼻の先なのだから。定められた時間を気にしつつも、焦らず一歩ずつ慎重に車椅子を押し進める。
そしてようやく辿り着いた頃には蒼天だった空が茜色に染まっていた。
太陽が海の彼方に沈もうとしている。
「確かこの辺りだ。そうそうここから海を見たんだよ。んで、この先を言うのはチョット恥ずかしいな」
友里に海が見えるように向きを変え、一緒に景色を眺める。
空と同じ色に染められた海は水平線にまで広がり、潮騒の音色が心地よく耳に響く。
「綺麗だよなぁ。あん時もこのぐらいの時間だったよなぁ」
車椅子のグリップを離し、友里と並んで座る。こうして一方的に語りかけるのも慣れた。
友里の横顔は相変わらず無表情のままだ。この景色を彼女はまだ覚えているのだろうか。
もしもあの時の記憶が残っているのなら少しだけでもいい――なんでもいいから僅かでも反応して欲しいと願いながら友里の足元に膝をつく。
目に涙が溢れる。それを押し止めようとしても抑えきれずに視界が霞む。もう過去を振り返らず、まっすぐ未来だけを見据えようと思ったのに。いや、そう思い込もうとしただけに過ぎなかっただけなのかもしれない。
3年という月日はあまりにも長かった。俺にできることはもうないのか。絶望に支配されては駄目だと分かっている。
だけど、こんな姿の友里を見ているのは正直辛い。悲しいに決まっている。
ならば今だけ自分の心に正直になろう。そう思って友里の膝に顔を埋め、涙を堪えるのをやめた。
「友里、お前が何も思い出せなくてもいい。俺はお前と何時までも一緒にいる。お前がこうなって初めて分かった。俺はお前がいなきゃダメなんだ」
せき止めるものがなくなり、感情のまま想いをうちあける。膝に添えた友里の手の甲に頬をすり寄せると、溢れる涙で色白の肌が濡れてしまった。
頭の中に浮かぶのは友里が元気だった頃の姿。記憶の中の彼女は笑ったり怒ったりと、感情が豊かな女性だった。
せめてほんの一瞬だけでもその姿を見たいと願う。いったいどのくらいこうしていたのだろうか。一際強い浜風が吹き我にかえり、自分の膝元に置いたリュックサックの中を漁った。
取り出したのは3年前と同じ形をしたジュエリーケース。そう、中身も同じ物だ。
傷だらけだったの直してもらい、今日こうして持ってきた。
小さな傷跡はまだ残っているけれど、これからはもう過去を振り返らず、この指輪のようにまっさらな気持ちで未来に進まなければならない。
その決意が揺るがないうちに友里の左手をそっと手に取った。
「友里、俺は今でもお前が好きだ」
俺達が新たに旅立つには、今度こそ一言一句間違えずに伝えなければならない。
一呼吸をおき、心を落ち着かせてゆっくりと口をひらく。そして――想いのすべてを込めて薬指に指輪をはめた。
「たとえ友里の中に俺がいなくても、俺はお前から一生離れない。だから、結婚しよう」
すべてをやり直すことなんて出来ない。でも今を受け入れてやり直すことは出来るだろう。
たとえ友里がずっとこのままでも、俺が愛した女性に変わりない。どんな姿になろうとも、かけがえのない大切な女性だ。
これからは友里が訊けないことを俺が訊こう。喋ることが出来ない彼女の口になる。物に触れられないのなら代わりに触れて友里に伝えよう。
たとえこの先に如何なる苦難があっても、二度と彼女を苦しませるようなことをしない。
だから――。
「俺は友里がいなければ駄目なんだ。ただ傍に居てくれるだけでいい。だから一緒になって……ぅっ……」
友里の左手を握り締め、自分の頬にすり寄せる。
これからはたとえ何があっても俺が友里を守ろう。そう誓ったとき、力のない彼女の指が一瞬ピクリと動いたような気がした。
「ゆ……り……」
思わず頬から友里の左手を離した。
すると動かぬ筈の手が懸命に動こうとしている。
弱々しく指先を震えさせ、俺の手を握り返そうとしているではないか。
「ま……さ……と…………」
微かに聞こえたのは紛れもない友里の声。
それに今、確かに“将人”と言った。
俺の名を呼んでくれた。
これは決して聞き間違いなんかではない。夢や幻聴とも違う。見上げると友里の唇は動いていたのだから。
「友里、もしかして分かるのか。俺が誰なのか分かるんだな!?」
この喜びをどう表現していいのか分からない。ただ彼女が何を伝えようとしているのか一言一句聞き漏らさないように耳を澄ませる。
「わた、し…………あなた、に…………な……さい……」
友里は何もかも失ってはいなかった。記憶があるからこそ自分の思いを懸命に伝えようとしている。
今までも何かを伝えようとしていたのだろう。そう思い当たることがこれまでに何度もあった。
以前に涙を流したことがあった。僅かながらも指先を動かそうとしたのは、やはり見間違いではない。表情や声を出せないからこそ、せめてもの意思表示だったのではないか。
自分の意思を誰にも伝えられなかった友里の苦しみは計り知れない。おそらく俺が辛いと思ったことなど彼女にしてみれば些細なものだろう。だからこそ失った時間を取り戻そうと自分の思いを伝えようとしているのではないだろうか。
「まさとは……ずっと…………なのに……ごめん……なさい」
ひょっとして今までのことも全部分かっていたのではないだろうか。彼女の目から一滴の涙が零れ落ちるのを見てしまっては、何故かそう思えてならない。いや、今ならそう断言できる。
「あり、が……とう」
「礼を言うのは俺の方だ。俺のことを覚えてくれていて、今はそれだけで十分だ、それだけで……ぅっ、うぅっ!」
嬉しいのに涙が溢れて止まらない。
こんなにも愛し、愛されていた喜びをどう表現すればいいのだろう。心の繋がりが途切れずにいたことを、いくら感謝しても足りない。
この3年間を振り返るうちに万感の思いがこみあげ、友里の手の平に自分の手の平を重ねて握り締めた。
「ごめん……な……さい」
「なんで謝るんだよ、俺が泣いているからか? 違うよ、嬉しいから泣いてんだ。友里の心から俺が消えていなくて嬉しいから泣いてんだよ。恥ずかしいこと、これ以上言わせんなよ」
友里の右手が頬に触れてくる。そしてぎこちないがらなも俺に微笑んでくれた。
ずっと待ち焦がれていた笑顔が目の前にある。この日を、いったいどんなに待ち続けていたことだろう。
「わたし……」
「もういい、もういいんだ」
これ以上の言葉は不要だ。今はとにかく友里の笑顔が見られて嬉しい。
彼女が俺のことを分かってくれていた。
記憶に留めていてくれていた。
それだけで十分だ。他に望むことなんて何もない。
思わず車椅子に座ったままの友里を抱きしめた。しばらくして友里の手が弱々しいいまでに震えながら背にまわしてきたのが伝わってくる。
「友里、好きだ、愛してる」
止まったままの時間は長すぎたかもしれないけれど、これからはもう何も焦る必要なんてない。いくらでも取り戻すことが出来る。
俺達二人はこれからだ。
友里さえいれば、俺は未来に希望をもって進むことができるのだから――。
‐完‐
当初はもう少し短い物語を想定していたのに、気がつけばシーンの追加で思いのほか長くなってしまった次第です。
これでも幾つかのシーンを省いてきたのですが、物語のテンポは如何なものだったでしょうか。
また分からない箇所が多々あったことでしょう。
実は途中からサイドストーリーありきりで書いてしまったことによる原因で、これは私が至らなかったとしか言い様がありません。
あと作者が未熟で拙い文章しか書けないというのもあります。
改訂してもご覧の通りです。
本当にごめんなさい。
ですがこの物語を読んで少しでも面白いと思いましたら、樋口看護士の視点によるサイドストーリー連載開始の際にはどうか一読の程よろしくお願いします。
そのサイドストーリー開始時期ついては重ね重ね申し訳ありませんがまだ決めていません。
現在ノクターンで連載している作品を書き終えましたら、活動報告にてご連絡させて頂きます。
さて、この物語は私が書いた詩集にある『AGAIN ~あの夏の日のように~』の結末を変えて小説化したものです。
なぜ小説にしようと思ったのかといいますと、読んでくださった方が小説で読みたいという感想を書いてくださったことが切欠です。
もしもそのお言葉を頂戴していなければ、おそらくこの作品は誕生していなかったでしょう。
その方にはこのような機会をくださったことを、ここであらためてお礼申し上げます。
執筆にあたり、登場人物たちのモデルにさせて頂いた身近な人と某病院の看護士さんにもお礼とお詫びを申し上げます。
また入院するようなことがありましたら、今度こそは痛くない点滴をしてくれるのを願いつつ、これを後書きとさせて頂きます。