いつの日にか、きっと…(後編)
将人と二人の看護士はそれぞれの時間が許すかぎり友里の病室に訪れては声をかけ、自我を取り戻すリハビリに勤しむ。手に蒸しタオルを巻いてのマッサージの他にも手足の指先に刺激を与えたり、音楽を聞かせて意識を揺さぶろうと様々な手法を用いた。
無論、将人もマッサージの方法を覚え、1ヶ月も経てばかなり慣れた手つきで施せるようになった。友里が少しでも早く自分を取り戻して欲しいという願いがあったからこそ、家でも反復練習を怠らなかった結果である。
花瓶に活けられたガーベラの花に見守れながら月日は流れ、また翌年の春を迎えようとしていた。
友里に何らかの変化がない日々が続こうとも、青年が悲観することはなかった。
たまに落ち込んでしまいそうになっても自分を励ます二人の看護士が温かく見守ってくれる。彼女達が休みの日には他の看護士達が常にフォローしてくれた。
誰かが傍にいるだけで安心感があり、将人にとって心にゆとりを持てたのがどんなに救われたことであろう。
だが変化のない日常は突然思いもしない形で崩れさる。
「嘘だろ、相沢さんがそんな、なんでだよ」
「詳しい事情は分かりませんが、急に辞令が下ったらしいんです。新設されたばかりのサナトリウムへの異動を今日付で」
昨日、相沢看護士と会った時にそれらしい話が一切なく、仕事を終えて病院に訪れてみれば見慣れた女性の姿がなかった。
いつもなら病室で必ず顔を合わせるのに、その日にかぎっては一度も姿を見かけない。そこでナースステーションへ立ち寄り、今日は休みなのかと樋口看護士に尋ねてみたもの、返ってきたのは予想もしないことだった。
「別にもう会えないってことはないんだよな。そこ何階にあるんだ?」
「サナトリウムはここにありません」
「なんだって! じゃあ何処にあるんだよ」
「行ったことがないので詳しい場所は知りません。ここから車で3時間ぐらいかかるらしいんですが、それ以上は本当に知らないんです。実際に勤務に就くのは明日からみたいですけど、たぶんここに来ることはもう……」
樋口看護士の話からして、そこは主に治癒の見込みがない末期患者の収容を目的した系列施設らしく、サナトリウムというよりもホスピスとしての意味合いが強いらしい。患者すべてがそうとは限らないが、残り僅かな余生をそこで終える人が多いことからして、看護士の職務としては精神的な負担が大きいと言えよう。
景色が美しい海浜近くの小高い丘にあるとはいえ、周囲に民家もない隔離されたそこへの突然なまでの転属は云わば左遷に等しいものだ。それを当の本人である相沢看護士も3日前まで知らなかったらしい。
「あたしも昨日仕事が終わるまで知らなかったんです。それでどうして急にって思ったから主任に訊ねたんですけど、理由を訊いてもぜんぜん教えてくれませんでした。だからあたしだって……」
曇った表情の樋口看護士に嘘はない。彼女自身も内心穏やかではないようだ。寂しさだけではなく、悔しさが表情に滲み出ている。
そして前日まで隠し続けた本人に対しての憤りも感じているようだ。
「どうしてギリギリまで黙っていたんだろう。将人さんにも伝えていなかっただなんて酷いです」
訊ねてきた青年に愚痴をこぼしても樋口看護士の気はおさまらないようだ。ただ突然なまでに相沢看護士に下った辞令の理由に思い当たるらしく、つい勢いで「もしかすればあの事が原因で言えなかったのかも」と口走ってしまう。
それが将人に原因となりえる出来事を思い浮かばせた。
「あの事って、まさか!」
友里の回復はこれ以上望めないと治療の継続を断念した主治医に相沢看護士が異論を唱え、自らも何か効果的な治療方法がないかと過去にこの病院で携わった症例と照らし合わせて模索した。
実際にその姿を見たわけではないが、樋口看護士が嘘を吐くとは思えない。その一方で独自に考えたリハビリプランを主治医に無断で今まで友里に施してきた。
自分もその方法を教わって実践してきたのだ。もしかすればそれが今回の転属の理由になったのではないかと将人は勘ぐった。
「ち、違います。将人さんが思っているようなことじゃありません」
「だったら他に理由でもあるのかよ」
「そ、それは……」
「答えられないってことは図星ってことじゃないか」
樋口看護士の狼狽ぶりからして、おそらく同じ理由が浮かんだのだろう。ゆえにその責任を将人に負わせたくないという思いが態度に出てしまったようだ。
もはや何を言っても誤魔化すことは出来ないと悟ったのか、視線を逸らして黙り込む。
「やはり友里のことが原因なんだな。だったら院長に文句言ってでも」
「待ってください! 例えそうだとしても将人さんには関係ない事じゃないですか」
「何言ってんだよ、関係大有りだ。こんな理不尽なこと黙ってられるか!」
「やめてください、そんな事をしたら主任が! それに友里さんがここに居られなくなったらどうするんです」
院長に直談判などもってのほかだと言わんばかりに、樋口看護士が将人の腕にしがみつく。必死に哀願する眼差しで訴え、袖をぎゅっと握り締めて放そうとしない。
これ以上事を荒げては相沢看護士の立場はおろか、下手をすれば友里が強制退院されかねないと危惧するあまりに引きとめる。将人がその手を払おうとしても放さない。
「放してくれ!」
「嫌です、絶対に放しません!」
体格差が歴然としているのにも拘らず、樋口看護士のしがみつく力は相当なものだ。無理に振り払おうとして怪我をしてしまったらと手加減しているとはいえ、将人がもう一方の手で引き離そうとしても放さない。
いつしか野次馬となった他の看護士や患者達が何事かと周囲を囲み、ナースステーションの前が瞬く間に騒然としだす。三角関係でもめているのではないかという声もあったが、二人には野次馬の声など聞こえていない。
「二人ともこんなところで何言い争っているの。いい加減にやめなさい!」
突然聞きなれた女性の声が聞こえた。
しかし互いの主張をぶつけ合う二人はそれに構わず言い争う。
「やめなさいと言ってるでしょ、聞こえないの!!」
耳がつんめく程の甲高い怒声が言い争う二人を止めた。
樋口看護士に至ってはびくんと肩を跳ねさせて手を放し、全身が硬直して動かなくなってしまう。
将人もその迫力に払う手をとめた。振り向いた先に目尻を吊り上げて仁王立ちする私服姿の相沢看護士の姿がある。
「周りを見てみなさい。こんなところで大声なんか出して言い争うなんて、いったい何考えているのよ。恥ずかしいと思わないの。それに患者さん達にご迷惑をかけているのを分かって!」
「相沢さん」
「主任」
それぞれが名前を呼んでみたもの、どうしてここへと訊けなかった。すでに次の勤務先に行っているであろう女性の姿を目の当たりにし、嬉しいという気持ちよりも驚きの方が大きかったのだろう。
呆けた顔の二人の前に歩みだす相沢看護士が呆れて溜め息を吐く。
「まったくもう、何があったか知らないけど、私に最後まで手を焼かせないで頂戴。これじゃ向こうに行っても気が気でならないわ」
「はい、すみません」
「ごめん……」
「とにかく二人ともちょっと来なさい!」
将人と樋口看護士を交互に睨んで相沢看護士が指で招く。感情を押し殺すような低い声に逆らえず、二人とも観念してついていくしかなかった。
周囲の野次馬達もまた気圧されて声すら出せず、一歩も動くことができない。
「はいはい、なんでもないから患者の皆さんは自分の病室に戻って。そこ、突っ立ってないでさっさと仕事に戻る。ぐずぐずしないの!」
相沢看護士が手をパンパンと合わせて叩くと輪になって取り囲んでいた野次馬の群れが道を開く。患者達に混じって状況を見守っていた他の看護士はこれ以上の叱責を逃れんがために、その慌てふためき様が特に目立った。誰もが我先にと各々の職務に戻る。
そんな中で樋口看護士だけが恐怖に青ざめていた。
* * *
何も置いていない机を背後にし、背もたれに身体を預けて椅子に座る相沢看護士が頬杖をついて見上げている。その前に立たされた将人と樋口看護士は緊張の面持ちで声を出すことも許されず、長い小言を延々と聞かされていた。
下手な言い訳は倍返しになって返ってくる。そう感じとった二人は口をつぐむしかなかった。
ナースステーションの中にあるその一角に、他の看護士達は近寄ろうとしない。興味深そうにちらりと見ても、相沢看護士に横目で睨まれるとすぐに自分の持ち場へと足早に戻る。
たった一人の女性に誰もが恐れているのだろう。誰一人として口を挟もうとしない。
「――ヘンな誤解を招かないためにも、もう少し場所を考えなさい。樋口さんは特にそう。自分の立場というものを弁えないと。いい、分かった」
そう締めくくってじろりと睨む双眸に、はいと口を揃えてようやく肩の力を抜くことを許された将人と樋口看護士が互いを見合う。あたかも相手が悪いと言いたげな表情をするとまた睨まれる。
将人はともかく、樋口看護士に対しては容赦ない。言い訳をしようものなら凄んで黙らせる。
無言の圧力は周囲にも届いているのだろう。いつしか他の看護士の姿が見当たらない。
そして二人して情けなく頭を垂れても無言の圧力がしばらく続いた。
「はぁぁ、もう言いたくても言えないんだから。樋口さんは後輩の面倒を見る立場になったんでしょう。なら、その自覚をもつように。いつまでもそんなだと笑われるわよ」
「はい、最後まで主任に迷惑をかけっぱなしですみません」
「そうね、貴女にはいつも怒ってばかりだったような気がするわ」
今までの出来事を思い出したのだろう。クスクスと笑いだす相沢看護士に先程までの険しい表情が消え、将人が普段見知った優しい面持ちで後輩を見つめている。
それを苦笑いで返す樋口看護士が少し間をおいて「ところで主任、どうしてここへ?」と訊ねた。
「忘れ物をしたから取りに来たついでに寄ってみたの。あと樋口さんにも渡すものがあったから」
「あたしに?」
「ええ、将人君にも関係がある物だから丁度よかったわ。本当は会わずにお別れをするつもりだったけど」
言い終わらない間に相沢看護士が少し前屈み気味になり、逆手で机にある一番下の引き出しを開ける。すると中には一冊のファイルだけがあり、それを手に取ると樋口看護士に差し出す。
「これは?」
樋口看護士がファイルを開くと、手書きで友里のリハビリについて書いてあった。
手書きで理学療法の実践に関する内容まで事細かく書き込まれ、他にも自分の意思を伝えられるようになった後のことやリハビリ専門医とどう打ち合わせをすればいいのかと内容は多岐に渡る。
友里が自我を取り戻すと前提された内容は、専門用語を極力使わずに判りやすく解説されていた。
もしもこのメニューを最後までやり遂げれば、おそらく自力で日常生活を過ごすことが多少なりとも可能になるだろう。
「これからの貴女にはたぶん役立つと思うわ。もう何も教えてあげられないから、要点だけをまとめてみたの。樋口さんは今日から友里さんの担当なったんだからしっかりと頑張るのよ。だからって他の患者さんを蔑ろになんてしたら承知しないから」
「はい、ありがとうございます」
手渡されたファイルを両手で胸に抱きしめた樋口看護士が感極まってしまったのか、声がどことなく上擦っていた。滲む涙を指でそっと拭い、今にも泣きだしそうなのを堪える。
しかしそう長く続かない。ボロボロと涙が溢れ、小さな嗚咽を漏らす。
「主任……あたし……う、うぅ……頑張りますから」
「あらあら、もう何泣いてんのよ」
「だって……」
胸にファイルを抱きしめたまま、俯く樋口看護士は何も言えなかった。そんな彼女を立ち上がった相沢看護士が優しく抱きしめ、そっと頭を撫でる。
何かを耳元でぼそぼそと言ったようだったが将人には聞こえなかった。
「将人君、こんな頼りない子が担当になるけど宜しくね」
「いや、そんな」
どう答えていいのか分からずに、将人は苦笑いを浮かべて髪を掻き毟る。目の前の二人を見ていて居辛いように感じ、自分はこの場から去ったほうがいいのではないかと思った。
――樋口さん、相沢さんのことを怖がっているくせに、本当は好きで離れるのが辛いんだ。
今も胸に顔を埋めて嗚咽する姿と以前に謝れと言ったことが重なる。おそらく相沢看護士は自分が慕われている事を分かっている筈だ。
手のかかる後輩だと思う反面、可愛い後輩だと思うからこそ彼女の思いを真正面から受け止めている。今まで厳しく指導してきたのもその為なのであろう。厳しさの中に優しさを感じられる。
またリハビリメニューを書き込んだファイルを託したのは、友里の面倒を最後まで看られない責任を感じているのかもしれない。しかしそれはすべて樋口看護士が後々困らないようにと考えてのことではないだろうか。
将人にはそう思えてならなかった。
ただその前に相沢看護士がこの病院を去る理由だけは尋ねたいと思ったが、それを切り出そうにもできない。友里の為にと懸命に尽くしてくれた事が結果的に彼女の立場を悪くしたかもしれないと樋口看護士から聞かされていたからだ。
それを敢えて本人に尋ねようとしなかった結果がこの事態を招いたのならば、自分は如何に甘えすぎていたのであろうか。
友里のことしか考えず、周囲がまったく見えていなかったと今さら後悔してもどうにもなるわけではない。
先程までは病院に抗議しようと思ってはいたもの、目の前の相沢看護士の姿を見ているうちに気持ちが揺らぐ。ここで理由を尋ね、病院に抗議しようものなら、それは彼女の行為を踏み躙ってしまうのではないかと――。
微笑んで後輩を抱きしめる相沢看護士に後悔の色がまるでない。ならば彼女が心置きなく新天地に旅たてるように送り出すべきではないのかと思いはじめる。
しばらくして樋口看護士の嗚咽が消え、相沢看護士が抱きしめていた手を放す。
「顔を洗ってらっしゃい。そんな顔じゃみっともなくて患者さんの前に出られないわよ」
「はぃ……」
消え入りそうな声を残して樋口看護士が流し台のある奥の部屋に去っていく。
その後ろ姿を見送った相沢看護士が将人の方に向き直った途端、微笑が俄かに曇る。
「将人君、黙っていてごめんなさい。これじゃ私、無責任よね。ずっと友里さんのお世話をさせてもらうと言ってたのに」
「いいんだ、そんなことはいい。それよりも理由は友里のことなんだろ。だったら――!」
目の前の自虐的な笑みが訊ねまいと思っていたことを将人に口走らせてしまう。自分では抑えきれない感情が湧きたち、なぜ今回の処遇を抗議しなかったのかと言葉が出かかる。
もしも相沢看護士が無言で首を左右に振らなければ、続けて思ったことを叫んでいたであろう。
悔いを残していない澄みきった表情をされてしまえば押し黙るしかなかった。
「違うの、そうじゃないの。この移動は私が望んだことなの。友里さんがここへ運び込まれる以前から申し出ていて、それが急遽決まっただけだから。でも……ううん、なんでもない」
「そっか、ならいいんだ。相沢さんにだってやりたい事があるだろうし、ここで無理に引き止めたら友里に怒られちまう。アイツが怒ったら相沢さんみたいに怖ぇから。なにせ問答無用だもんなぁ」
将人にしてみれば最後は軽い冗談のつもりだった。ところが場を和まそうとしたつもりの発言は相沢看護士にとって不快だったようだ。心外だと言いたげに片方の眉がピクリと動く。
それに将人は気がついていない。
「あら、私って怖い?」
「かなりね。樋口さんが時々そんなに怒らなくてもいいのにって愚痴ってたの、さっきのでよく分かったよ。そうだ、相沢さんのことを“底なし丼”って言ってたこともあったっけ。それも本当の話なんだ」
場を和ますつもりの冗談がいつしか気になっていた噂に切り替わっても将人の口は止らない。相沢看護士の表情がみるみると険しいものになっていく。
「な、なによそれ!?」
「相沢さんが底に穴があいた丼みたいに限度を知らない大食いだって、他の看護士さん達も言ってたし……」
私服姿の看護士が驚きの表情で唇をなわなわと震わせていることにようやく気がつき、将人は思わず言葉の続きを飲み込む。
決して本人に尋ねてはいけない噂を口にしてしまった事に後悔しても時すでに遅い。目の前の相沢看護士は口角をヒクヒクと吊り上げて睨みつけている。
「言いかけたんだから最後まで言いなさい。ちゃんと説明して!」
相沢看護士は後輩達がどのような陰口を叩いていたのかと問いただしてくる。但し普段の落ち着いた物腰からして想像し難いほどにうろたえ様に、もはや事実だと疑いの余地はない。
さすがにこれは不味いことを言ってしまったと将人が思ったもの、脅迫じみた迫力の前にしては観念してありのままを話すしかなかった。
「実は――」
看護士達の間で広まった大食漢ぶりが事細かく説明される最中、相沢看護士の顔がみるみると真っ赤に染まっていく。怒りと羞恥が入り混じっている為か、唇がなわなわと震えだす。
「あの子達、私のことをよくもそんな風に! まさか患者さん達にも言いふらしているんじゃないでしょうね」
「さぁ、どうなんだろう。樋口さんが言うには自分がここに勤める前から先輩達はみんな知っていたって。なんでもロッカーの中は食べ物ばかりだとか」
「そ、そんなことないわ。冗談じゃないわよ!」
文句を言いたげに相沢看護士が奥の部屋に目をやり、正面に向き合うなり恥ずかしそうでどこか呆れたような表情で俯く。
将人はそれを見てこの話はどうやらすべて本当らしいと確信した。
「実際によく食べるから、そんな風に思われても仕様がないか。看護士って体力がなければ勤まらないもの。ううん、これでは言い訳しているのと同じよね」
ぽつりと呟く相沢看護士は樋口看護士を怒る気がないらしい。少しばかり拗ねみせた素振りをしてみせたもの、肩で大きく息を吸うと普段見慣れた姿に戻る。
常日頃から仕事で精神力を鍛えられてきたのであろう。何かあったときの立ち直りは人並み以上に早いようだ。
「みっともないとこを見せてしまったようね。ごめんなさい」
「いや、そんな……」
「いいのよ、あの子達にはいつも怒ってばかりだったから陰口の一つでも叩きたくなって無理もないわ」
「主任って立場なんだから別に憎くて叱ったんじゃないんだろう。樋口さん達だってそれぐらい分かってるよ。じゃないと相沢さんみたいな看護士になりたいなんて、嫌ってたら普通言わないだろう」
「そんなことも言ってたの?」
「もうかなり前からずっとね。叱られた時は怖いけど、本当は面倒見がよくて優しい人だって」
「本当にそう思っているのかしら」
相沢看護士が照れくさそうに視線を逸らす。
戻ってこない樋口看護士の方を向いたままのその横顔がどこか嬉しそうに見え、素直に喜べばいいのにと思う将人は肩を竦めた。
この女性は自分が褒められるのを慣れていないらしい。根っからの看護士気質なのもあって誰かのために尽くすことで生き甲斐を感じているのだろう。
ただ生真面目で完璧を求めてしまう為に、つい後輩達に厳しい態度で接してしまうのではないだろうか。
それを理解してもらおうとしないのを、将人は損な性分だと思う。だからこそ今の正直な気持ちを込めて「本当だと思うよ。俺もそう思うし相沢さんには感謝してる。今まで本当にありがとう」と礼を言い、深々と頭を下げた。
彼の気持ちがどこまで伝わったのか。それは相沢看護士の嬉しそうで少しばかり照れた顔がすべてを物語っていよう。
「ううん、私は何もしてあげられなかった。お礼を言われるようなことをしていないわ」
「いや、相沢さんが友里の担当をしてくれたから今まで諦めずに頑張れた。それにこれからも、だからいつかきっと……」
「そうね、焦らずに頑張ってね。ただ樋口さんが何か仕出かさなきゃいいけど。それだけがちょっと心配」
「だよなぁ、よく失敗するもんなぁ。下手なことされたら今以上に酷くなるってこともありえるし」
「そうね、それでどうしてくれるんだと訴えられでもすれば大変。私そこまでフォローできないもの」
「それは困る。ちゃんと責任取ってもらわなきゃ」
「いやよ」
どちらからともなく笑い声が漏れる。
しばらくして、顔を洗って戻ってきた樋口看護士は自分を見て笑う二人の姿にきょとんとした表情で何やら考え込む。答えが出ずに気になって相沢看護士に尋ねたもの「別になんでもないわ」と笑いを堪えての返答に釈然とせず、言いし難い怒りを感じたのか、むっとした態度をした途端に頬を膨らませて拗ねてしまう。
本人には悪いと思いながらも、将人は笑って相沢看護士を送り出せるのならこれでいいと一人納得していた。
ただ自ら移動を申し込んだという事に関しては納得していない。自分を気遣うための嘘だという疑いが晴れていないのだから。
「それじゃ二人とも、しっかりやるのよ。元気でね」
将人にとって、この一言にすべてが凝縮されていた。
ゆえに「ああ、相沢さんも」と返すだけにとどまるも、相沢看護士には十分だったようだ。思いが伝わったからこそ「うん」と頷いたのだろう。机の下に置いてあった紙袋を持つと、寂しそうに微笑んで去っていく。
将人はその背中を黙って見送った。