いつの日にか、きっと…(前編)
『もう二度と諦めようとは思わない。
いつか必ず友里の心にこの想いが届く筈だ。
それは5年後か、それとも10年後なのかは分からない。
たとえ気が遠くなるほどの年月が必要だとしても、俺はただ待つだけ。
彼女に笑顔が戻ると信じて……』
心が挫けそうになっていた将人に、感情を失った友里の目から零れ落ちた涙は確かな希望を抱かせた。
それは頑なに相沢看護士を遠ざけてしまった気持ちまでも動かした。
感情的になるあまりに自分はなんて酷いことを言ってしまったのだろう。今さら謝ったところで許してもらえないかもしれないと思いつつ、どう謝罪するべきかと一晩中考えた。
しかし翌朝になってもどう言葉を切り出していいのか分からず、ナースステーションの前で立ち止まってしまう。答えを見つけられないまま奥を覗こうとして探してみたが目的の人物の姿は見当たらない。数人の看護士が机に向かって事務作業に没頭している姿だけが目にとまる。
「仕事の邪魔をするのは悪いし、相沢さんにどう謝ればいいのかも分かんねぇし……どうすりゃいいんだよ」
彼女達の誰かに相沢看護士を呼んでもらおうかと考えてみたもの、話を切りだす妙案が浮かばずにカウンターの前でうろうろとするばかり。通りがかる入院患者から怪訝な目で見られているのもあり、落ち着いて考える余裕すらない。
そこへ将人に気がついた樋口看護士が近づいてくる。少しばかり幼い顔立ちがいつもより晴れやかな笑顔をみせる。
「あ、将人さん。おはようございます。今日は早いですね」
「そ、そうか、今日は仕事が休みだから」
「へっ!?」
手に顎を乗せて樋口看護士は小首を傾げながら何やら考え込み、答えを思い浮かべると「あ、そっか……今日は土曜日でしたね」と、夜勤明けの疲れを微塵に感じさせない笑みを返してくる。
ところが時計を見るなり真顔になり、やがて渋面を作ったと思いきや、今度は呆れるような眼差しで将人を睨みつけた。
「あのぉ、まだ面会時間になってないんですけどぉ」
「分かってるよ。ちょっとぐらい早くてもいいじゃないか」
「駄目です、規則ですから!」
「先に相沢さんと会って話がしたいんだけど」
「主任と!?」
「うん、それでも駄目かな?」
「う~~ん……」
ならばと将人は相沢看護士の名前を出したもの、面と向かってどう話を切り出していいのかまだ妙案が浮かんでいない。
しかし若い看護士には効果的だったようだ。どうしようかと迷っているのか、再び考え込んで答えを導き出そうとしている。
そこで将人は彼女の迷いを断ち切ろうと言葉を続けた。
「どうしても友里と会う前に話しておきたいことがあるんだ」
この一言が決定的であったらしい。
はっきりと語らずとも、理由を察して樋口看護士の表情がたちまち晴れやかになる。
「――でしたら一緒に行きましょうよ。さっき友里さんの病室に向かったところですからたぶん今もいますよ」
友里の病室に相沢看護士がいることが予想外であったうえに樋口看護士までついてくるのは誤算だった。
詫びるのは誰もいないところでと思っていた将人の目論みは脆くも崩れ去り、この後は彼女の独壇場となる。
「あ、いや、この時間はやっぱ不味いよな」
「何言っているんですか。面会時間まで待っていたら帰っちゃいますよ。主任も夜勤だったんですから」
「別に明日でもいいよ、うん」
「主任、明日は休みなんですけどぉ」
「じゃあ明後日にでも」
「ふ~~ん、でも大事な話だからこの時間に来たんじゃないんですか?」
訝しめて睨む双眸は将人に一切の言い訳を許そうとしない。詰め寄って尚、青年を追い詰めにかかる。
もはや勝負はここで決まったといっていいだろう。
「それとも、あたしがいると何か都合が悪いことでも?」
「いや、そんな事はない。ただ……」
「ただ?」
謝っておきたいと言いかけそうになった将人を、樋口看護士は身体が触れそうな程に身をのりだしてくる。その迫力と身体が触れてしまいそうになるのを意識する将人はなす術もなく後退りするしかなかった。
ところが急にクスクスと笑いだす目の前の笑顔に呆気に取られて立ち止まってしまう。
「な、なんだよ」
「ごめんなさい、ちょっと困らせたかったんです」
「はぁ!?」
「だって将人さん、主任を泣かせたんですからね。これはその罰です」
怒ったようで冗談めいた声音の樋口看護士が今度は自らの腰に手を添えながら拗ねてみせる。猫の目のように次々と変わる表情と仕草に将人はついていけず、ついにはぽかんと口を開いたまま固まってしまう。
「それともう一つ、今すぐ謝りにいって下さい。当然ちゃんと謝ったかどうか確認するためにあたしもついて行きますからね。さ、行きましょう」
「ちょ、ちょっと!」
もはや成すがままだった。腕を掴まれるや否や、強引に引っ張られていく。
* * *
病室に入った将人の目はすぐにベッドの脇へと移った。
前屈みで背中を見せているナース服姿の女性は一度も振り返ろうとしない。将人達が入ってきた事を気にもとめず、裾を捲った友里の左手にタオルを何枚か重ねて巻きつけていた。
「相沢さん、なにを!?」
「主任……」
見慣れた後ろ姿に声をかけても見向きすらしない。相沢看護士は黙ってタオルを巻きつける作業に没頭している。
二人はただドアを開けたまま立ち止まり、そのまま顔を見合わせた。
「あれ、何やってんだ?」
「さぁ、あたしもどういう事だか……」
訊かれた樋口看護士は何も知らないようだ。
その間にも友里の左手には肘の辺りまでタオルが巻き終えていた。将人と樋口看護士が近寄って後ろから覗き込むと、相沢看護士は手の平から順にタオルの上からマッサージを施しはじめる。
ちらりと見た横顔は黙して何も語らず、二人はただその行為を見守るしかなく声を出すことも躊躇う。
時間にして約10分ぐらいだろうか、一通りのマッサージを終えたらしく、相沢看護士は友里の左手から巻きつけたタオルを剥がしていく。
「樋口さん丁度いいところにきたわ。右手は貴女がやってみなさい。やり方は今のを見て分かったでしょう」
振り向いた相沢看護士はそう告げると立ち上がる。
一方の樋口看護士は突然のことに「へっ!?」と呻いて何を指図されたのか分かっていない様子だ。前屈みに覗き込んだ姿勢のまま目を大きく見開く。
どうやら言われたことを思い出そうとしているが、傍からすれば呆けたような表情だ。そのぼんやりとした顔を見下ろす主任看護士の目尻がみるみると吊りあがると「へっ、じゃない! 貴女いったい何見てたの!」という怒声が飛ぶ。これに「は、はいっ!」と返事をしたのは日頃の条件反射なのだろう。
樋口看護士は相沢看護士の足元に置いてあるバケツを手にすると、慌てながらベッドの反対側へとまわり込む。たちこめる湯気と一緒に水飛沫が飛び散り、それが手の甲にかかって「熱っ!」という小さな悲鳴をあげた。
「主任、こんなに熱かったら火傷しちゃいますよ」
「それぐらい自分で考えなさい」
バケツの中のお湯が想像以上に熱いのか、樋口看護士が苦情を訴えるも聞き取ってもらえない。逆に突き放されて顔が渋る。
口を尖らせたまでは良かったが、ぶつぶつと愚痴をこぼした途端に「文句を言わずにさっさとやりなさい!」と一喝されてしまい、手で口を塞いで言葉を強引に飲み込む。
その迫力に将人までもが反射的に背筋をぴんと伸ばしてしまう程だ。当の本人は相当堪えたのであろう。
バケツのお湯が火傷しそうな程に熱いのもあるが、慌てるあまりに浸してあるタオルを取り出せず、指先で摘みあげようとしては何度も落とす。
これには相沢看護士も溜め息を漏らすしかなかったようだ。しばらく様子を見ていたが、さすがに見るに見かねて「ほんとにもう……」と言いながらも自ら手本をみせる。
袖を引っ張りながら熱湯に手首まで突っ込むと、手際よく絞ってタオルを広げた。そして十分に冷ましてから片手で起用に友里の袖を捲くって巻きつける。
「いい、ここで冷ましすぎたら駄目よ。マッサージするのも力を入れすぎず、こう」
決して丁寧な説明をするのではなく、自らの手本をもって教える主任看護士の表情に落胆の色はなく、真剣な眼差しに優しさを滲ませていた。
そこに将人の姿は映っていないようだ。
「これで分かったでしょう。続きは貴女がやってみなさい」
食い入るように見つめていた後輩が頷くと入れ替わり、その不慣れな手つきを黙って見守る。
この一連のやり取りに将人が割って入いることができない。最初こそは呆気にとられていたもの、この二人の姿を見ているうちに声をかけては邪魔になると思った。
そんな青年の脳裏に「はい、ですから一緒に頑張りましょうよ。あたし達、今後も精一杯お世話をさせて頂きますから」と言った樋口看護士の言葉が浮かぶ。
「友里のことをこんなにも真剣になって看てくれる人達なんて、他にいないよな」
ぽつりと呟いて、将人は如何に自分のことだけしか考えていなかったとあらためて痛感させられる。そして相沢看護士の話をなぜ最後まで聞かなかったのだろと自己嫌悪に陥るあまり、作業に集中していた樋口看護士が自分の声に反応して見ているのを視界に映っていなかった。
ゆえに呼びかけられてもまったく気がついていない。
「――ねぇ、ちゃんと聞いてます?」
「あっ、いや、その……」
「ですからさっき何を言ってたんですかって聞いているのに、将人さんぜんぜん聞いていないんだから」
「ごめん、ちょっと考え事してた。それよりも俺、何か言ってたっけ?」
「へっ!?」
何度目かの呼びかけに気がついて目が合い、咄嗟に誤魔化した将人がわざと視線をそらした。
一方の樋口看護士は不思議そうに青年を見つめた後、小首を傾げて何やら考え込んでしまう。
蒸しタオルを巻きつけた友里の手を抱えたまま作業が止ったところへ「手を止めない! 集中してやりなさい」と、眉を吊り上げた相沢看護士の一喝がまた飛んでくる。
「は、はいっ!」
背筋をびくんと跳ねさせた樋口看護士の手が慌しく動く。突き刺さる視線を意識するためか、友里の腕に巻きつけたタオルが捲れては整える様がどこか落ち着きがない。
その心情を物語るように焦りを滲ませた苦笑が引き攣っていた。
* * *
樋口看護士が要領を掴んだのはしばらく経ってからのことだ。
それを見届けてから相沢看護士が「じゃあ後は任せるからお願いね」と告げて病室から出ていこうとするのを将人が引き止めるが聞き入れてもらえない。
「相沢さん……」
「ごめんなさい、今忙しいから話はまた後で」
「待ってくれ! 俺、アンタにまだ謝ってないんだ」
その必死の呼びかけすらも主任看護士に届いていなかった。
ドアの前で一度だけ振り返り様に「失礼します」とお辞儀し、優しい眼差しと微笑みを残して去っていく。
将人はしばらく立ち止まったもの、すぐに追いかける。しかし呼び止める声に相沢看護士は振り返ろうとしない。
「相沢さん、待ってくれ!」
焦った将人は正面にまわり込んで道を塞いだ。通りがかった患者や他の看護士が何事かと見ていても、この青年の視界には誰も映っていない。
いや、その存在すら無きに等しいようだ。迷惑そうに顔を背ける相沢看護士が横切ろうとするのを塞き止めて壁際へ追い詰める。
「頼むから話を聞いてくれ」
「ごめんなさい、今は本当に忙しいから後で。それにこんな所での立ち話は患者さん達のご迷惑になるでしょう」
「だったら」
「あっ! ちょっと、どこへ連れて行くのよ」
話を拒む相沢看護士の手首を強引に掴むなり、将人は通路を脇目もふらずに歩きだす。そして無理矢理につれて歩き、病棟の一角にあるデイルームで立ち止まった。
幾つかのテーブルが並べられたそこには何人かの入院患者が病衣姿のままくつろいでいる。窓の外の景色を眺める者や談笑している者など、皆それぞれのひと時を思い通りに過ごしている様子だ。
その彼等の視線を一斉に浴びせられて相沢看護士の表情が羞恥と困惑の色に染まる。
「いったいこんな所に連れてきてどういうつもり?」
周囲から好奇と怪訝な面持ちで見られているのだからその苦情はもっともだろう。
ニヤニヤと笑う若い男性患者や、二人の関係を訝る中年の女性患者など反応は様々だ。にも拘らず、目の前の青年はそれを気にする素振りを見せていない。
下手な言い訳は誤解を招くと思ったのだろうか、相沢看護士は周囲の患者達に何も言わず将人だけを睨みつける。そんな彼女の心情をまるで分かっていない当の本人はその場に膝をついて頭をさげた。
「すまなかった。相沢さんは俺や友里のために言ってくれたのに、なのに俺は……」
「ち、ちょっとやめてよ! 患者さん達が見ているじゃない」
将人の思わぬ行動と周囲のざわめきに相沢看護士の顔が羞恥の色にみるみると染まり、普段の何事にも動じない姿からは想像し難いほどに慌てふためく。
青年の声は小さく、おそらく誰も聞き取れていない。これではまるで痴話喧嘩の末に恋人が職場にまで謝りにきたみたいに思われてしまうだろう。
現に若い女性の声で「何よ、あれ」と呟く声が聞こえた。
他にも浮気でもしたのかという声まで飛びだす始末。これに堪りかねた相沢看護士が「分かったわよ、話を聞くから顔をあげて」と、顔を真っ赤にしながら根をあげた。
そして小さな溜め息を吐くとしゃがみこんで目線を合わせてくる。ふと顔をあげた将人の前には見慣れた優しい微笑があった。
「ごめん、あの時は言い過ぎた」
「もういいのよ、私も将人君の気持ちを考えてなかった。怒って当然よ」
「だけどよ」
「はい、それまでよ。その気持ちがあるなら私たちのことを信頼して。この現状を受け入れて、そこから始めるために、ね」
相沢看護士が片目を瞑って悪戯っ子のような笑みを将人に向けたは偽らぬ本音だからなのであろう。
色白の細い手が膝をついた青年に差し出された。立つようにと促すのが当たり前のように、にこりと微笑んで待ち続ける。
将人は少し躊躇ったもの、その手を握り二人一緒に立ちあがった。
「これからはもっと辛いことがたくさんあると思うの。その覚悟はできて?」
「ああ、分かってる。たとえ何年かかろうが信じて待つだけだ」
憑物が取れたような将人の表情に満足したのか、相沢看護士は満足そうに頷く。
友里の回復までには気が遠くなるほどの時間が掛かる。それも気長に待ち続けなければならず、精神的に相当な負担を科せられることになるだろう。
しかもどこまで回復するのか定かではない。一生このままでいる方が確率的に高いのだ。なまじの覚悟では耐えられない過酷な道のりが待ち構えているにも拘らず、将人は逡巡することなく即答した。
自分一人だけなら気持ちが折れてしまうかもしれないが、支えてくれる人がいるのなら揺らぐことがあっても耐えられる。そしていつの日にか必ずこの想いが友里に届くだろうと心から願った。