気持ち揺らいで
病院を後にしたも将人は苛立っていた。
いまだに樋口看護士の声が脳裏に響き、振り払おうとしても離れずに残る。
――主任のこと、まだ怒っているんですか――
怒っていないと言えば嘘になる。しかし相沢看護士を責めるつもりはなかった。
友里が目を覚ました直後に一度は消えた不安、そして安堵の喜び。それが脆くも崩れ去ったあとだけに、将人は事実を受け入れることができなかった。
目覚めぬ頃からもしやと多少なりとも覚悟を決めていたとはいえ、事実を聞かされてから数日しか経っていないのであれば簡単に割り切れるものではない。それが人の心情というものである。
将人にとって何よりも耐え難いのは、訊いた相手が今までずっと身近で友里の看護をしてくれた相沢看護士だったことだ。ゆえに樋口看護士の言葉が胸を抉るように響く。
「分かってる。相沢さんが言いたかったことぐらい分かってるよ。だからって俺が諦めたら友里は――! くそっ!」
己の感情を吐き捨てながら帰路につく。将人はこの数日、これを繰り返してきた。
そんな自分が相沢看護士と顔を合わせたら感情が抑えきれなくなる。また同じことを繰り返したくないからこそ友里の看護を親身になってまでしてくれた人を遠ざけてしまった。
それを樋口看護士に理解してもらうのは酷というもの。もちろん将人に理解してもらうつもりは毛頭ない。
ただ彼女との会話の中で一つだけ妙に引っかかる言葉があった。病院側は友里の回復はこれ以上見込めないと決めつけている筈のに、自分はまだ諦めていないと言ったことだ。
――事実を受とめてこそ先が見えるんじゃないですか。だからあたしは諦めてません。それに主任だってまだ諦めていないんですから――
この言葉に込められた意図が将人には分からなかった。しかも相沢看護士が友里の主治医に治療の継続を訴え、自身でも治療方法を探しているらしい。
諦めろと言った本人がそのような行動をするなど信じられず、将人は最後まで聞こうとしなかった。しかし今になって、もしかすれば治療の見込みがあるのではと気になってしまう。
「もう話すことはないのに、なんであんな事を言い出すんだよ」
それを確かめるには自分から訊くべきだとしても、それではあまりにも身勝手すぎる。
だだでさえ自分は相沢看護士に酷いことを言ったのだ。今さら直接訊くなどできないと将人は思う。
「ま、いっか。今さら気になっても訊くわけにいかないし、訊いたところでどうにかなるって事も……」
ぼんやりと考え事をしながら歩いていた為か、いつもなら駅に到着している筈なのにまだ半分も過ぎていない。閑素な住宅街を僅かな街灯で灯す薄暗い夜道には誰も歩いておらず、時折通り過ぎる車のヘッドライトが眩しく照らす。
暗闇の中を車が目の前を通り過ぎる度に、その視界を真っ白に染めあげる輝きが将人に事故の記憶を呼び起こして苦しめる。視界の正面から向かってくる強い輝きは地面に横たわった友里の姿がヘッドライトに照らされている光景と重なってしまい、いつしか忌むべき光となっていた。
「いい加減慣れろって!」
倒れた友里の姿を脳裏から消し去ろうとしても簡単に拭えないのを承知しながらも、光に怖気づく自身に怒りの矛先を向けて叫びだす。そして次のヘッドライトの輝きが迫ってくると、ふらふらとした足取りで後退って立ち止まる。
「くそっ、なんでだよ!」
病院帰りの閑散とした静けさが心の隙をつき、将人はいつも車道から極力離れようと歩道の端に寄ってしまう。
愛車を手放す原因になった光に似た輝きは、月日がたった今もこの青年を苦しめる。そこへ追い撃ちをかけるように立ち止まった将人の脳裏にまた一つ言葉が浮かぶ。
――この現実を受け入れてほしいの――
自分から事実を求めたとはいえ、相沢看護士のこの一言がここ数日何度も将人を苦しめてきた。
認めてしまえば友里は二度と元気な姿を取り戻すことはない。たとえこの苦しみが続くことになろうとも、彼には受け入れることができなかった。
――将人さんも薄々は気がついていたんでしょう。違いますか?――
そこへ樋口看護士が言ったこの一言と、感情がない友里の姿が重なって将人をさらに責めたてる。
「ああ、ひょっとしてって思ったことは何度もあった。だからって諦められるかよ」
自分が友里の回復を信じなければ誰が信じるというのか。
将来のことなど今は考えなくていい。いや、考えたくもないと将人は思う。
友里と共に同じ時間を歩むからこそ将来のことを考えられる。たとえ喧嘩が絶えなくても、心の繋がりがあってこそ幸福を感じられるのではないかと信じればこそだった。
それが何年、何十年先でも将人は信じて待つ決意をしているからこそ、相沢看護士の言い様がそれを否定しているようにしか思えなかったのだろう。どう言葉で言い繕うとも、これ以上は聞きたくもないと己の殻に引きこもる将人には相沢看護士との距離を置くしかなかった。
今更何も話すことはないと思っていた彼にとって、樋口看護士が何を言っても信じられないのも無理はない。とはいえ友里にしてあげられる治療を探しているという事が気になってしまう。
「俺は……くっ!」
言葉を飲み込んだ将人は奥歯を強く噛みしめ、握り締めた拳の矛先を求めた。
夜道の向こうにある煌びやかな駅前にまで差し掛かれば少しは落ち着くだろうと思っても、簡単に気持ちを切り替えることができない。
重い足取りで暗がりの中を歩きだそうとした矢先、背後から騒々しいまでの足音が迫ってくる。
それに気がつかなかったのは将人が意識を内に向けていた為であろう。
乱れた息づかいが聞こえるぐらいに距離は近い。ところが振り返った将人にはその姿が夜の闇にかき消されてはっきりと見えない。ただ聞き慣れたその声の主は誰なのかは分かる。
近づいてくるにつれてその姿が暗い世界に浮かぶ。目の前で立ち止まるなり前屈みになって苦しそうに息を切らす若い看護士は、仄かな明かりの下で安堵の笑みをこぼしていた。
「――はぁ、はぁ……はぁ……まさ、と……さん」
どうやらここまで走ってきたらしい樋口看護士はぐっしょりと汗にまみれていた。
膝に手をついて見上げ、溢れ出る汗を拭おうとしない彼女を将人は怪訝な面持ちで黙って見つめる。
「よかった……はぁ、はぁ……すぐ一緒に」
懸命に息を整えようとする若い看護士は何を言いたいのだろうか。
身体を起こすことができずとも、将人の手を掴むと自分の方へ引き寄せてくる。
「おい、いったいなんだよ」
「ですから、病院に……」
「病院にって、まさか!」
絶え絶えの息で言葉が出ずとも、樋口看護士の必死な眼差しは重大なことを告げているのではないのか。友里の容態に何かあったのかと不安に思った将人の顔が薄明るい街灯の下で青ざめ、唇が小さく震えだす。
「友里さん……もしかしたら、ちゃんと意識が……だから、それを確かめに……」
* * *
将人が病院へ戻ったのは、しばらく時間が経ってからのことだった。
何を言っているのかよく理解できないまま急かす樋口看護士の迫力に気圧され、手を引っ張られる形で来た道を走らされた。そしてエレベータに乗り込んだ際、手をしっかりと掴まれていた事にようやく気がつく。
将人がそこに目をやると慌てて放したのは樋口看護士の方だった。病室がある6階のボタンを押して咄嗟に距離を置く。
「す、すみません。あたし、つい急いだもので」
「い、いや別に……」
友里の容態に何かあったと思い込んでいたとはいえ、急に気恥ずかしくなって背を向ける。
樋口看護士も同じ気分だったらしく、頬を赤らめて俯いたままそれ以上何も言わない。ハンカチを取り出して汗を拭い、どこか落ち着きがない様子だ。
「それで……」
狭い密室空間に二人っきりというシチュエーションの所為か、ちらりと自分を見てくる視線と合ってしまい、将人はそっぽを向いて言葉を飲み込む。これ以上話しかけては余計に気まずくなるのではないかと思い、急いで追いかけてきた理由をきちんと訊こうにも自分から切りだすことを躊躇う。
妙に意識している視線を何度も間をおいて向けられてしまい、結局は黙り込むしかなかった。
――強引に連れ戻しておいて、いったい何だってんだよ!
友里のことが心配で苛立ち、気まずい雰囲気もあって将人はそわそわして落ち着きがない。階数を示すランプが6階に着くまで見上げながら髪を乱雑に掻き毟って気分を誤魔化す。
そして二人は少し離れてナースステーションを素通りし、通路を黙ったまま進んでいく。
樋口看護士が今もまだ落ち着かない様子なのはどうも違う理由が原因らしい。ナースステーションを通り過ぎようとした頃からまるで何かを恐れているかのように後ろをやたらと気にしている。
自分の前を歩く彼女は何に脅えているのかと将人には分からなかった。
一度ふり返ってみたもの、そこには誰の姿も見当たらない。通り過ぎたナースステーションの奥に一人の看護士の姿を見かけたもの、こちらに気がついた様子もなく書類と向き合っていた。
将人はどうかしたのかと尋ねようとしたもの、その樋口看護士に「病室に入ったら友里さんに声をかけてみてください」と真剣な眼差しで告げられると、その意図を理解したが為に何も言えなかった。
信じていいものかと半信半疑であったが、わざわざ追いかけてまで嘘を吐くとこも考えられないと思った。
――とりあえず行ってみれば分かるか……。
先程までの気恥ずかしさがすでに消え、友里に何か変化があったのかということだけが頭の中を占める。
しかし病室に入って声をかけてみたもの、友里の様子に何ら変化はない。無表情のまま天井をじっと眺めている。生気が感じられない瞳が動くことはなかった。
頬が少し痩せても肌の張りを損なっていない恋人の顔は事故前とほとんど変わっていない。一年近くも寝たっきりで、しかも食事ができない彼女は点滴で栄養を得ているにも拘らず、痩せ細らないことを将人は不思議だと思ってなかった。
「俺のこと、分かるか?」
目を覚ましてからは起きている間はずっと天井だけを見つめているその顔に、将人はもう一度声をかけてそっと頬に触れる。
体温を感じてもそれだけだ。何も反応を示すことはない。
「もっと友里さんの顔を見てあげてください。目の辺りを見て、何か気がつきませんか?」
傍から声をかけてきた樋口看護士に促されて将人は顔を寄せる。
病院を飛び出して追いかけてきたのだから何か変化でもあるのかと期待する反面、あとで落ち込むぐらいなら下手に期待するべきではないと気持ちが揺らぐ。
――だよな、さっき会ったばかりでそんな急に……。
ふと思いながらも言われるがまま目の辺りをじっと見た。
しかし、やはりというべきか、その瞳が自分の方へ動くことはない。つい今しがたまで自分はここに居たのだ。
ずっと友里の傍にいた。
まして目を覚ましてから数日が経った今も状態は変わっていない。自分だけは決して諦めないと心に誓っても、何処かでこれ以上の回復は望めないと決め込んでいるもう一人の自分が居る。
――だからあんな夢を見ちまったのか……。
夢の中で友里に《こんな姿になってもずっと傍にいてくれて本当にありがとう。嬉しかった。もう十分だから》と言われたのは、自分こそが楽になりたいが為に生み出した願望ではないのかと――。
それを彼女に言わせるのはなんて卑怯なことなのだろう。
――なのに俺は相沢さんに……。
そんな自分は取り乱していたとはいえ相沢看護士に酷いことを言ってしまった。今更ながらどう詫びていいものなのかと答えが見つからなかった。
せめて言われたことを真摯に受け止めるこそが謝罪であり、それが友里の為にもなる。僅か数秒の中で将人の脳裏に病室での出来事が浮かび、次々と移り変わってゆく。
――そうだよな、友里にあんな事をもう言わせるわけにいかねぇよな。相沢さんが言ったように現実を受け入れなきゃ、俺だけじゃなく友里も楽になれないもんな。
気持ちが自己嫌悪と落胆に染まりゆく中、友里の目尻に濡れたあとが将人の目に飛び込んでくる。相沢看護士に言われた通りに今後のことを考えるべきではと気持ちが大きく揺らぎかけていたところに、頬を撫でていた手が驚きのあまりにピタリと止まった。
将人は震える指先で濡れた肌に触れてみた。すると動かぬ瞳が潤みだし、一滴の涙が零れ落ちる。
「これって!?」
「ええ、そうです。友里さん、ちゃんと意識があったんですよ。でないと泣くことなんて出来っこないじゃないですか」
自分が見たものは勘違いなどではなかった。友里にはちゃんと意識がある。今まで声を掛けていた相手が誰なのかと分かり、気持ちを伝えようとする心も失っていない。
振り向いた先の頷いて答える樋口看護士の言葉に確証を得て、将人の驚いて固まった表情が綻んでいく。
この涙は幻などではなく現実であり、まだ諦めてはならないと思い留まるには十分すぎた。
「だったら――」
「はい、ですから一緒に頑張りましょうよ。あたし達、今後も精一杯お世話をさせて頂きますから」
優しさに満ちた眼差しが将人に注がれ、心の中に燻っていた何かが同時に弾けて消えた。
ボロボロと大粒の涙を流して嗚咽する青年は恥ずかしいと思わなかった。目の前に樋口看護士が居るのも憚らず、ベッドの友里に覆い被さるように抱きしめて「友里、友里っ!」と、恋人の名前を連呼する。
自分を病院の外にまで追いかけてくれた看護士が小声で「それじゃ失礼します」と出ていったことに気がついたのはしばらく時間が経ってからのことだった。