雫のあと
樋口看護士は何度も自分に問いかけた。もっと他に言い様があったのではないだろうかと――。
あれではただ自分の気持ちを一方的に押しつけただけみたいだ。将人の心情を酌んでいたのならば、彼を責めたてるような言い方を決してしなかっただろう。まして話を途中で遮られることもなかった筈だと樋口看護士は思いつめる。
相沢主任ですら話を聞いてもらえないのだから、自分のようなまだ半人前のナースが説得できるものではない。そもそも自分は割って入れる立場ではなかったのだ。
背を向けたまま病室から出ていく将人を、樋口看護士は黙って見送ることしかできなかった。
自己嫌悪と後悔だけが彼女の心にしこりとなって残り、傍にあるベッドの患者はただ天井だけを眺めて何も語らない。とはいえ誰かに今の心情を聞いてもらいたいと思いを抑えることが出来なかった。
「あたしじゃ、やっぱダメだった」
俯き加減に自虐的な笑みをこぼす樋口看護士の目に薄っすらと涙が滲む。
ここ数日、将人は相沢看護士を避け、顔を合わしても無視を決めこんでいた。そして相沢看護士もまた将人に対して不自然なまでに遠慮がちで自ら近寄ろうとせず、声をかけることすらも躊躇っている様子だった。
傍から見れば誰もが違和感を覚えるほどに二人は互いを敬遠しているのが否応なしに見てとれる。特に敵でも見るような敵意がこもった双眸で睨む将人の様子からして、何も知らない素振りを決めこみ、誰も本人達に理由を訊ねようとしない。
先輩の看護士達は理由を知らずともその様子で想像がつくからなのであろうか、二人の前では普段通りに振舞っている。但し、将人に対してはどこか遠慮がちだ。彼がいる間は極力病室には近寄ろうとしない。まるで時間が遡ったように将人と看護士達との間には深い溝があるかのようだ。
自分の失言がこの事態を招いてしまったと、樋口看護士が責任を感じてしまうのも無理はない。ただ、それ以上に相沢看護士の様子が心配でならなかった。
普段なら決してしないミスを犯し、朝の申し送りの際にしてもどこか上の空。自分の知っている主任からは想像し難い失態が樋口看護士には見るに耐えられなかった。
「こんな事になったのも、あの時にあたしが……」
すべては自分の迂闊な発言が招いた結果であるがゆえに、樋口看護士は己の過ちを痛感していた。
ならばこそ将人と相沢看護士との間に生じた溝を埋める責任がある。そう思って呼び止めたもの、再び心を閉ざした青年に今は何を言っても無駄に終わった。
自分は如何に無力なのかと自虐的な笑みをこぼし、樋口看護士は泣きたい衝動を堪える。
「ねぇ、友里さん。あたし、どうしたらいいんだろう」
ふと見つめた先の友里に樋口看護士は訊ねた。答えなど返ってこないと承知しながらも問いかけずにいられなかった。
救いを求める心が言わしめたのだろうか。彼女自身、何も分かっていない。
「あたしね、いつも失敗ばかりして、それで主任に怒られてばかりで。でもね、その後に励ましてくれるの。あと落ち込んだりした時には気をかけてくれたりとかしてくれるんだよ」
ただ聞いて欲しい。
その思いだけで言葉を紡ぐ。
「主任は厳しくて怖いけど、本当は優しい人なの。仕事ができて、みんなから信頼されてあたしの目標なんだ。だから主任が泣いているのを見たのがとても辛かった。何か力になりたいと思った。もちろん将人さんの気持ちは分かるよ。あたしだって友里さんには元気になってほしいから」
返事など求めていない。目の前の彼女は何も言えないことは十分に分かっている。今ここで泣いてしまうことだけが嫌だった。
これ以上憧れの女性が苦しんでいる姿を見るのが耐えられず、樋口看護士の独白は続く。
「――なのにこんな事になって、主任に申し訳なくて……」
答えなどいくら探しても見つからなかった。
もしも答えがあるとすれば、目の前の患者が元気な姿を取り戻すことだけ。しかしそれは叶わぬ願望であり、覆ることのない現実――。
それを分かっていながらも自分は相沢看護士と同じように今後も最善を尽くし、目の前の患者の回復を信じようと決めた。
目標であり、憧れの女性が信じているからという単純な理由だけではない。一年近くも毎日欠かさず病院へと訪れて恋人の回復を願う青年に応えられる方法がそれしかないと思ったからだ。
その結果、必要以上に将人を苦しめるだけかもしれないという恐れもある。相沢看護士が将人に近寄ろうとしなかった理由に先日のこと以外に何かあるとすれば十分に考えられることだ。
先ほどは勢いで自分達を信じて欲しいと言ったもの、今にしてみればまた迂闊なことを言っただけなのかもしれないと、樋口看護士の中でまた一つ不安がよぎる。
友里の回復を信じて看護を続けることは、彼の心を深く抉る行為に繋がってしまうのではないのか。自身への問いかけは、まさに出口がない迷路に飛び込んだも同じだった。
「ごめんなさい。友里さんにこんなこと言っても迷惑なだけですよね」
精一杯の笑顔を向けて樋口看護士は零れ落ちそうな涙を拭い、捲れた掛け布団を戻す。
以前の将人なら掛け忘れたりしない筈だ。それだけ彼が受けたショックは相当なもので、今もずっと引きずっているのではないかと樋口看護士は思う。
「これじゃ友里さんが風邪ひいちゃうのに、将人さんったら」
いつもの自分に早く戻ろうと、乱れてもいない友里の前髪を指先で器用に整えはじめた。
病院のベッドに寝ているとはいえ、女性からして気になる乱れ具合があったのだろう。
「ホント、男の人ってこういう事は鈍感なのよね。将人さんも自分の彼女なら気がついてあげたって……」
この際に鈍い青年の愚痴を代弁してやろうと思った樋口看護士の目に信じられないものが視界の片隅に映る。
声が詰まり、友里の目尻を確認した。何かで濡れたのか、雫のあとがある。
「これって……!?」
髪を整える手の動作を止めた樋口看護士の疑問が確信に変わる。
勢いよく病室を飛び出してナースステーションの前を横切ったのは間もなくのことだ。
「早く将人さんに知らせないと!」
走って息を乱す樋口看護士は焦っていた。
将人が駅に着く前にどうしても伝えなければならないことがある。急いで知らせなければならないと強迫観念に囚われた彼女はエレベーターの前に到着すると何度もボタンを押し続けた。
「早く、早く! お願い、早くきてよ!」
静かな病棟に到着階数を表示するランプを見上げる樋口看護士の焦った声と、騒々しいまでにボタンを手の平で強く叩く音が鳴り響く。
ナースステーションでは何事かと顔を覗かせている看護士達の視線を感じないのか、下の階から戻ってこないエレベーターに苛立って無意味にボタンを叩き続ける。
その為に背後から声をかけられても気がついていなかった。
「樋口さん、慌ててどうしたの? ちょっとどこ行くのよ。待ちなさい!」
エレベーターのドアが開くなり、呼び止める声に構わず乗り込んでしまう。
駆け寄ってくる相沢看護士の姿が締まるドアの向こうに消えていく中、樋口看護士は何も応えずに将人の後を追う。早く追いつかねばと気持ちばかりが焦り、ナース服姿のまま一心不乱に駅へと駆けていった。