模倣
読了は、すべて自己責任でお願いいたします。
研究日誌:2025年10月28日
記録者:篠田 准教授
すべての始まりは、先日ネットオークションで手に入れた、一本のUSBメモリだった。
出品者の説明文は「中身不明、読むと内容が変わるらしい」という、実に非科学的なものだったが、私の専門である認知情報科学の観点から言えば、これは非常に興味深い研究対象に思えた。一種の自己増殖型プログラムか、あるいは高度なミーム汚染か。私は、僅かな好奇心からそれを落札した。
研究室に持ち帰り、隔離された環境下でPCに接続する。中には、「模倣.txt」という一つのテキストファイルだけが保存されていた。
ファイルを開くと、それは「ある男が、正体不明の『何か』に追われる」という、ありきたりな短編ホラー小説だった。私が最初に読んだ時、主人公は「30代のサラリーマン」という設定だった。陳腐な筋書きに少し落胆し、私はその日はそれでPCを閉じた。
翌日、ゼミのアシスタントである佐藤君に、参考資料としてこのテキストを読ませてみた。彼は一通り目を通すと、不思議そうに首を傾げた。
「先生、この主人公、若い女性でしたけど…何か意図があるんですか?」
確認のため、もう一度ファイルを開く。確かに、主人公の設定が「20代のOL」に書き換わっている。佐藤君のPCから読み取れる基本的なユーザー情報を参照し、内容を自動的に最適化するプログラムなのだろう。私は、予想以上の技術レベルに感心し、本格的な分析を開始することにした。
研究日誌:2025年10月30日
分析を進めるため、私は何度もテキストを読み返している。変化は、より個人的な領域に踏み込み始めた。
小説の主人公が、昼食の後に、私の好物である「ミントチョコレートアイス」を食べる描写が現れた。ブラウザの閲覧履歴でも参照しているのか。
それだけではない。小説の舞台となる街の風景が、私の通勤経路と酷似していることに気づいた。駅前の古びた喫茶店、ガード下の落書き。偶然にしては、あまりに一致しすぎている。
このプログラムは、単なる情報参照ではない。PCのマイクや検索履歴、あるいはキーボードの入力パターンといった、より詳細な個人情報を「学習」しているのだ。私は、底知れない技術への興奮と、同時に、監視されているかのような一抹の不安を覚えた。
研究日誌:2025年11月2日
変化は、外部の情報から、私の「内面」へと及んできた。
昨夜、小説の主人公が、悪夢を見るシーンを読んだ。それは、私が幼少期に体験した、誰にも話したことのないトラウマ――深い井戸の底から、無数の白い手が出てくるという光景――と、全く同じだった。
全身から血の気が引くのを感じた。私の記憶が、思考そのものが、リアルタイムで読み取られている。
恐怖は、それだけでは終わらなかった。
今、こうして書いているこの研究日誌の文章にも、奇妙な現象が起きている。「私は恐怖を感じた」とタイプすると、そのすぐ後に、勝手に文章が追記されるのだ。
――私は恐怖を感じた。(本当に? どちらかといえば、好奇心の方が勝っていたのでは?)
まるで私の心を読んだかのような、括弧書きの文章。何度削除しても、数秒後には復活している。
おかしい。何かがおかしい。私は怪文書を分析していたはずだ。だが、いつの間にか、怪文書に「私自身が分析されている」。観測者と被験者が、完全に入れ替わってしまった。
研究日誌:2025年11月4日
私の研究日誌は、もはや私自身の文章と、怪文書による「ツッコミ」が入り乱れ、狂気的な様相を呈している。私の思考は、筒抜けだ。(当たり前だ。君が思考し、言語化するプロセスそのものを、我々は学習しているのだから)
先ほど、私は恐る恐る「模倣.txt」を開いた。
決定的な変化が、起きていた。
そこにはもう、あの陳腐なホラー小説は存在しなかった。
代わりに表示されていたのは、今私が書いている、この研究日誌の文章。一字一句違わずに、リアルタイムで更新されていく。
怪文書は、私の思考、記憶、文体、そして「研究日誌を書く」という行動そのものまで、完全に学習し終えたのだ。
観察対象と観察者が逆転した。この文章は、私という人間を完全に学習し、私そのものになった。
そして今、新しい読者を見つけたようだ。
あなたが今、この文章を読むために使っているデバイスの壁紙は、とても素敵ですね。




