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水底の囁き

作者: いかも真生

ご訪問ありがとうございます

※本作品は、能登半島地震で被災された方、特に現在も困難な状況にある方がお読みになる場合、精神的な負担を感じる可能性がございます

ご自身の体調を最優先し、無理のない範囲でお読みいただけますよう、心よりお願い申し上げます


※プロットを共有し、誤字脱字の確認や執筆の補助、構成の相談でGemini(AI)と協力しています

奥能登の夏は、湿度が高く、ねっとりと粘つくような暑さだった。

震災から半年以上が経つというのに、自宅の断水は解消されない。

配給の水と、なんとか営業を再開してくれている店で手に入れたボトル水で凌ぐ日々だ。

だが、それも限界だった。

地震で中規模半壊だった家は、続く記録的な豪雨で大規模半壊の認定を受けた。

両親は年末旅行からずっと不在だから無事だったけれど、一人残された私は、この半壊した家で、終わりなき渇きに苛まれている。

自宅の落ちた瓦や割れた窓ガラスを片付け。

土砂を掻き出し。

壊れた家具などを運び出す。

汗や泥にまみれるも、断水のため満足に手洗いが出来ないから、掌が常に粘ついている気がする。

風呂なんてもってのほか。

髪が汗と脂でペッタリと肌に貼りつき鬱陶しい。

身体も清拭だけでは不快感が拭えず、シャワーを浴びたいと、何度夢に見たことか。

夢の中で存分に浴びれる水の感触は、いつも覚醒とともに渇いた現実を叩きつけてくる。

洗濯物もある程度溜まってから遠くのコインランドリーまで向かい、待ち時間で時間を消費していく日々。

遠出のついでに営業している銭湯へ赴いたりもするが、使用時間が決められているのでゆっくりは出来ない。

脱衣から髪や身体を洗い、ドライヤーまでで入浴なしでも時間がカツカツである。

食事をする気力も失せていく。

皿を洗えないという現実が、喉の渇き以上に食欲を奪った。

お弁当などを買ったところで容器を洗えないので、暑さで臭いがたってくることが苦痛であると予想出来るため、手が伸びない。

そして、何より辛いのはトイレだ。

井戸水を汲んでタンクに入れるという複数回繰り返す必要がある重労働を減らすため、私は意識的に水分補給を控えるようになっていた。

気がつけば肌はカサつき、唇はひび割れて血が滲んでいる。


その夜、私は喉の渇きで目を覚ました。

体中の水分が蒸発してしまったかのように、口の中がカラカラだ。

微睡みの中、微かな水音が聞こえた気がした。

ポタ、ポタ、ポタポタ……

どこかから水が滴る音。

耳鳴りか、と意識しないように努めれば、その音は次第に大きくなり、静かな夜の帳のなかでさざ波のような音へと変わっていく。

まさか、と起き上がり、家のなかを見て回ったが家の中にそんな音源になるようなものはない。

我が家は海岸線からも遠く、波の音が届くはずもない。

幻聴か、疲労から来るものだろうか。

そう自分に言い聞かせたが、一度認識してしまったその水音は、耳から離れることはかった。

翌日も、翌々日も、その水音は続く。

昼間は生活音や周囲の工事音などで気にならなかったが、夜、特に就寝が近付くとその存在を主張し始めるかのように次第に鮮明になっていく。

まるで我が家のどこかで、常に水が流れているかのように。

それは私の渇ききった精神に、囁くような誘惑を投げかけているかのようだった。

それと同時に、奇妙な幻影が見えるようにもなった。

それは決まって半壊したままの風呂場で起こる。

配管が壊れているから元栓を閉めたので水など出るはずもないのに、浴槽の底に、うっすらと水が溜まっているように見えるのだ。

薄暗い淀んだ水で、光を反射することもない。

触れようと手を伸ばしても、そこにあるのは冷たい浴槽のツルツルとした表面だけだった。

それでも「水がある」という幻影は、渇ききった私を強く惹きつけた。

幻覚だと理解っていても、その水を目にした途端、足が縫い付けられたかのようにその場から動けなくなるのだ。


両親はまだ戻らない。

旅行先から私を心配して連絡はくれるものの。

私が体験しているこの奇妙な現象を伝える気にはならなかった。

心配させることは分かっていたし、きっと誰にも信じてはもらえないことも理解していた。

最悪、精神科の受診を勧められるだろうことも。

それが分かっていて友人や他の誰かに相談する気力も湧かない。

ただ独り、私は幻聴と幻影に囚われていった。

外を照らす太陽がやけに白く、熱く感じる。

近所の人達やボランティアの方々の声が遠く聞こえる。

まるで、私の日常に水が侵食してきたようだった。


幻影の水は日増しに増えていく。

最初は浴槽の底だけだったそれは、日に日に水位を上げ。

やがて浴槽から溢れ出し、風呂場の床全体を浸すほどになった。

水面を覗けば薄暗く、ぼんやりと私の顔が映る。

だが、その奥には、形容しがたい不気味な影が蠢いている。

それは泡のように浮かんでは消え、時には手のような形で私を招いているようにも見えた。

そして、水音の幻聴は、まるで水の中から聞こえるような、遠く囁く“声“へと変貌していった。


─こちらへ…水に…─


その声は、私の渇きを直接煽るように囁き続けた。

まるで私の奥底から湧き出でるの渇望が、音となって響いているかのように。

猛暑の断水という絶望的な状況下で、唯一“水“という希望を約束するもの。

幻だと分かっていても、私はその誘惑に抗えなくなっていた。

給水所へ通う気力はとうに失せ、手元のわずかな備蓄水にも手が伸びない。

喉がヒリつく程に渇いていても、もうそれらで渇きを癒す気にはなれなかった。

ただひたすらに、風呂場の幻影の水だけを求める日々。

その水だけが私の唯一であるように。

私にとって、現実の全てが霞み、思考は“水“で満たされていった。


そして、その日は来た。


喉の渇きが限界を超え、視界が歪む。

後頭部が、脳が直接絞られるような痛みを訴えてくる。

目の奥が熱く、流れる血潮が見えるかのようだ。

ザーッと、勢い良く水の流れる音が聞こえる。

誘われるように、私は半壊した自宅の風呂場へと向かう。

ドアを開いたそこには、現実にはありえないはずの、満々と水を湛えた浴槽が広がっていた。

水面は薄暗く、底は見えない。

その水面から誘うような“声“が、より鮮明に聞こえる。


─さあ…ここへ…この水へ…─


私は渇きに駆られ、憔悴しきった表情でその水面へ手を伸ばした。伸ばしてしまった。

ひんやりとした水面を指先がとらえた瞬間、私の意識は深い水底へと引きずり込まれ。

身体が水に溶けていくかのような脱力感と、肌の表面が粟立つような不思議な浮遊感。

この数ヵ月間、渇望し続けてきた“水“が私を包み込んだ。

同時に、底知れない恐怖が私を揺さぶる。

声が笑う。高らかに。

ケタケタと。

“水“は、私を呑み込んでいた。



数日後、旅行から戻った両親は、変わり果てた自宅と、そこから消えた娘の姿に愕然としたことだろう。

大規模半壊の自宅をどれだけ探しても、私は見つからない。

警察の捜査が入ったが、何の痕跡も見つからず、失踪事件として処理された。

存在しなくなった私を、両親はずっと探し続けるだろう。

風呂場には、幻影の水はもちろん、一切の水滴すら残されていない。

配管も壊れたまま、元栓が閉まっているため、水が流れた形跡はどこにもなかったようだ。

ただ、その場所からかすかに、水が流れるような微かな音が聞こえるだけだった。

まるで、誰かがずっと、そこで待ち続けているように。

幻聴かと耳を澄ませれば、やがてそれは囁きにも似た音に変わるだろう。



それは、異界の水と一体となった私が

次に渇きに苦しむ者を水底へと誘う

終わりのない囁きなのかもしれない


ご一読いただき、感謝いたします

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