第一部 prologue モラトリアムの終わり
春の朝の肌寒い空気の中。
「東哉、起きなさい!」
「う…ん~」
莉奈が呼びかけるが、俺は暖かな布団に誘われさらに深い眠りへと突き進む。
「……いっつもいつも手をわずらわせて、いい加減起きなさいっ!」
莉奈は俺が丸まっている布団の端を掴むと、全力で引っ張る。
俺は力の勢いのまま、ベットの外に放り出される。
“ズドン!!”
「グフッ」
凄まじい音をたてて背中から落ちた俺はあまりの痛みに悶絶し、動けないでいた。
「目は覚めた?」
「…覚めたに決まってるだろ…ウエッ気持ち悪っ」
何とか頭だけ上げるとそこには、俺のことをを笑顔で見下ろしている莉奈の姿があった。
胸元まである少し栗色がかった髪、細身で同年代の女子と比べると少し高めの身長。
彼女の名前は篠崎 莉奈。
俺、船津 東哉とは苗字が違う所で気付くだろうけど、俺達は血の繋がりはない。
だけど俺にとって大切な家族だ。
…まあ、それ以上の想いがない訳じゃない。
そんな事を考えながら俺がじっと見ていると、莉奈が視線に気付いたのかいいたげに口を尖らせる。
「何よ、どうしたの?私の顔に何かついてる?」
「えっ、いや別に何でもない」
顔が赤くなるのを感じながら慌てて応えると、莉奈は俺を不思議そうに見ていた。
いつも言われるけど、やっぱり奇妙に見えるんだろうなぁ。
「ん~?まぁ、いいや。いつもの事だし。それじゃ、早く下に降りて来てね」
「あぁ、すぐ行くよ」
恥ずかしさを隠す為にわざと素っ気なく返す俺の返事に気にする事なく莉奈は部屋を出て行った。
トントントントン、と階段を降りる音を聞いてから俺は身体を起こした。
「…今日も一日頑張りますか」
莉奈の言葉に僅かな心の傷を負いつつ、身仕度を終わらせ俺は部屋を出た。
ダイニングに入ると既に父さんと母さん、莉奈がテーブルに着いていて、朝食を食べていた。
父さんと母さんはともかく、莉奈ぐらいは待ってて欲しい。
「おはよう。父さん、母さん」
「ん、おはよう東哉」
「おはよう。東哉、コーヒー飲む?」
「うん。お願い」
いつもの会話をしながら自分の席に着いて朝食を食べ始める。
テーブルの上に並ぶトーストをすぐに口にほうばと、口に広がるバターの甘みが頭を覚醒させるようで心地よい。
「東哉、最近学校はどうだ?」
何も話すこともなくトーストをコーヒーで流し込んでいると、父さんが俺に聞いてきた。
「可もなく不可もなく、かな。いつも通りだよ」
「お前はいつ聞いてもそれだな。16なのに枯れてやしないか?」
父さんの質問に苦笑を返し残りを食べ終える。俺は席を立ち、カフェオレを飲んでいる莉奈に声をかける。
「ごちそうさま。それじゃ莉奈、行こう」
「うん。父さん、母さん行ってきます」
俺と莉奈は鞄を持つと玄関へと向かった。
俺達の家は高見原の北西にある山『行縢』。その山を望む農耕地の近くにある。
ここは高見原の都市開発の初期に作られた住宅街らしい。
俺達はその住宅街を抜ける『いつもの』通学路を通り学校に向かって歩いている。
他の都市から比べて異常に多いと言われている森の緑を見上げながら歩いていると莉奈が聞いてきた。
「ねえ、東哉。今日は学校午前中で終わるけど何か予定ある?」
「ん、今のところは何も入ってないけど?」
「それじゃ買い物に付き合ってくれない?」
「いいけど何を買うんだ?」
俺がそう聞くと莉奈は笑ってごまかし、急に走り出した。
「ふふっ、秘密。ほら早く行こ!」
「…まぁいいか」
振り返り笑っている莉奈を見た俺は、しょうがないかと自分を無理矢理納得させて追いかける。
森の木々の透き間から漏れる青空が清々しさを醸し出していた。
これが俺と莉奈の、いつもの日々。
歩いて20分程で俺達の高校『私立高見原学園』。
森が開けた場所に建てられた私立学園。
二階にある教室に着くと、既に来ていた浩二が俺達に話しかけてきた。
「おはよ、今日も二人で仲良く登校か」
「おはよう。あぁ、うらやましいか?」
いつものように返すと、今回は続きが違った。
いつになく浩二が真面目な顔になるとふざけた事を言い出す。
「なぁ莉奈ちゃん、こいつほっといて俺と登校しない?」
「え?いや、それは、」
「いいじゃん。何ならいっそのこと俺の家に住ん……へっ?」
俺は浩二の頭を掴むと、そのまま握り潰さんとばかりに力を加える。
ちなみに俺の握力は70オーバー、林檎を砕けます。
「ぐぉぉぉ!冗談、東哉冗談だって!って目が笑ってない!?」
「余裕があるじゃないか浩二、地獄か天国か選べ。」
頭蓋骨の軋む様な音が聞こえたが、俺は気にせずさらに力をこめてゆく。
俺の気持ちを知ってて言う奴に情けはいらないよな、うん。
「ぐぁあっ、ちょっ東哉マジでイダダダダ、頭から変な音が!?」
「東哉、そろそろやめないと危ないよ?」
声をかけてきた方に目をやると細い眼鏡を掛けた友人の一人、香住屋斎が呆れる様に脱力していた。
「…ちっ。」
「っつ~、香住屋サンキュー清々しい朝がドロドロのスプラッタになるところだった。ったく、お前本気で俺を殺す気かよ!?」
斎の声に渋々手を離すと浩二は頭をさすりながら俺に怒鳴った。
しかし、それは流してすまし顔で言ってやる。
「本気と書いてマジと読むがそれが?」
「うっ…てっめ」
「朝からなにやってるの~?」
俺が睨んで浩二が怯んでいると後ろの方から間延びした声がした。
そこには長い黒髪柔らかな笑顔をした蒼羽 天子がいた。
「あぁ、浩二が莉奈を汚い目で見ていたから握り潰そうと」
「おぃ!それは言い過ぎだ…」
「黙れ、変質者予備軍」
俺が再度睨み黙らせると天子が浩二に言い聞かせるように言った。
「浩二君、東哉君に莉奈ちゃんのことでからかったら駄目だよ~。いつもそれで痛い目を見てるんだから」
「う…」
天子に叱られるとポヤポヤした見た目に間延びした話し方もあいまって、誰も反論出来ない。
浩二もまるで母親に怒られた子供みたいに肩を落として小さくなっている。
どうやら罪悪感が胸を突いているらしい、良い気味だ。
「東哉、もういいって。何とも思ってないし」
「莉奈…そうだな。浩二ごめん、やり過ぎた」
「いや、俺もすまん。…何とも思ってないって…ヒデェ」
最後辺りはよく聞こえなかったが、どうやら莉奈がトドメを刺したらしい。
南無。
学校が終わり莉奈の長い買い物に付き合っていると、帰る頃には夕方になっていた。
何を話すでもなく歩いていると、建設途中のビルの工事現場を通りかかったとき莉奈が急に足を止め俺の方に振り返った。
「東哉、今日はありがとね」
「あぁ、それにしても結構な数の店を回ったな」
「うん、色々見たかったから。ごめんねこんなに付き合わせて」
「いや、それは別にいいんだけど…これは買い過ぎじゃないか?」
学校が終わってから数時間かかって買った量は物凄く、それを持っている俺の両腕は悲鳴をあげていた。
しかし振り返った彼女はとても可愛くて、とても嬉しそうな顔は腕の痛みを忘れさせた。
「ふふっ、頑張ってね男の子。家はもうすぐだよ」
そう言って莉奈は歩き出し、先を行く。
俺も気合いを入れ直して歩き出そうとした時、急に強い風が吹いた。
「うぉっ」
風に舞うゴミに驚き目を閉じて耐えていると、上の方から嫌な音が聞こえた。
何か硬い物を無理矢理引きちぎる様な音。
今思えば、それは俺と莉奈との運命の糸が切れる音だったのかもしれない。
音のした方を見ると鉄骨を支えていたワイヤーが切れ、支えを失った鉄骨が莉奈へと落ちろうとしていた。
「莉奈、上っ!!」
俺は荷物を捨てて莉奈へと走る。
莉奈はワイヤーが切れたのを気付いていなかったのか、俺の声を聞いてから反応したため逃げ出すには遅すぎた。
そして俺も初動が遅れ、莉奈と離れていたせいで時間が足りなかった。
そして…
“ズドンッ”
鉄骨が地面に落ち、衝撃と音が俺を襲うがそんなことはどうでもよかった。
確かに鉄骨は莉奈へと落ちたはずなのに、俺の目の前には現実ではありえない光景があった。
莉奈の周囲の鉄骨だけが粉々になっていて莉奈を避けるように落ちていた。
「…莉、奈?」
「あっ…」
俺は何があったか認識出来ず頭が混乱しながらも莉奈に声をかける。
莉奈は手を上げながら身体を震わし、何かに恐怖する様に俺の方を見ていた。
「東…哉」
莉奈は俺の名前を呼びながら縋るように手を伸した。
だが、まだ状況が整理仕切れていない俺はその手に反応するのが遅れる。
そして、その少しの遅れが致命的なものになってしまった。
「っ……」
莉奈はこちらに伸ばしていた手を下ろす。
苦痛に堪えるように表情が歪んでいて、今にも泣き出しそうだった。
「東哉、ごめんね…」
それだけを言うと莉奈は俺に背を向けて走り出した。
何が起きているのか分からず呆然としている俺は、ただその小さくなる姿をと見つめていた…。