77.神話
小鳥のさえずりに混じり、彼女たちの談笑が聞こえてくる。
アイギスは屋敷の裏庭で体を縮こまらせていた。彼にとってはこの程度の寒さなど、屋内だろうが屋外だろうが関係はない。壁も暖炉も絨毯も、彼には必要ない。クリードたちが朝食を分けてくれたので、特に腹が減っている訳でもない。
それでもアイギスの尾は恨めしげに自身の体の上で羽を休める鳥たちを追い払った。
「やあ。おはよう、アイギス」
そんな彼に呼びかける声はやけに呑気に聞こえた。
「……ユーヒに用があるのか」
うっすらと目を開けたアイギスの隣へ腰を下ろした青年は首を横に振って笑う。
「いや。僕はしばらく彼女たちとは会えない。今日は君に用があるんだ」
「……ユーヒは、お前に会いたがってる。どこへ行く気だ」
「西へ。神域の向こう側に」
アイギスの体の上から追い出された鳥たちは伸ばされた青年の腕に止まった。首を傾げる鳥たちに彼も首を傾げ返す。
「今でないと、ダメなのか」
「ユウヒの体は『シャレム・エストリンド』のものだ。『シャレム・エストリンド』の体は君と同様に先祖返りと言って、血に刻まれた古い力が色濃く出ている。だからこそ彼女の血は『神殺し』としての効果がより高かった。そしてその特別な力の代償として、先祖返りした人間は短命の兆候にある。『シャレム・エストリンド』の両親が彼女へ過剰とも呼べる愛情を注いでいたのはそのためだ」
「……ソレをどうにかするために、行くのか」
彼は頷いた。
伏せられた双眸は紅をまとう。
「僕はあくまで、過去へ戻った僕の体が魔術を扱えるようになってからでなければ、事象へ干渉することができなかった。『シャレム・エストリンド』の先祖返りを止めることも、要因を探ることもできない。今すぐに『シャレム・エストリンド』が『神殺し』として覚醒した理由を探りに発たなければ、確実に後手へ回ってしまう。ユウヒの身に何かあってからでは遅い」
「ユーヒは危ないのか……?」
「ユウヒに魔術の才能が皆無なことが幸いして、先祖返りの影響はかなり抑えられてはいる。けれど、完全に抑制はできない。今すぐに命の危険はない。でも、数年後は分からない。この先の未来は、アロガントも、僕も、誰も知らない」
「……ユーヒには伝えないのか」
「目の前にある明確な命の危機よりも、目に見えない不鮮明な命の危機の方が恐怖心を煽るものだ。対処の仕方が分からないからどうしようもない。伝えてしまうと彼女の負担になる。彼女はただでさえ、色々なものを我慢しているからね」
「……わかった。聞かなかったことにしといてやる」
「ありがとう、アイギス」
彼は顔を上げる。
白いまたたきを宿していた白髪は元に戻っていた。紅の瞳を除けば、初めて会った時と変わりない人間の青年に見える。
「次に、君のことだ」
「……この体から戻れなくなった」
「アロガントから戻る方法を教わらなかったかい」
「完璧な己を想像して創り直せと言われた。意味が分からない」
「彼は相変わらずのようだ。では、僕の言う通りにしてみて……」
鳥が一斉に飛び立った。
立ち上がった彼はアイギスの正面で微笑む。
「まずは目を閉じよう。深呼吸して体の力を抜いて。四肢を意識しないように」
「……お前がいると難しい」
「君から見て僕はそんなにお茶目なのかい? 驚かしたりしないさ。次に、目の前にユウヒがいると思って……」
「…………」
「君はユウヒと話している。でも今の姿だと話しにくいだろう? 小さなユウヒは見えにくいし、君は彼女たちと一緒にテーブルを囲むこともできない」
「…………ん」
「君がユウヒたちと一緒に過ごすなら『アイギス』の姿が望ましいんじゃないかな……?」
「…………」
彼の言う通りだ。
彼女は小さい上にちょこまかと動いて物陰にいたら分からない。壁も暖炉も絨毯も、この体には必要ない。でも、彼女には必要だ。クリードに椅子へ座れと言われても座れない。だから、収まる程度の大きさが良い。
そう。『アイギス』くらいがちょうどいいのだ。
「……戻った」
「うーん……。ユウヒの目線に合わせ過ぎて前より小さくなっていやしないかい? あと服も着ておかないとクリードに怒られるかもしれない」
「…………」
アイギスは青年に見下されていた。
理由は定かでないが、ちょっと腹が立った。
「戻った」
「ああ。もう大丈夫そうだね」
なので、もう一度目を閉じて『アイギス』を思い出した。ついでにクリードから怒られたくもないのでいつもの服を着ていることにした。
自身の手のひらを眺めるアイギスに彼は頷く。
「もうひとつ。君へ伝えておきたいことがある」
アイギスは彼へ向き直った。
「世界というものは可能性の枝葉に別れている。君が『アイギス』として生きる世界だけでなく、君が『12番』として生きた世界もどこかで存在しているだろう。それはユウヒが越えてきた狭間と呼ばれる時限の壁に隔たれていて、基本的に交わることはない。交わることはないけど、少しずつ影響し合っている。僕らの世界とユウヒの世界に共通点がいくつもあるように。ほんの僅かな間でも存在した世界は、今の僕らの世界に影響を及ぼす。少しずつ、でも重なればその影響も大きくなる」
「俺は頭が良くない。もっと簡単に話せ……」
顔をしかめアイギスは唸った。
青年は口元をおさえて笑っている。
「要はね、アイギス。君は僕が繰り返してきた世界で『12番』として何度もユウヒを殺してきた。その『12番』が『アイギス』に影響を及ぼす可能性がある」
「……俺はユーヒを殺さない」
「実際にユウヒは別世界の『アマバユウヒ』の影響を強く受けている。僕が何度も長い間、接触を続けてしまったのも原因だろう。彼女は初対面のはずであるクリードや君のことを見覚えのある顔として認識してしまっていた。サヘルやラーストーに対する警戒心も薄くなり過ぎている。自分の命を奪った僕に対して、怒りよりも他の感情が優先されるのはどう考えてもおかしい」
「…………」
アイギスは彼の言葉に口を挟もうとしたが止めた。
自分の考えに自信がなかった。彼が彼女をそう評しているのならそうなのかもしれないと思った。
「特に君が気を失っている間に臣下や民を説き伏せた時は、さすがのユウヒも違和感を覚えていた。それらの事象は、全て別世界の『アマバユウヒ』がすでに経験したことを彼女が追体験しているからだ。おかげで彼女は命を永らえている。でも、君の場合。別世界の君から影響を受けると言うことは、ユウヒに害を及ぼす危険性が上がるに等しい」
「……なら、どうして俺を生かしている」
「ユウヒの運命を、君が変えたからだ」
アイギスの問いへ彼は自身の手を眺めて答えた。
彼の手には瞬きの間、鋭く長い爪が現れ、すぐに消える。
「僕にできなかったことを、君は成してみせた」
「それはお前が裏で手を回していたからであって、俺がアイツの運命とやらを変えてやったんじゃない」
「それはクリードやサヘル、スロースにも言えたことだ。僕を含め、彼らにはユウヒ以外にも守らなければならないものがあって、ユウヒを最優先にはできなかった。彼女自身も自分より他人を優先しがちで守りきれない。だから僕は探していたんだ。常に彼女の側にいて、彼女を守ってくれる存在を……。何より、ユウヒは君を助けることを選んで、君はそれに応えてくれた。僕は彼女と、君が得たその可能性を信じると決めている」
「……今日はやけにおしゃべりだな」
「隠し事をする必要もなくなった。君には小言のひとつやふたつ言っておかないとね」
苦笑して、彼は続けた。
「安心するといい。君が座っているのは僕が座るはずだった席ではなく、間違いなく君自身に用意された席だ。僕には僕の席がある。彼女たちの側に座れなかったとしても、やれることはたくさんあるみたいだよ」
「始めから、その気だった訳じゃないだろう」
「僕は結果的にこの体を得て良かったと思っている。まぁ、まだしっくりこないけれど……」
「……お前は嘘つきだ」
「まあまあ。そう言うことにしておいてくれ」
アイギスは眉を寄せた。
青年の視線の先には白い稜線がある。青い空との境界は遠く、霞んでいた。
「『シャレム・エストリンド』の寿命を延ばさなければ、必然的にエストロランドまで統治者不在になってしまい、フロスト家も同盟相手を失うことになる。フロスト家の影響力が弱まれば、リュシオンの侵攻を日和見していた勢力が動き出す。『シャレム・エストリンド』を死なす訳にはいかない」
「いつ帰ってくる」
「分からない。神域の向こう、神の国がどうなっているのかはアロガントだけが知っている。そのアロガントも神域からやって来たのはこの大陸の歴史が始まる頃だ。アロガントの知識が通用しない可能性もある。なるべく早く戻るようには務めるけれど、明確な返答はできない。君にだけ会いに来たのもそのためだ」
「ユーヒは、お前に……。ケテル・ミトロンに会いたがってる」
「大丈夫。必ず帰ってくるよ。……約束したのだから」
ケテルは目を細めた。
彼は家の裏手に視線を向ける。
アイギスもその視線を追う。
「ユウヒが君を呼んでいる」
ケテルはアイギスへ彼の名を呼ぶ声のする方向を示した。
ためらいながらも、アイギスは雪を蹴って一歩を踏み出す。先ほどまで何ともなかった氷の粒がやけに重く感じた。
「……ユーヒと待ってる」
「ああ。また会おう」
振り返るアイギスへ彼は晴れやかに微笑み、軽く手を振る。
「君たちの旅路が幸多からんことを」
「は……?」
「ひとつくらいは神様らしいことをしておかないとね」
「…………」
強い風がふきつけて、アイギスは目を閉ざす。
再び開いたアイギスの足元には大きな風切り羽がひとつ、落ちていた。摘まみ上げるとそれは不思議と暖かい。
アイギスは冬の澄んだ青空を見上げた。逆光に融けながら、白く輝く翼を羽ばたかせ陰が横切っていく。
彼女が名前を呼んでいる。
雪をかき分け、アイギスは声の主の元へと向かう。そうしてアイギスは彼女の名前を呼び返した。




