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75.竜は未だ踊る

 名前を呼ばれている。

 結局、いったい自分はどちらなのだろうか。『天羽優陽』で在りたいものの、そのために『シャレム・エストリンド』を無かったことにはできなかった。

『シャレム・エストリンド』だって死にたくて死んだ訳では無い。故意でないとは言え、『天羽優陽』は彼女の人生を盗んでしまった。

 その事実を忘れて彼女になり変わっていたとしたら、『天羽優陽』は実質、死んでいる。


「ユーヒ…………ユーヒ…………」

「……アイギス?」


 自分の周りを何かが動き回っている。重いまぶたを開けると、丸い月が遠くに浮かんでいた。


「起き上がれそうかい……?」


 視界の外から別の声も聞こえる。

 首を動かしたくとも指先を動かすのが精々だった。


「……ケテル、怪我は?」

「僕は大丈夫。アイギスが助けてくれたからね」


 呆然と夜空を見上げることしかできない優陽の視界が黒い影に覆われる。近づいてきたそれは3つ連なった瞳を瞬き、鼻先で優陽の肩へ触れた。


「ユーヒ。ユーヒ、ユーヒ……」

「……アイギス、どうしたの?」


 まるでオウムが同じ言葉を繰り返しているようだ。

 優陽は痛む頭で気を失う間際の記憶を思い出そうと歯を食いしばる。


「心配はいらない。アロガントの加護があればそれ以上、竜や魔族の血に侵されることはないだろう。呪いから助け出した君が意識を失っていたから、気が動転しているだけだ。しばらくすれば『アイギス』に戻るよ」

「のろい……?」


 飛び散った鮮血が脳裏を過る。穴の中へどんどん落ちていった。彼の声が聞こえて、自分はそれに応えた。

 声のする方へやっとの思いで寝返りをうつと、暗がりに立つ影が少しだけ見えた。


「でも、気を付けなければならない。彼と言う存在は不安定だ。人間と竜と、魔族の血が、アロガントの加護を受けて辛うじて均衡を保っている。彼が『人間』として在ることを放棄すればその均衡は崩れてしまう」

「ごめん……。ケテルの言いたいことが、わからない……」

「彼は『人間』であることに執着がない。君を守るためなら、自分が竜でも魔族でも構わないと思っていることだろう。その一線を越えてしまえば、アロガントでも彼を『人間』に戻すことはできない」

「前みたいに暴れちゃうの……?」


 霞む目を凝らすと、こちらを見下ろす彼はやけに大きく見えた。

 人間には在るはずのない翼や角があって、やけに長い手足からは白い羽毛がところどころ抜け落ちている。

 赤い瞳が暗がりで横に、縦にとゆっくりと瞬いた。


「それは僕にも分からない。姿形が変わるだけでこれまでと変わらずに意思疎通ができるかもしれないし、姿形も人格も変わって君と会話もできなくなるかもしれない」

「どうすればいいの……?」

「君が望めば彼は『アイギス』のままだよ、ユウヒ。君が彼を引き留めてあげれば良い」

「……ケテルは?」


 体を持ち上げようとしてもびくともしない。首を向けるのが精々。


「僕はもう戻れない」


 彼の声は悲観的とは言い難く、恐ろしいほどいつも通りの彼だった。


「ユウヒ。僕はあのまま『人間』として死ぬはずだった。でも、君がスロースからまじないを預かって、アイギスが君を追いかけて……。君が僕の手を離さなかったことで、助けられた僕は『人間』の枠を越えてしまった」

「……私のせい?」

「それは違う」


 震える声を彼は即座に否定する。


「僕の『人間』としての体はすでに限界が近かった。白竜やアロガントの力を何度も使っていたせいで、竜の心臓を取り込んだ体が、逆に竜の心臓に取り込まれかけていた。『神』の呪いを克服した事実がそこに上書きされてしまったことで、さらに体が神格に近い存在へ寄った……。コレは成り行きだ。君にはどうしようもできない」

「でも、ケテルがそうしないといけなかったのは……」

「僕が僕の意思で決めたことだ。僕はこの地に『国』を遺したかった。さら地にされては国は造れない。僕はどうしても、君から聞いた君の『国』を僕の目で見たかった。……それだけなんだ、ユウヒ」


 彼は言葉を切って小さく頷く。


「もう僕の手でそれを叶えることはできないけれど、サヘルやクリードがあの頃のように過ごせる国を目指して頑張ってくれるだろう。僕はその、手伝いくらいはまだできる。それが唯一、今の僕にできる君への責任の取り方だ」

「…………」


 長い手足が引きずるように向きを変えた。

 

「少しすればクリードたちがアイギスを追って迎えに来てくれる。そこで待っているんだよ」

「ケテルは……? どこに行くの……?」

「『ケテル・ミトロン』は生きていてはいけない。僕はリュシオンを離れるよ」

「……やだ」

「…………」

 

 地面を引きずる音が止んで、少し遠のいた影が長い首をゆっくりと持ち上げた。

 優陽は冷たい地面に爪を立てる。指先の感覚はほとんどない。


「自分は、ハピエン厨なので……。そんなの……ハピエン厨には、とても受け入れ難いんですけど……」

「……ユウヒ」


 血の味がする。それでも歯を食いしばってしまう。


「君は僕の運命を変えてくれたのに、僕は君の運命を変えられなかった」

「違う……。それは、ちがう……」

「僕は君の人生を僕の身勝手で歪めてしまった。それでも、君が君の運命を変えてくれる存在と出会えたのであれば、僕はこのエンディングがハッピーエンドと言うものなのだと思う」

「絶許……。解釈違い……。ケテルのばか……。顔だけプリンス……」

「アマバユウヒ」


 嗚咽を漏らして腕に顔を押し付けていると、柔らかな羽先が頬をくすぐった。


「ありがとう。本当に」

 

 紛れもなくケテル・ミトロンの声で、その大きな陰は彼女へ告げた。


「さようなら」


 初めて聞いた別れの挨拶を、優陽は受け入れてやることができなかった。


「やだ……。いやだ…………」


 何をどうすれば一番良いのか。考える余裕はなかった。ただ、素直に受け入れるのが嫌だった。

 まだ諦めたくなかった。まだどうにかなるはず。なってほしい。

 優陽は苦し紛れに声を絞り出した。

 

「……またね、ケテル」

「……ああ、また会おう。ユウヒ」


 背中が振り返る。

 不意に、優陽の眼前を鋭い爪が地面を抉った。低い唸り声は優陽の名を繰り返す。

 

「ユーヒ……? いたいのか……? くるしいのか……? アレを、ころすのか……?」


 長い尾がしなり、辺りの茂みをなぎ倒す。連なった目が暗がりに浮かぶケテルの姿を凝視する。

 優陽は息を呑んだ。全てをなかったことにはできない。彼がしてきたことも。彼が背負うはずだった責務も。『天羽優陽』が『シャレム・エストリンド』であることも。

 優陽は這いずって、腕を伸ばして、アイギスの足へと触れた。その足はケテルを覆っていた柔らかな羽毛とは違い、硬くざらざらとしていて冷たい。


「大丈夫だよ、アイギス。もう誰も殺さなくて良いんだよ……」


 唸り声は止み、力んでいた四肢から力が抜けていく。


「疲れたから、ねむくなっちゃったんだ……。アイギスも疲れたよね……」

「……そうか。やすむのか」

 

 アイギスの尾はしなるのをやめた。

 優陽が体を小さくするとアイギスは穴だらけの羽で彼女を覆った。冷たい風がだいぶマシになって、優陽のまぶたは言葉通り重くなる。


「おれもユーヒと、ねる……」

「うん、おやすみ。アイギス……」


 アイギスの体が丸くなり、3つの目が優陽の前でまぶたを閉ざす。優陽はアイギスの体を撫でながらまどろんだ。

 彼女の視界の隅で、暗がりに溶けていく影がある。


「おやすみ、ケテル」


 またね。

 声にならなかった言葉が彼に届くことを願いながら、優陽はまぶたを閉ざした。

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