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74.天日

 親の顔は知らない。知ったところで何かが変わる訳でもない。

 名前はない。ソレとか、アレとか。しばらくすると数字で呼ばれるようになっていた。

 

「その血に流れる罪を贖えば、神はあなたに自由を与えてくださるでしょう」


 耳にまとわりつくようなねっとりとした女の言葉を、少年はいつも聞き流していた。

 その神様とやらは、彼の手によって死んでいく者たちが虫の息で懇願しても、一度も彼の前に現れたことはない。『罪』を重ねる自分の背中を押すそれを信じたところで、何も変わらないことを物心ついた頃にはすでに思い知らされていた。

 

「あの女の、狗にしておくにはもったいない……」


 うめき声と共に男が床に倒れる。最期に何かへ手を伸ばして、男はそのままこと切れた。

 いくらか歳を重ねた少年は青年となり、燃えあがる屋敷で呆然と自身の腹を抑えた手を眺めていた。

 手当てをしなければ死ぬ。分かってはいたが、彼はそれ以上に己が『裏切られた』と感じたことに驚いていた。

 言われたことは全てその通りに成してきた。己が最も『罪』を償ってきた。今回のように誰もやりたがらない任務だってやり遂げた。

 視界がかすみ、その場に倒れ込む。四肢に力が入らず、起き上がれなくなった。

 青年は床を這いずりながら、自身の愚かさと世界を呪う。

 何にもなれななかった何かの末路。名前もない。骨も残らない。きっと存在すらしなかった。

 自身が手にかけた骸の横を這うと、聞こえるはずもない笑い声が聞こえてくる。くすくすと、こちらを指さして嘲る声が。どんなに耳を塞いでいても、それはいつも聞こえていた。

 自分を救ってくれる神様などいない。にもかかわらず、どこかで淡い期待を抱いていた。


「だ、大丈夫ですか……?」


 意識を失っていた彼の体はか細い声にひっくり返された。

 うっすらと目を開けると、少女があたふたと周りを見回している。

 青年は思わず息を呑んだ。

 

「ふんぬぬぬっ……!!」


 朦朧としている彼の両足が重力に逆らい、背中は床を擦る。

 ますます訳が分からない。

 段差で後頭部をぶつけるたびに困惑と苛立ちが募っていく。納屋へ彼を運び込んだ少女は隣にへたり込み「ふぅ」と息をついた。

 何やらブツブツと独り言をこぼした後、取り出したハンカチで彼の額の汗を拭う。

 

「もしもし……? 聞こえていますか……? どこか痛い所はありますか……?」

「ぅ……」

「う……?」

「うるさい……」


 かろうじて喉から声を絞り出すと、彼女は胸を撫で下ろす。

 青年は一刻も早くここから立ち去りたかった。が、生まれつき強い再生力を備えた体でも、あの男から与えられた傷はなかなか治すことができないようだった。

 情けない声をあげながら彼の腕の傷を縛る少女を見上げると、彼女は心配そうにこちらを覗きこんだ。


「す、すいません……。きつく結び過ぎました……?」


 何に対して謝っているのか。

 何を思って自分を助けたのか。

 分からないことばかりだった。


「なぜ……?」

「え?」

「なぜここまで運んだ……?」

「あのままじゃ死んじゃってましたよ……?」

「ヘタをすればお前も死んでいた……。バカなのか……?」


 そうでなければ説明がつかない。きっとそうだ。この歳までぬくぬくと何不自由もなく温室で育ってきた小娘は、自分が置かれた状況を理解していないのだ。

 怒りと戸惑いの末に結論付けた青年の問いかけに、彼女は明らかに不快を露わにしている。

 眉を寄せ、ぶすくれた少女はぶっきらぼうに答えた。


「いくら夢の中でも人に死なれたら寝覚めが悪いです。死なないで下さい」


 そう言って、涙をこぼす。

 青年は少女の言葉が理解できなかった。この状況を、この子どもは自分の夢の中だと思っているらしい。親を殺されて、錯乱しているのか。もしくは、やはりバカなのかもしれない。

 言葉を分析する一方で、彼女の発した最後の一言を処理できずにいた。

 死なれたら、寝覚めが悪い? 何故? その辺に転がる死体と違いなどない。むしろ、親の仇なら殺して当然だろう。なぜ。どうして。わからない。

 混乱して、ただただ、少女を見上げていることしかできなかった。

 少女は相変わらずあたふたしている。その割にはどこか冷静で、子どもにしては薄気味悪い。

 思考が焼き切れそうになっている彼の顔へ、強い冷気が吹き付けてきた。壊れたドアの破片が散らばり、少女は呆気に取られている。

 青年はようやく我に返った。裏切られたからには、自分も用済みだろう。

 見慣れた格好をした見知らぬ男は呆気に取られている少女の長い髪を掴んだ。

 銀色の髪が視界を流れていく。

 少女はもがくも、その男の腕はびくともしない。


「まだ始末していなかったのか」


 男は少女を地面に叩きつけた。華奢な体はなす術もなく、男の足元へ転がる。


「預言者様に感謝しろ。お前たちの魂は神の元へ導かれることだろう」

 

 男の足が少女の脇腹を蹴り上げる。少女の体は人形のように跳ねた。

 仰向けになった少女は迫る靴底を呆然と見上げ、ゆっくりと目を閉ざす。静かになっていく少女の息遣いに青年はゾッとする。それは実に奇妙な感覚だった。自身の命に危機が迫っているにも等しい感覚に背筋が凍る。

 気づいた時には地面を蹴って男の胸倉を掴んでいた。

 不意を突かれた男の首へ爪を立て、力任せに引き裂く。眼の前が真っ赤になった。力なく垂れる男の体を放る。

 荒い息を抑えることもできず、青年は自身の手を省みた。そして少女を見下ろすと、彼女は安堵した様子で目を閉ざしていた。

 その表情を見て、彼の心臓もようやく静まり始める。

 青年は少女の外傷を確認した。あれだけ強打されたはずの体に目立つのは青あざ程度で、腹部や胸部を軽く圧迫しても骨や内臓を痛めた様子がない。

 もしかすると、この少女は自分と同じなのだろうか。だから自分を助けたのだろうか。

 小さな体を背中に担ぐ彼の足取りはおぼつかなかったが、その心は不思議なほど軽かった。

 ぬるい風を背に、彼の足は白い雪を踏みしめる。少女はいつの間にか彼の背で健やかな寝息を立てていた。青年は胸の高鳴りを堪えて夜の暗闇に身を隠した。


 

「アイギスは器用だねー」


 得体の知れない集団に命を脅かされたにもかかわらず、その後も少女。シャレム・エストリンドは呑気なものだった。

 青年はいつの間にかアイギスと呼ばれるようになり、彼女がそう呼びたいならそれで良いと思った。彼自身も数字で呼ばれるより心地よかった。

 シャレムは何の役にも立たない。薪を割るにしても、食料を採るにしても。水を汲むにしても大した量を運ぶことはできない。代わりに彼女は青年に何も要求しなかった。

 ああしろ、こうしろと指図をしない。穢れるだのなんだのと遠ざけたりもしない。

 彼女とのその日暮らしは、驚くほど穏やかな時間が流れていた。

 時おり知らない言葉で彼女は歌を口ずさむ。役立たずな上によくしゃべる変な子ども。冷ややかに少女を見下ろす一方、青年は常に気を配っていた。

 彼女は何も覚えていないらしい。でなければ、いかにも怪しい男とひとつ屋根の下で暮らそうなどとは思うまい。青年は彼女との穏やかな日々を望みながら、自身の行いを彼女が思い出しやしないかと怯えていた。

 

「私はクリード。クリード・フロストだ。ミス、シャレム・エストリンド」

「クリード様。この様な場所までご足労いただきまして何の御用でしょう?」

「無論、あなたをお迎えにあがったのですが?」

 

 だから、癪に障るどこぞの貴族が彼女を迎えに来たなどと抜かした時。彼は頭に血が上った。

 気安く彼女の名前を呼ぶのも腹が立つ。殺してやろうと獲物を抜きはしたが、彼女の目の前でこのアホ面を殺して、あの日の記憶を思い出されては困る。

 悩む内に不覚にも顔を殴打され、そのまま泥沼の殴り合いになった。そこで彼は自分の体が思った以上に弱っていることを痛感する。『人間』相手にこうも遅れをとるようでは、次に『奴ら』が彼女を殺しに来たら容易に奪われてしまう。

 青年は仕方なく、彼女の意向に沿って男の庇護下で厄介になることを選んだ。

 少なくとも、この貴族は彼女を今すぐどうこうする気はないらしい。その隣で控える陰険な従者は明らかに同族だが、自然と互いに暗黙の了解が働いた。向こうがこちらの邪魔をしないのであれば、こちらも深入りする必要はない。

 シャレムが賊に襲われる心配も、寒い冬に体調を崩す心配もなくなった。彼の心配事をよそに、彼女は新しい家のベッドですやすやとよく眠る。そんな寝顔を眺めている内に新しい寝床も悪くないと、彼自身も思い始めた。

 朝、目覚めて彼女を揺り起こすのが日課。狩りから帰れば彼女がいてくれるのが当たり前。食事の時には何故かいっしょに手を合わせてから、が普通。何も心配することなどない。

 彼の人生の中でもそう長い時間ではなかった。だと言うのに、青年は忘れていた。

 『神様』が彼を心底、嫌っていることを。



 次に目を覚ました時。彼は再び燃える屋敷跡にいた。正確には自分が暴れ回って建物に火がついたようだったが、その時の彼の意識は朦朧としていてそんな些事に気を配る余裕はなかった。

 穏やかな夢から覚めた彼の目の前には、彼女がいた。元々小さかった姿がより小さく見える。彼女の側にいる男が視界に入って、ようやく自分が『人間』の形をなしていないことに気付いた。

 血の気が一気に引いた。何故、消えた彼女がまた目の前にいるのか。

 彼女の意思で姿を消したのではない。それは確かだった。あんな呑気な子どもが自分さえ欺くほど痕跡を消せるはずがない。

 そうは分かっていても、青年はがく然とした。彼にとって、彼女はようやく手に入れた『自分のモノ』だった。それさえ取り上げられたとなれば、自分には何ひとつ残らなかった。

 彼はなりふり構っていられなかった。

 家の周辺から、彼女の故郷まで戻って。エストロランドからフロストロンの隅から隅まで探し回った。数年かけて、それでも彼女は見つからなかった。そうして青年の足は、かつて自分を殺そうとした『奴ら』の元へと向かっていた。愚かだと分かっていても、それ以外の選択肢が彼にはなかった。


「……アイギス?」


 その名を呼ばれ、散漫としていた青年の意識は輪郭を取り戻す。そして堪らず逃げ出した。

 自身の姿を映す少女の目から、一刻もはやく逃れたかった。あんなにも探し回った彼女の口から発せられる次の言葉が、恐ろしくて、恐ろしくて。

 半ば錯乱状態で逃げ出した彼の正気を引き戻したのは、皮肉にも彼の同族から与えられた毒だった。的確に青年の古傷から侵入してきたそれは彼の体を駆け巡り、内側から蝕んでいく。

 あの時のように。惨めに地べたを這いずるトカゲと化した彼の目の前で、また彼女は慌てている。


「アイギス、聞こえてる? 私のこと忘れちゃったかな……」

「あなたを覚えているから逃げようとしているのでは?」

「心当たりしかないですけども……?!」


 すでに四肢が重く持ち上がらない。爪が虚しく土を抉る。

 嫌な予感がした。今すぐにでもここから消えてしまいたい。

 こちらを見下ろす同族の目は彼女のように暖かくはなかった。


「そんなかわいいモノではありませんよ。そうでしょう、掃除屋?」

「掃除屋……?」


 いっそナイフで喉をかき切ってくれやしないかと。青年は生まれて始めて、あれほど恐れていた死にすがった。


「武勇に秀でたエストリンド家の当主が、そう簡単に殺されるはずはない。相当な厄介者だとは分かっていましたが、預言者の掃除屋であれば納得がいく」

「だまれ……!!」

 

 叫んだアイギスは同族へと掴みかかる。力の入らない四肢はまるで言うことをきかない。掴もうとした先には何もなかった。勢いあまったアイギスは再び地面へと倒れ込む。

 冷ややかな声が頭上から降ってくる。それはナイフよりもよほど鋭利だった。


「暗殺者は痕跡も残さず消えたのではなく、痕跡ごと消される予定だった。本来なら、目標を始末した証拠を雇い主に見せるのが基本ですが、預言者の目があればそれも不要ですからね」

「だまれ……! ちがう、ちがうちがう…………!」

「しかし、預言者も飼い犬に手を噛まれるとは予想外だった。おかげでエストリンド家の娘は生き残り、よりにもよってあなたがそれを人目につかない山奥で匿った。結果としてリュシオン国外まで見渡せない預言者は、昨今までシャレム・エストリンドの生存に気付けていなかった。預言者からすれば手痛い失態です。その様子ではかなりご立腹でしょう」

「ちがう……。おれは……おれは…………」


 分かっている。そんな見え透いた嘘を、虚勢を張っても、どうしようもないことは。それでも否定せずにはいられなかった。

 事実であってはならなかった。認めてしまえば全てを失う。ようやく手に入れたものを全て。

 彼の罪を暴く声は無情に響いた。


「罪の追及がないのを良いことに隠していた事実へ、今さら罪悪感でも覚えたのですか?」


 口にされた事実は深く重く彼の胸に突き刺さる。もはやあの場で殺した人間の顔すら覚えていないのに、燃え落ちる屋敷だけが彼の脳裏に焼き付いていた。

 まぶたが自然と落ちてくる。足掻く余力も奪われ、彼はせめてこの沈黙の内に死にたいと心の底から願った。


「アイギス」

「っ…………」


 堪らず息を呑む。

 耳を塞ぎたいのに、腕が持ち上がらない。


「ごめんね。ずっと図書室の前で待っててくれたんだよね」

「…………」

「スロース殿から聞いたの。私がいなくなった後も、しばらくあの家にいたって。待っててくれたんだよね。私が帰ってくるの。だって、アイギスは強いし、一人で何でもできるから、本当ならクリード様のお世話になる必要もなかったよね」

「…………」

「ありがとう。アイギスがいなかったら、私とっくに死んでたよ」

 

 遠くなっていく彼女の声。都合の良い幻聴。

 自分にそんな言葉が与えられるはずがない。罪人は死ぬまで罪人だ。死んでも罪が償われることはない。彼女とは始めから相容れないことなど、分かりきっていた。

 それでも、すがらずにはいられなかったのだ。

 

「だから、ごめんね。私、嘘つきなんだ。アイギスが何でお屋敷にいたのか、何となく分かってた」

「……は?」


 何の話しだ。

 訳が分からずに顔を上げる。

 そんなはずはない。自分が何者か知っていて、一緒にいるはずなど、あり得ない。そんなバカな話がある訳ない。

 彼女は視線をおよがせる。


「あのね……。『シャレムちゃん』はあの時、アイギスが殺しちゃったからもう生きてないんだ……」

「は……?」

「ちょっ……。いきなりそんな怖い顔しないで下さい……。いや、私が悪いんですけども……」

「お前を間違えたりしない。お前は間違いなくお前だ」


 彼女を間違えるはずがなかった。

 彼女こそが彼の願いを叶えてくれた唯一無二の存在だった。神様は手を差し伸べてくれなくても、彼女は手を差し伸べてくれた。

 全てを覚えている。その声も、髪も、目も。においから足音の間隔だって。彼女の全てを覚えている。

 

「あー……。うん……。アイギスを助けたのは『私』だからアイギスの言うお前は『私』なの。それで、その、そもそも『私』は『シャレム・エストリンド』じゃなくて……」


 アイギスは呆然と歯切れの悪い彼女の弁明を聞いた。

 彼女に殺されるならそれでも良かった。彼女のモノを奪ったら当然の結果だ。でも違う。

 やはり彼女はおかしい。思い出すまでもなかった。彼女は馬鹿だ。全てが本当なら自分の方がよほどまともだと思った。

 見ず知らずの子どもに同情するだけでなく、自分の命を脅かしかねない男にまで情けをかけるなど。彼女は正気じゃない。

 しかし、彼にとって、彼女が正気だろうが、そうでなかろうが。『シャレム・エストリンド』が本当はどんな子どもだったのか。そんなことは重要でなかった。

 

「……お前は、それでもいいのか」


 辛うじて絞り出した声は思っていたよりもさらに小さかった。

 彼女が目を閉じて頷く。


「私はアイギスがいてくれて、とっても助かったよ」


 それが嘘でもいいと。以前ならそう思っていた。

 しかし『アイギス』は彼女の言葉が真実であることを切に願っている。


「アイギスが私のことを許してくれるなら、また一緒にいてくれると嬉しいな」


 幻聴ではない。幻覚でもない。彼女が戻ってきた。まだ自分に生きていても良いと言う。夢の方がよほど現実味があった。

 差し伸ばされた手を、アイギスは恐る恐る取った。

 彼女は彼の肩へローブをかける。体中の温度が戻ってくる。


「寒いから帰ろう、アイギス」

「……『お前』がそう言うなら」


 小さな手に引かれたアイギスはどうにか立ち上がる。

 夢でも、幻覚でも良い。この手が導いてくれるなら、二度と放しはしない。

 暗転する世界の中で、彼はそう心に決めた。

 

 

 

 だから彼は暗闇へ落ちていく彼女たちを追って下へ、下へ。さらに速く、速く。何よりも速く落ちる。


「貴様のほしいものをくれてやる」

「あの娘がほしいのだろう」

「邪魔な王子をけしてやるぞ」

 

 泣き叫ぶ怒号も、囁かれる呪いも、彼の目から彼女の姿を隠せはしなかった。

 まるで彼を導くように、瞬く光がある。それは強く輝いた後、砕け散ってしまったが、彼女との距離を知るのには充分だった。

 彼女から伸ばされた手をアイギスは掴む。

 今度は自分が彼女を導けと言われた。彼女を導く自信はないが、彼女の手を引くくらいはできる。

 灰色の竜は白い空を目指して羽ばたいた。

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