70.魔法
レイ・ジールは自身の放った炎がくすぶっていることに気付いた。
足元に迫る水の勢いは増している。
「ジャラス殿、これは……」
「……先の崩壊のせいで水路が崩れたか」
ふたりは足を引く。しかし、触れた足先には何の変化も感じられない。
背後でその時を待っているケテルに動きはなかった。
レイはかたわらで鮮やかな紫色の水を蹴って遊んでいるグラトナスへ呼びかける。
「グラトナス殿。これは紫睡の毒、のはず……。これまでと違い何故、自分たちに影響がないのでしょうか」
「呪いの返される方向がもう定まってるからねぇ。僕らにはただの怨念と竜の血が混じった水だよ~」
「それは浴びてはいけないものではないのか?」
グラトナスは朗らかに答えた。
ジャラスは割れた石畳にそって流れる水流へ視線を落とす。
リュシオンには街中に水路が張り巡らされている。特に城の周辺は余すことなく、水がいきわたるように。それらが損壊することはこれまでに一度としてなかった。
鮮やかな水に触れた黒い塊は動きを止めた。巨大な眼が細められる。
「死にぞこないが。生きていたか……」
「悪運だけは自信がありましてね」
ひと際に荘厳な噴水の残骸から水が噴き出す。毒々しいまでに鮮やかな水は辺りを染めていった。
横倒れになった彫刻の縁へ腰かけていたスロースは肩を落とす。
「滅ぶと分かっていながら、わざわざ苦しみを長引かせるとは……。貴様ら一族は誠、理解できぬ」
「正々堂々と戦わず済むよう小細工するのが仕事ですので……」
せき込み、スロースは口元を拭う。
「私がただ城の床を汚すために血を流したとでもお思いなら、それは慢心が過ぎると言うものですよ。神サマ」
「先の半身の不覚は認めよう。しかし今や神格へ昇りつめたこの身に、竜の血が混じった程度の呪いなどこそばゆいばかり……」
「私の血だけであれば、そうでしょうとも」
スロースは外套の中から小瓶を取り出す。彼はそれを以前と同様に地面へ叩きつけた。中に入っていた液体が彼の足元を赤く染め、噴水からあふれた水がそれを洗い流していく。
ひとつ、またひとつと。彼の足元に破片が散らばる。破裂した瓶の中身が広がる。
「同じことは通用せぬと……」
「答え合わせの時間だ。何故、ケテル・ミトロンがお前に見つかる危険性を冒してまで『シャレム・エストリンド』の体を長い間、自身の手元へ置いていたのか。何故、俺を呼びつけてその体を管理させていたのか」
「…………貴様らまさか」
スロースは散らばった破片のひとつを拾い上げた。
彼はそれをためらいもなく握りしめる。鋭利な破片は布地の手袋を裂き、土気色の肌から赤黒い血が滴り落ちていく。
黒い肉塊が頭上からスロースを取り囲み、押し潰さんと迫った。
「これでようやく清々する」
スロースは犬歯を覗かせて笑った。鋭利な破片が彼の腕をなぞるように切り裂く。
足元にできた血だまりは瞬く間に流され、辺りへ広がっていった。音を立て倒れ込んだ彼の血が混じった水はうっすらと光を帯びる。光は水の流れに沿って広がり、その強さを増す。
クリードは足元を照らす水の流れを見下ろして息を呑む。
上空を滑空するアロガントの目には、街中へ張り巡らされた水路が幾重にも円を描くように軌跡をたどっていくのが見えた。
光を帯びた水に触れた黒い肉塊はその身をくねらせる。
響き渡る唸り声に、アロガントが低く喉を鳴らした。
「紫睡の一族らしい。今まで一族が主に与えられた死の呪いを主へ返すとはな。そこへ生き血でないとは言え、神殺しの血が混ざればいくら神格を上げたところで逃れられはせん」
「相も変わらず、こざかしい真似を……!」
「なら、もう少し派手に景気付けてやろうか?」
ラーストーが大きく跳躍する。右目の眼帯が解けると、その下から覗いた瞳は紅の光彩を帯びる。
はるか頭上で遠雷が響く。閃光が爆ぜた。青白い稲妻は暗雲を貫通しラーストーの手元へ集約する。
大きく振りかぶった雷の槍は空気を焦がして巨大なひとつ目へまっすぐに突き立てられた。地面まで貫いた雷は肉塊を焼き溶かす。
分断された肉塊は個々にスロースの呪いから逃れようと瓦礫に身を乗り上げ激しく身をよじる。
「神を名乗るのであれば今少し造形にもこだわるべきだったな」
クリードの剣先が鮮やかな水へ触れる。冬の冷気が増し、液体は個体へと形を変えた。水に浸かるものを凍てつかせ、肉塊を覆うとさらにその動きは鈍くなる。
「ヒトの身で……! 神に届かぬ力で! 我らが殺せると、本気で思っているのか……!」
「神の眷属を人間が殺せることは、君が実証してるでしょ~?」
「ヒトに殺されたのは貴様ら脆弱なトカゲであろう……!」
首を傾げるグラトナスへ無数の視線が注がれる。
レイの炎が燃え上がるより先に、空間が引き裂かれた。虚無が覗くその亀裂から巨大な顎が現れる。それは建物ひとつを丸呑みにしてしまうほどの大きさだった。小山ほどの牙が並んだ巨大な顎はグラトナスへと迫る肉塊を大地ごと喰らい付く。顎は肉塊を引きちぎり、虚無の中へと戻っていった。
呆気に取られるジャラスとレイの前でグラトナスはペロリと口の端を舐める。
しかし焼き尽くし、凍らせ、喰いちぎられてもなお、肉塊は膨れ上がる。その質量は留まることを知らず、徐々に大地を覆っていった。
「私は、我らは貴様らに淘汰された同族とは違う! 神はなるべくして神になるのだ……!」
「神域の向こう側の神々が恐れ、この地へ追放したモノを教えてやろう、新参者」
上空からアロガントのかぎ爪が肉塊を大地へと縫い付けた。
もがく目玉に向かいアロガントは目を細め、笑みを深める。
「神をも恐れぬ、強欲で執念深い、生あるものの業よ」
白くまばゆい光が辺りを包む。
砂の嵐を払い、暖かな光の中から現れたのは三対の翼を広げた、白翼の竜だった。




