63.足掻くカナヅチ
見た目はただの鮮やかな色水だが、沈んでみるとこれが水ではないとハッキリ分かった。冷たいくせに熱い。おぞけで震えたくなるのに、肌が焼けるように痛かった。息を止めているはずなのに、呼吸器官が沈んだと同時に体内に迫ってくる液体を感じた。
優陽はそんな形容しがたい感覚に困惑して、水面へ手を伸ばす。そうして水面に近づくも、硬い蹄らしきものが無情にも頭を押さえ付けてきたので、心臓がぎゅっと縮まった。
「何してんだ……」
どうにかせねばともがいていた視界が途端に明るくなる。全力で肺に酸素を送りながらおそるおそるまぶたを開くと、首根っこを掴まれた猫のように宙ぶらりんになっていた。
「……おはようございます、スロース殿」
「何してんだって聞いてんだよ……」
「…………」
今、優陽はもしかしたらそのまま沈んでいた方が良かったかもしれないとさえ思っている。
省みれば、この男は今まで優陽がどんなに馬鹿な行動をとっても声を荒げることはなかった。だいたいはため息で流すか、皮肉を返すか。はたまた無視か。それらはむしろ温情だったのだろう。
宙ぶらりんの優陽はこちらを眺めている2本角の獣と目が合う。優陽はこれ見よがしに視線をそらした相手を指さした。
「そこの馬らしき方に落とされました……!」
「信用する相手は選べと言っただろうが」
「え……? 私が悪いんです……?」
なんで。こわ。馬も対象だなんて聞いてないし。
ドスの効いた声音に優陽はもにょもにょと口ごもった。
視界の端では紫色の水が滴り落ちていく。濡れネズミのはずが、何故か服や髪は沈む前の状態から変わっていない。
「何故ここにいる」
「あ……。実はサヘルがジャラス殿に連れて行かれちゃって……」
「それが何故、お前がここにいる理由に繋がる」
「何でって……」
「サヘル・オルランドがさらわれた所でお前には関係ないだろう」
「……何で?」
「………………」
いつだかのクソデカため息の再来。
沈黙があった。スロースは優陽を淵へ下ろして泉から出る。
顔を拭ってスロースを見上げると、彼は鮮やかな長髪をかき上げ、自身の胸へ手をあてた。先ほどの馬らしき獣は血を流し過ぎたと言っていたが、着衣に穴やほつれはあっても傷痕は見られない。
とりあえず彼の無事を確認して優陽も胸を撫で下ろす。
「傷が塞がったようで何よりだわ、坊や」
「余計なことを…………」
「小言は無しよ。王子様を追いかけるのでしょう。その脳天気な小娘の血がなければ足手まといになるだけだったわ」
スロースの唸るような返答に対し、馬らしきものは蹄を鳴らしてご機嫌だった。
「神殿までは乗せてあげる。ワタシが坊やにしてあげるのはそこまで」
「それは契約の終了ととるが?」
「ええ。あなたの頼みであっても、これ以上このやかましい小娘を乗せるのはイヤ」
「だからといって溺れさせようとしなくても……」
馬はスロースの周りをゆっくりと回る。
スロースがこちらを見たので優陽は背筋を正すも、視線が交わることはない。
今さら気付いた。彼はメガネをかけていない。
優陽はスロースの隣へと近寄り、随分と古着になった服の裾を引っ張った。
「……私のこと、見えてます?」
「見えていますよ。輪郭くらいは」
「私も元メガネですけど、この距離で見えないのにメガネなしで歩き回るのは危ないですって」
「予備を取りに戻る時間はありません」
「一緒に戻りましょうよ。クリード様たちが心配して待ってますよ」
「あなたには関係ないことだ」
「私はスロース殿を呼びに行くよう頼まれたので、一緒にきてくれないと困ります」
スロースの視線は何となくこちらを捉えている。
彼の背を黒い毛並みの鼻先が押した。
「王子様の賭けにのるなら、その小娘を連れていかないとね」
「足手まといになるだけです」
「おっしゃる通りで……」
「情けをかける相手を間違えないようになさい、坊や。あの王子様はあなたの願いを叶えてくれるわ。必要な犠牲を払えばね」
スロースの指が眉間に伸びるも、何もせずに戻っていく。
「それに、その小娘はあなたが連れていかなければ自力で帰れず、どちらにしても死ぬでしょう。どうせ死ぬのだから役にたてなさい」
「本人の前で言わなくても良いですよね、それ」
2本角の獣はせせら笑う。優陽はどれも真っ向から否定できなかった。
足手まといになるのも、ひとりではこの城を歩き回ることすら困難なのは重々承知している。
「そう言う訳ですのでスロース殿、助けていただけるとありがたいです」
優陽は改めて頭を下げた。
それが今の自分にできる限界だった。
「あなたは自分が何を言っているのか理解しているのですか?」
「そのつもり、ですが……。だって、このままだとスロース殿だって……」
「あかの他人どころか、自分とは無縁の世界のために死ぬのも厭わないと? あなたには何の関わりのないもののために、理不尽な死を受け入れると?」
「……もしかしてソレで怒ってくれてたんです?」
「少なくとも、私は『私』が死ぬことが恐ろしいです」
おずおずと。優陽は頭を上げる。
彼は広げた自身の手を眺めていた。
いつも白い手袋に覆われていた手には一部、人間の肌にはない光沢があった。見るからに固そうな凹凸が重なっている。爪は長く、やけに鋭利だった。
再び、沈黙が訪れる。
優陽は少し背伸びをして、震える彼の手を掴んだ。光沢を放つその部分はやはり固く冷たかった。
「でも……。スロース殿は行くんでしょ……?」
「……ええ。私は行きます」
「……私も、サヘルを助けたいんです。めちゃくちゃ怖いです。今すぐお布団にくるまって何も聞かなかったことにしたいんです」
優陽は喉まで出かかった言葉を呑み込み、別の言葉を絞り出した。
「だから……。だから、誰かに背中を押しててもらわないと……。何もできないんです。私が何もしなかったせいで、誰かが死んじゃうのは、イヤなんです……」
「あなたがこの場で逃げ出したとしても、誰もあなたを責めはしません。あなたはそもそも、この世界にすら無関係な、ただの子どもです」
「みんなには『私』は無関係かもしれないけど……。『私』には無関係じゃないです。『私』のために何かしてくれた人たちが死んじゃうのはイヤです。『私』はシャレムちゃんになれないけど、シャレムちゃんがしないといけなかったことがあるなら……。シャレムちゃんのおかげで生きてる『私』がそれをしなぶっ……?!」
そこそこ勢いのある張り手を受けた優陽の体はよろめく。おえつを漏らしていた口が堪らずうめき声とも悲鳴ともつかぬ声を噴き出した。
「……腹の立つガキだな」
さらに加わった舌打ちに、優陽は我に返る。
「メンタル限界人間の顔を殴る必要とは?! しかも面と向かってソレ言います?! このタイミングで?!」
「お前こそ今さら真っ当な人間ヅラするなよ」
スロースを指さし、怒りの地団駄を踏む彼女へ彼は冷ややかに続けた。
「お前がシャレム・エストリンドの体を得たのはお前の故意によるものではなく、他者の介入によって偶然起きた事故だ。シャレム・エストリンドが背負うべきだった義務をお前が背負う必要はない」
「そんなふうに割り切れてたら私だってこんな苦労してません〜〜っ!!」
「少しは子どもらしくしていろと俺は忠告したはずだぞ。今さら泣き言吐いた所で手遅れだ。ガキのくせに物分りが良過ぎて気味が悪いんだよ」
「だからそれはもうただの悪口じゃん! そっちこそ子どもの心配してるなら遠回しな言い方せずに素直に言って下さいよ! あとこれでも中身は成人してますこのインテリヤクザ!!」
「忠告を無下にしたのはそっちだ。背中を押せと言われたからには押してやる」
「押し方ってものがありますよね?! そこは優しく押す所ですよね!! それこそ崖から突き落としかねない押し方してる自覚あります?!」
「その調子なら、崖から転がり落ちても這い上がってくるだろ」
「う~~わ〜〜っ!! 這い上がってやりますとも〜〜!! 死ぬ前に一度はそのキレイな顔面を殴り返してやりますから〜〜!!」
「お褒めの言葉をどうもクソガキ」
優陽は再びスロースに首根っこを掴まれる。
じたばたと暴れる彼女を2本角の獣の背へ乗せたスロースは艷やかなたてがみを軽く撫でた。
「彼女を神殿へ。ケテルが待っている」
「酷い嫌がらせね、坊や。よりにもよって小娘だけをワタシの背へ乗せるなんて」
「お互い様だ」
「しかもなんかイヤな予感する! 戻ったらさっきの仕打ち絶対クリード様にチクってやる~!」
一人では下りることもできない優陽の訴えも虚しく、黒い獣はスロースへ背を向けた。
「あなたたちがどんな希望を抱いて絶望へ沈んでいくのか、楽しませてもらいましょう」
「スロース殿の悪趣味〜〜!! 殴るまでに勝手に死んだら許しませんからねええ!!」
「それはケテルに言ってやることだな」
蹄は石の床を蹴り、優陽を乗せて駆け出した。
別れ際。優陽はスロースへ渡すはずだった物がまだ自分のポケットに入っていることを思い出した。
次に会った時。彼の顔を殴ってやった後に返せば良いだろうと強く頷いて、優陽は危うく舌を噛みそうになった。




