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62.紫睡の毒

 駆け出したは良いが、優陽はすぐに自分の人生2回分を振り返ることになる。


「む、むり……! もう少し……速度、落として……!」


 ただでさえ引きこもり体質だったと言うのに、体は小さくなり、蝶よ花よと麗しい生活を送っていたお嬢様の持久力はそう長く続かない。これでも山で自給自足生活をして少しは上がったはずだ。が、すやすや5年間ケテルに眠らせていた間にゼロどころかマイナスになっている可能性は大。

 荒い息で廊下を走るも、前を行く影にはなかなか追いつかない。黒い毛並みをなびかせ、馬が視界から消える。


「ぐぅぅっ……スロースどの……どこ…………そろそろ、げんかい…………」

「こんな時でもおめでたい頭ね」

「…………」


 角を曲がると、そこで馬が待っていた。

 どこまで連れてこられたのか分からないが大きな庭園のようだ。中央には白い石で囲われた泉がある。天羽優陽の生きていた現代ならいざ知らず、庶民は井戸で水を汲んでくるこの世界で果たしてインテリアとしてそこまで必要なものなのだろうか。

 声の主の言葉通り、そんな呑気な疑問が浮かび優陽は辺りを見回す。広い空間には相変わらず人の気配がない。泉は紫色の水が溜まり、映え映えのナイトプールみたいだ。辺りに雪が積もっていなければ。

 優陽は目の前にたたずむ馬を見上げる。


「……もしかして、なんか言いました?」

「ええ。そうよ。おバカさん」

「馬にお馬鹿さんって言われた……」


 反論する気力も起きず優陽は事実をただ反芻する。

 ここまでの出来事からしてもただの馬でないことは明白であったのでそこまで驚きはしない。上から下まで眺める優陽に馬らしき生物は左右に軽く尾を振った。その声は中性的で何と呼べば良いものか、優陽は悩む。


「なんか、大きくなってません……?」

「あなた達がモタモタしていたおかげで、坊やがワタシへかけていた偽装魔術がとけているのよ。こっちがワタシの本当の姿」

「おお……。う、ま…………?」


 大まかな外観は変わらないが馬の額に角は生えていないはず。それも2本。

 彼、もしくは彼女が優陽の背を鼻先で押す。呆気に取られたまま優陽は泉の淵へと足を進めた。


「スロース殿はどこに……?」

「坊やならそこにいるでしょ」

「え?」


 視線の先には白い石で囲われた泉。映えるナイトプール状態のそれはそこそこの深さがある。天羽優陽であれば足が届くだろうがシャレム・エストリンドでは難しそうだ。

 身を乗り出して目を凝らすと、水底には確かに人影のようなものが横たわっているのが見えた。

 ど、と。優陽は嫌な汗を覚える。


「お、溺れてるってことですか?!」

「溺れてるだけだったらとっくにワタシが引き上げてるわ。少しは頭を使ったら?」

「はい……。すいませんでした……」


 言葉遣いは丁寧だが声音が辛辣である。

 そう言えばもしかしなくても嫌われているのだった。

 優陽は胸を撫で下ろすもこれまでの出来事を思い出し、苦虫を噛み潰す。


「ワタシハドウスレバ良イノデショウカ……」

「王子様のおかげで坊やは血を流し過ぎたわ。あなたの血を分けなさい」

「ち、血を分けるって……どうやって……」

「その水は坊やの体を修復するためのもの。そこへ入りなさい。あとは坊やの術式が調整するわ」

「要はダイブしろってことでは……」

「それくらい易いでしょう? 全てはあなたが招いたことなんだから」

「な、何の話し……?」


 言い方にトゲがあるを通り越して明らかな意図を感じる。

 ずい、と大きな黒い瞳が迫る。優陽が思わずたじろぐと長いまつ毛がゆっくりと上下した。


「あの王子様はワタシの坊や以上に諦めが悪いわ。諦めが悪いコは好きよ。だからと言って、ワタシの契約主を奪われては困るの」

「それはケテルに言ってもらわないと……」

「あなた、底なしのおバカさんね」


 高い天井に蹄の音が反響する。


「一人の男が何かを求めて何度も同じ盤面をやり直してる。存在するかも分からない正解を探して。人間の枠を越えて」

「……あなたはケテルの目的を知ってるの?」

「さあね。でも、これでも長生きよ。あの老いぼれ竜には及ばないけれどね」

「老いぼれって……」


 恐らくはアロガントのことだろう。アロガントを基準とするのなら、この獣の正体は想像もつかない。

 優陽の顔を映す黒い瞳が細められた。


「何故、『神殺し』であるあなたが必要とされているか、理解していないでしょう」

「えっと……神様を、殺すため…………では…………?」

「そう。神は神と崇められる故に神。その神がたかが人間に殺されたという物語は著しく神格を落とすの」

「すいません……。お馬鹿さんにももう少し分かりやすく……」

「それが事実として血に刻まれている『神殺し』は神が絶対であることを否定する存在。神を殺せるという証明。神を神の座から引きずり下ろす劇薬」

「は、はぁ…………?」

「例えヒトが忘れた物語であっても、神はその血が辿ってきた事実を無視できない。絶対の存在としての神を否定するその『血』が、あの道化を殺す切り札となることでしょう」

「…………」


 じりじりと黒い陰は優陽と距離を詰める。

 あと一歩でも下がれば背中から泉に落ちるだろう。冷や汗を覚える優陽の顔に生暖かい息づかいがかかる。


「でも、あなたは非力。王子様の腹の中は読み切れないけれど、あなたがあの道化を追い詰めるのは難しい。危ない賭け事を許すほどワタシは寛大ではないわ」

「いや、だからそれはケテルに……」

「ただ、あなたの血が坊やに混じれば、例え王子様が失敗したとしても、ワタシの坊やはあの道化に対する耐性がつくでしょう。それだけはワタシとしても有益ではあるのよ」

「…………」


 あれ。コレやばいのでは?

 反り返る優陽の足のすぐ隣に硬い蹄が置かれる。2本の角が優陽の頬を掠めた。


「坊やに命を救われた貸しがあるでしょう? まだ支払っていないのでなくて?」

「あの……分けるとなった場合、どのくらいの量を……? それに血液型とか…………」

「死にはしないよう調節はしてあげるわ。ここで殺すとあなたのナイトがうるさいでしょうから」

「これからサヘルを助けに行かないといけないので、動けなくなるのは困ってしまうのですが……」

「あの田舎娘を助けてどうするの? 王子様といっしょにあなたの死を望んでいるかもしれないのに? あなたの命を助けたワタシの坊やより、裏切り者の命を優先するの?」

「まだそうとは分からないのに決めつけるのは良くない気が……」

「そもそもソレはあなたの体じゃないでしょう? 『泥棒さん』」


 笑みを含んだ言葉に優陽の頭は真っ白になった。

 言い訳のしようがない事実。目を背けるほどに白日へ照らされる真実。

 口ごもっていると鼻先で肩を押される。

 後ろに傾いた体は背中からざぶんと得体の知れない水の中へと落ちていった。

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