06.そうそう。これだよ
雪もすっかり溶け、春の霞が朝日を乱反射させている。
まだまだ冷えるなぁ。
シャレムが窓の外を見てあくびをしながらキッチンへ向かうと、何やら香ばしいような焦げたようなにおいがする。
「おはよう、アイギス。ご飯作ってくれてるの?」
「ん……」
彼はどこかバツが悪そうに返した。
見ると手元のフライパンに置かれたベーコンの端がカリカリを通り越してガリガリに焦げている。
思えば、彼は山小屋で色んなことをしてくれていたが、調理に関しては素材の味そのままをお出しされた記憶しかない。
シャレムは笑ってアイギスの肩を叩いた。
「ありがとう〜。お皿にのせる前に切る?」
「……そうする」
アイギスは頷いてフライパンを置いて包丁を取り出す。シャレムはテーブルに食器とパン、チーズを並べた。
卵焼きと焦げて小さくなったベーコンをのせた皿をアイギスが隣へ並べる。
「はい、朝ごはんのお礼。アイギスには大きい方あげるー」
「……いっしょの大きさでいい」
「まあまあ。そう言わずに」
チーズとパンをナイフで切り分けて、シャレムは自分の席に座る。
「いただきまーす」
「……いただきます」
2人で両手を合わせて朝食を始めた。
今日もいい朝だ。
シャレムは温かい目玉焼きをパンにのせてかぶりつく。隙間風のない温かい家。外に出ればすぐそこに飲める水の湧く井戸。裏庭に鶏と小さな畑。
絵に描いたような自由自適生活。
「出かけるぞ、シャレム! 今日は領内の見回りだ。俺の馬に乗せてやる」
青年の声はそんな穏やかな時間を打ち破った。
朝から元気だなぁ。
シャレムとアイギスは勢いよく開かれた扉に目もくれずモグモグと朝食を続ける。
「また貴様はこんな時間に目を覚ましたのか。エストリンドの血が泣くぞ」
「今の私はただの民なので……」
「移動距離も考慮しなくてはならない。はやく準備しろ」
「アイギスがせっかく朝ごはん作ってくれたのに……」
「俺の妻ならば領内の情勢にも気を配れ。また殺されかけたいのか?」
「今現在クリード様の奥方になる予定はありません」
「お前の予定にはなくても俺の予定にはある」
クリード・フロストは尊大に腕を組む。
シャレムがパンを咀嚼しながらどうしたものかと目を閉ざしていると、クリードの横をナイフが掠めた。ナイフは数本の青みがかった髪を落として扉に突き刺さる。
「黙れクソガキ。メシがまずくなる」
「このっ……」
アイギスは冷やかに吐き捨てた。
クリードの額に青筋が浮かぶ。以前のように条件反射で殴りかかることがなくなったのは進歩と言えよう。
それでも我慢ならずに握り締めた拳を従者が掴んで宥める。
「せめて前日に一言お言葉をかけないクリード様にも非はあります」
「貴様はどちらの味方だ、スロース……!」
「私は良識ある方の味方です。シャレム様にもご都合があるのですから、ご予定を伺いもせずに誘っては断られるのも当然かと」
「俺がここへ住まわせてやっているのだぞ。俺に従うのが筋と言うものだ」
「お二人を強引に連れてこられたのはクリード様であることをお忘れになられたので?」
スロースは息をつく。
シャレムもつられて肩を落とした。
金銭面で世話になっているのは事実だ。おかげでこうして塩味以外の食事にありつける。家にはすきま風どころか得体の知れない獣も、野盗もやってこない。裏庭の小さな鶏小屋も初期ステータスであった。
アイギスが獣を狩り、それを町に出て売ってきてはいるが対価に対しての見返りは公平とは言えず、自立した生活とは程遠い。
シャレムは焦げたベーコンを頬張る。
「できるだけはやく食べますから、お皿を洗うまで待ってて下さいませんか?」
「皿洗いなどそこの狗にさせておけ」
「次にアイギスをイヌって呼んだら行きませんからね」
「…………」
盛大な舌打ちが返ってきた。
貴族の子息である彼からしてみれば未来の妻と決めた女が素性の知らない男と同居しているなど有り得ないだろう。立場的に考えればとんでもない譲歩だ。スロースが彼に何か吹き込んだのだろうがシャレムが知る由はない。
クリードは外套を翻す。
「外で待っているぞ。はやく支度を済ませろ」
「ありがとうございます」
スロースを連れて彼は扉を乱暴に閉ざした。
困ったものだ。色々と。
シャレムは最後の一欠となったパンにチーズをのせる。
「ヤツについて行くのか」
「うん。お礼はしないと。アイギスは待ってる?」
「俺も行く」
いつの間にか彼の皿には何ものっていない。シャレムもよく味わってからパンを胃に流し込んだ。
食器を運び、シャレムは皿をすすぐ。きれいになった皿をアイギスが隣で受けとる。時おり触れ合う指が温かく感じた。
「あのガキに付き合う必要はない」
「うーん……。でも、お父様の政治で荒れた領内を立て直してくれてるのはクリード様のお家みたいだからさ」
シャレム・エストリンドの両親は自分たちの幸せを追求し過ぎた。結果としてそれが跳ね返り命を落としたのだから、これ以上その罪を責める必要はないだろう。燃え盛る屋敷での出来事は、あまり思い出したくものだ。
フロスト家が行っていることは、本来であれば父がやらねばならない義務だった。
自分がシャレム・エストリンドとして生きている以上。その事実から目を背けてはいけない。
でなければ、クリードの言う通りになるだろう。
「アイギスこそ、ムリに付き合わなくても大丈夫だからね」
「…………」
最後の皿を渡す。大きな手は皿ではなく彼女の手首を掴んだ。
見上げると、灰色の瞳がじ、とこちらを見つめている。
「……今度は、焦がさないようにする」
「そうだね」
シャレムは笑う。焦げたフライパンだけは水に浸けておくことにした。
クリードが窓を叩いて急かすので、シャレムは慌てて支度を始めた。