53.悪夢
夕暮れの斜陽に染まる屋敷。
クリード・フロストは扉の前に佇んでいた。左手には色とりどりの花の束。義兄がもう1人の母に内緒でくれた贈り物。兄弟2人の秘密。そう、実の母にだって。
クリードはドアノブを回した。まだ幼い自分の体には扉が重く感じる。使用人を呼んでも返事はない。また母が癇癪を起こして帰してしまったのだろうか。
町外れに建てられた2階建ての簡素な屋敷。昼間は使用人がやってきて炊事を行い、庭師が手入れする庭もある。父が病弱な母のためだと言って、静かなこの場所へ、この屋敷を与えたらしい。
そして母は窓から外を眺めてはいつもため息をついていた。
クリードは階段を上がり、母を呼んだ。返事はない。
母の部屋の扉の前で足を止め、何度も呼ぶ。部屋に入りたくはなかったが、そうするしかなかった。
玄関の扉とは違い、母の部屋の扉は少し押しただけで勝手に開いた。大きな窓から射し込む光が室内を赤く染める。部屋へ踏み入ったクリードの足元には、椅子が倒れていた。天井からぶら下がる影がゆらゆらと揺れている。
しかし、見慣れた悪夢はいつもと何かが違う。
見上げた母の姿がやけに小さいことに気付いたクリードは思わず息を呑んだ。冷や汗がどっと流れ出す。
手にしていた花束を放り、慌てて椅子を元に戻した。不安定な椅子の上に立ち上がるも、幼いクリードの腕では天井の照明にかかった縄には届かなかった。
「違う……! 俺はそんなつもりじゃ……!」
伸ばした手は彼女を助けるどころかバランスを崩す。世界がぐらりと歪んで、クリードは椅子から転げ落ちた。
顔を上げたクリードの首筋からじとりと嫌な汗が流れた。室内に漂う空気は冷たく、暖炉の火はもう見えない。
額の汗を拭い、大きく息をはいた。立ち上がったクリードは小さな灯りへ灰をかける。
室内は一段と暗くなった。燭台の灯りを頼りに扉へ手をかけ、クリードは部屋を出る。
「クリード様。起床のお時間にはまだはやいかと……。いかがされましたか」
「天候が気になってな。案ずるな。睡眠はとった」
「ですが、あまりご無理は……」
「悪い。すぐに戻る」
見張りの言葉を遮り、クリードは背を向ける。彼からもそれ以上の追求はなかった。
松明の明かりに沿って、石造りの廊下を重い足取りで進む。脳裏に焼き付いた悪夢がまぶたの裏でちらつく。
窓の前で足を止めたクリードは壁へ寄りかかった。下を見下ろすと、兵士が堀の周りに目を凝らしながら巡回している。
山裾から覗く朝焼けが辺り雪原を照らしていた。ここからなら遠くまで見通せる。夜の闇と雪に紛れて移動するはずだった彼女たちにとっては、いい天気とは言い難かった。
「ご気分が優れないようですね」
そんな彼の背後からゆっくりと足音が近付いてきた。
振り返ると、彼女は首を傾げる。
「よろしければ眠りのまじないをおかけ致しましょうか?」
「お気づかいありがとうございます、サヘル殿。ですが、いざという時に遅れをとる訳には参りませぬので」
クリードは軽く頭を下げた。
サヘルは彼の隣までやってくると、同じように銀色の雪原を遠目に眺める。
「……レイが上手く敵の注意をそらしてくれたと言うのに、困ったものですね」
「『彼女』はやたらと悪運が強い。アイギスもいる。心配はないでしょう」
自分へ言い聞かせるようにクリードは応えた。それでも悪夢は彼の脳裏をよぎる。喪失の瞬間は自分が思っているよりも呆気ないことを知っていた。
クリードの口からは自然とため息が漏れる。
「クリード様は本当に、あの方を伴侶としてめとるおつもりですか?」
「……当人にそのつもりがあるのであれば」
おもむろに発せられたサヘルの問いへクリードは素直に答えた。
数年前までの自分なら「当然だ」と答えたろうが、上辺だけの言葉は今の彼女の機嫌をますます損ねるだろう。
クリードは目の前の彼女が何かに憤っていることに気付いた。
サヘルの声音は穏やかとは言いがたい。
「あの方の幸せを本当に願っていらっしゃいますか?」
「無論です」
「では、何故。ここまであの方を連れてこられたのですか?」
サヘルは眉をつり上げる。
彼女の言わんとしていることを察したクリードはサヘルへ向き直る。
「彼女を利用するつもりはない。だが、そうも言っていられない。それはあなたとケテルも同じことだ」
「……ケテルがあの方にした仕打ちは生涯、あの方の心に残りましょう」
「ですから」と、彼女は目を伏せる。
「……せめて、全てが終わった後に。穏やかな生活を願うのです」
「その答えはあなたもよくご承知のはず」
クリードも同意見だった。けれども、できないこともよく分かっていた。
ここへ連れてくるしかなかった。屋敷で兄と待たせようにも、『シャレム・エストリンド』の命が狙われている以上、兄の側に置くことはできない。
彼女の立場がこれから先、変わることはないだろう。
言葉を詰まらせるサヘルへ、クリードは目を伏せる。
「ケテル殿が何をお考えかは、私には計りかねる。彼の言葉に嘘偽りが無いのだとすれば並大抵のことではない。どれだけの代償を払ってきたのか、私には想像がつきません」
「…………」
フロスト家で言葉を交わすまで、クリードはまともにケテルと顔を合わせたこともなかった。ミトロン王家の継嗣であるケテルと、フロスト家の妾の子であるクリードが言葉を交わす機会などそうあるはずもない。
しかしケテルはクリードのことを知っている様子だった。まるで友人のように。
脳裏をよぎった可能性にクリードは眉を潜める。
「確かなのは……。彼がやろうとしていることはこの大陸を混乱に陥れる。ケテル殿は国王と女王を殺した後の自身の立場を明確にしていない。仮にリュシオンほどの大国が崩壊すれば、周辺国の領土の切り取りが始まり戦となる。竜人は自由になるが、彼らが堪えていた怒りは計り知れない。再び竜がこの地を支配する時がくる可能性もある。国を救うとのケテル殿の言は、果たして真か」
サヘルは口を引き結ぶ。
言いたいことはありそうだが、答えるのはやはり難しいようだ。クリードも彼女から返答を得られるとは思っていなかった。
ケテルの言葉の真偽はケテルにしか分からない。それでも互いにこの不利な状況を覆すにはケテルの思惑にのるしかない。彼女と自身の立場にそう大差はないだろう。
クリードはできる限り自身の声を和らげるよう努める。
「そうなったとしても、『彼女』が生きていけるよう最善を尽くします。ですが、どれだけ尽くしても彼女自身が変わらねばならない部分もある。それまでは私の側に置いておくつもりです」
「……クリード殿のお考え、承知いたしました」
「ケテル殿から私へそのように問えと?」
「いえ。これは……。個人的なご質問です」
サヘルは「失礼しました」と軽く頭を下げる。
彼女の険しい表情は解かれ、視線を足元へと落とした。
「ご存知かと思いますが、私はリュシオンの出自ではありません」
「そのような噂は聞いておりました」
「これは、私の……。すべき事をなせず、何も守れなかった私個人の……。せめてもの償いです」
それまでとはうって変わり、彼女の声は弱々しい。
うつむく彼女の姿が悪夢で見たそれと重なって、クリードは自然と口を開いていた。
「……私の母も、父によってフロスト家へと連れてこられた。旅人の一団の1人だったそうです」
「左様ですか……。どちらのご出身であられますか? 南の海側であれば私も存じている土地かもしれません」
「残念ながら知る術はありません。母は私が6歳になった日。何を思われたのか、自ら首を吊りました」
「……それは、お辛かったことでしょう」
「サヘル殿も。南の海側となれば、改宗のため、リュシオン軍から執拗な攻撃を受けたと聞きました。本来、あなたは聖リュシオンを信仰されていないはず。ソレがあなたの償いの理由なのだろう」
「まぁ……。いじわるなお人ですね……」
「お気に触りましたか」
クリードは至って真面目に話していたが、サヘルは小さく笑った。目を瞬く彼に、彼女は口元をおさえる。
「いいえ。クリード殿がご自分のことをそこまでお話しされるとは予想外でしたので……。私が少々、惨めに思えただけです」
「私のことはフロスト家にいる者から聞けば簡単に分かりましょう。隠していても意味はありません」
「……そうですね。私ももうリュシオンの巫女ではありませんでした」
サヘルはそう言って、自身の肩を覆っていたストールを取った。
「ええ。聖リュシオンなど私の信じる神ではありません。私の故郷を焼き、友人たちを道具のように扱う悪魔だわ。邪悪で残忍な悪魔に尽くすなどもってのほか。預言者などクソ食らえです」
「…………」
「あら、失礼。言葉が過ぎました」
サヘルは清々しく笑って窓辺へ寄りかかる。
彼女が見上げる空は薄紅に燃え、太陽が顔を覗かせていた。
「『彼女』は私へ『優しいね』と仰って下さいました。ですが私は優しい人間ではありません。幼い頃、司祭と共に村々へ施しを行っていた私はともかく、今の私は自身が生き延びるだけで手いっぱいです。嘘をついた償いくらいはすべきでしょう」
「罪の懺悔をされる相手を間違っておいでだ」
「そうですか? クリード殿は少なくとも、ケテルよりはずっと正直者です。小難しい話しを長々と始めたり致しませんし……」
「私の言葉が嘘偽りでない証明はありませんが」
「これでも聖職者の修行をしていたのですよ。虚言癖のある病人も看ておりましたし、現実と妄想の区別がつかない酒飲みの世話もしておりました。リュシオンの城内に至っては、嘘を嘘とも思わない怪物で溢れております」
「苦労されたようだ」
「しましたとも。ですからこの機を逃す訳にいかないのです。例え地獄へ落ちるとしても、私はすべきことをなさねばなりません」
「そうでしょうな」
クリードは息をつく。
『彼女』から聞いていた人物像とだいぶ違う印象を持っていたが、どうやらそうでもなかったらしい。
鳥のさえずりにつられクリードも窓の外へ視線を向ける。
冷たい朝の風が久々に心地よく思えた。風にさらわれる雪が目に眩しい。
サヘルは外したストールを手持ちぶさたに畳む。
「私のことはサヘルとお呼び下さい。言葉遣いがかたいと疲れてしまいます」
「では、サヘル。俺も妾の子だ。肩ひじをはる必要はない」
「そうさせてもらいます。レイには私から言っておきますから気になさらないで。彼女は……。というより、竜人はみんな真面目でちょっと困った所があるのよ」
「……みんな、と括るのはいささか疑問がある」
「スロース殿のこと? 私も始めはそう感じたけど、私たちが見ていない所で真面目な努力家なのでしょうね。ケテルも彼を一番に信用しているのだし」
「ケテルがスロースを?」
クリードは思わず反芻する。
皮肉屋の小言はクリードも聞き飽きていた。実力は確かだが、信用するとなれば相応の時間を要するだろう。
サヘルは窓辺へ肘をつき、朝焼けに目を細めた。
「ケテルは女王を討つため、背中を預ける相手にスロース殿を選んだ。護衛である『赤銅のレイ・ジール』でも、自身の教育係だった『黄金鎧のジャラス・マリオロネスト』でもなく、リュシオンを去った『紫睡のスロース・ディール』を」
「紫睡の、とは……初めて聞く通り名だが」
「四騎光だった頃にディール家へ与えられていた呼び名よ。四騎光にはもうひとつ。『蒼麗』を冠する竜人の一族がいたのらしいけど、随分と前に家が絶えてしまったのだとか。ケテルが言っていたわ」
「それで四騎光と呼ばれる程の筆頭家臣でありながら他に名乗る者がいないのか。全く、家臣の血筋も守れんとは……」
「蒼麗の一族が絶えて、次に優れていた紫睡のディール家がリュシオンを長い間支えていた。スロース殿のおじい様がリュシオンを出ていくまで……。今は黄金を冠するマリオロネスト家が竜の一族をまとめているけど、ディール家とジール家がケテルについたとなれば、国王と預言者の統治に疑問を持ってくれる竜人も出てきてくれるはず」
「それもあって、スロースを借りていくと?」
「たぶん、そうね。私は政が分からないから、自信ないけれど……」
サヘルは薄紅と白が混じる空を見上げる。腕を組むクリードへ彼女は小声でぼやいた。
「ジャラス殿がケテルの話しを信じて味方になってくれたら、戦況もだいぶ変わるでしょうに……。上手くはいかないものね。まあ、誰だってこんな話し信じないでしょうけど……」
「そのジャラスという四騎光の一人をケテルは説得できないと考えているのか? この場でお前やレイ・ジールが説き伏せるのも難しいと」
「ケテルが説得できないのに、私では無理よ。よそ者だもの。ジャラス殿に可愛がってもらっていたレイの方がまだ可能性があるわ。でも、ケテルは彼女でも無理だったと言っていたから……」
「……ジャラスとやらは切り捨てると?」
「そう決めているようね……。ジャラスを救えるのは僕ではない、って。はっきり言われてしまったわ……」
深いため息にクリードは眉を持ち上げる。
そこまで言い切る相手はここにきて初めてだ。アイギスでさえ「様子見」と言っているのをクリードは聞いていた。
そのジャラスと言う騎士はそれほど何か問題を抱えているのだろうか。
「可能性は一切ないと? 先ほどケテルの教育係りだったと言っていなかったか」
「そのはずなのだけど……。ただ、ジャラス殿は先代から国王に仕えていて、人一倍に責任感が強くて、もちろんとっても真面目なのよ? 今まで彼が守ってきた国を滅ぼすのを手伝って欲しい、なんて言ったら……。相手がケテルでも怒るに決まってるでしょう?」
「……しかし、やはりその男を救える可能性が残されているのはケテルしかいない」
「どうして? きっとケテルは何度も説得しようとして失敗したから諦めたのよ?」
「俺はそのジャラスという男と話したことはないが……。人一倍に責任感が強く、忠義に厚い騎士だと言うのなら。その忠義を誓った相手でなければそやつの決意を動かせはしない。ジャラスがケテルに忠義を誓っているのであれば、ケテル以外にジャラスを動かせる人間はいない」
クリードも敬愛から兄デュースへ仕えている。忠義とは別ものだ。それでも特別な相手から送られた言葉の重みは、クリードも理解していた。
「だとしたら、やっぱり難しいわ……」
サヘルは一際に深いため息をついた。
クリードはサヘルと視線を合わせる。
彼女の髪が清廉な風になびいた。
「ジャラス殿が忠誠を誓ったのは今の国王……。ケテルのお父さまだもの。ジャラス殿がケテルに忠義を誓うのは、ケテルが国王に即位してからよ……」
「そうか……」
つられて出かけたため息を呑み込み、クリードは雪原を見渡す。
朝の日差しに反射した雪原が陽光をまとって美しく輝き始めていた。




