27.惰性
長年、手入れもされず雨ざらしの家屋は今にも屋根が落ちそうだ。
スロース・ディールは重い脚を引きずりながら無人となった廃村を進む。数年前まではまだ人影があったが、今は野良犬一匹すら見当たらない。周囲にはうっすらと朝霧が立ち込めていた。
村の中心だった寂れた教会の壁は崩れかけ、スロースが片手で押すと両開きのはずの扉は音を立てて彼の前に倒れる。
「おはよう。スロース。もう少しユウヒの元でゆっくりしてきても良かったんだよ」
穴の空いた天井から降り注ぐ朝日の下。その男は微笑む。
渇いた咳をこぼすスロースに対し、彼は目を伏せた。
「とは言っても、君はこうして約束を守りにきてしまうのだろうね」
「……始めからあの騎士を私にけしかけるつもりだったのですか?」
「それは違う」
スロースの問いを彼は即座に否定した。
朝日を受けて白金の髪が揺れる。その空間はまるで光に切り取られた絵画のようだ。
「レイ・ジールのことはすまなかったね。今まで通りなら、彼女はもう少し後で接触する予定だったんだ」
「……つまり今のこの状況は、あなたが初めて選ぶ分岐点に足を踏み入れた。という認識でよろしいですか?」
「君はいつも察しがはやくて助かる、スロース」
「私を見殺しにする可能性も大いにあったと?」
「その心配は必要ない。レイ・ジールが大義もなく女性や子供を傷つけたことはないからね」
矢継ぎ早に問いかけるスロースへ、青年も簡潔に答えていった。
「アマバ・ユーヒが命がけで私を庇う確証はないでしょう」
「残念ながら、アマバ・ユウヒは君が思ってる以上に愚かな人だよ」
「私があなたの話しを全て信じているとお思いで?」
「分かっている、スロース。君は用心深い。でも、薄情でもない。だから僕は君を一番に信用している」
「信用、ですか」
スロースが鼻で笑うも、彼は続けた。
「結果的に、君のおかげでレイ・ジールとユウヒを早いうちに会わせることができた。感謝しているよ。君がユウヒを見捨てずに、彼女を助けてくれようとしたことも含めてね」
「あそこで彼女が死ねば、あなたが私を殺しにくるだけでしょう」
思わず目元へやった手を引っ込め、スロースは腕を組む。
ケテルは笑みを崩さない。
「レイ・ジールと、サヘルのことは僕に任せて欲しい。君はユウヒの側にいてあげてくれないか」
「……随分と彼女との接触を避けたいようですね」
「言っただろう。彼女は君が思っている以上に愚かな人だと」
「……なるほど」
抑えられた声にスロースは息をついた。
ケテルはスロースへ歩みよると、腰に下げていた革袋を彼へと差し出す。スロースはしばし間を開けて自身の手を差し出した。彼の手のひらへとのせられた袋にそれほどの重量はない。
スロースが開くと、そこにはさらに長方形の箱がふたつ。
ケテルは小首を傾げて再び目元を緩めた。
「ユウヒにもクリードにも、君の助けが必要だ。それがないと困るだろう」
「……どこでこれを」
その内のひとつを開くと、真新しいメガネが収まっていた。
睨むスロースに、ケテルはむしろ笑みを深める。
「『以前の君』が、世話になっている店の場所を僕へ教えてくれたんだ」
「……その私は、随分と不用心だったようですね」
「そうだね……。ユウヒを妻に迎えた時の君は、別人のように穏やかな顔をしていたよ」
「…………は?」
しみじみと発せられたケテルの言葉に、それまでせわしなく駆け巡っていたスロースの思考が停止した。
対してスロースへ革袋を渡したケテルは「じゃあ」と、軽く手を振り微笑む。すると、瞬く間にスロースの体から気だるさが消えていった。見れば、腕を覆っていた火傷の痕跡すら判別できないほどに薄れていく。
スロースは息苦しさが和らいだ胸を抑える。
「まさか、お前っ…………」
「可能性を探るには試さねばならないことも無数にあった。今の君なら望まないであろう可能性も」
引き留めようと腕を伸ばしたスロースの視界にケテルの姿はなかった。
辺りを見回すも、寂れた室内からはすでに気配が離れていく。
「くれぐれも無理はしないでほしい、スロース」
「おいっ…………!」
「今度こそ、僕らの悲願をかなえよう」
声は遠ざかり、完全に消えた。
呆然と、スロースは真新しいメガネを見下ろす。それをかければ、曖昧だった世界の輪郭が戻ってくる。間違いなく自分が愛用している品だった。
天井の穴から差し込む光の筋が、朽ちた室内を暖かく照らし始める。
「……何を期待しているのだか」
もうひとつの箱には、やはり見慣れた煙管が同様に収まっている。
箱を閉ざし、スロースは新品の煙管を咥えた。軽く息を吹き込むだけでそこへうっすらと模様が浮かび上がる。
「お互いに、人並みの幸福など望んでいないでしょう」
大きく息を吸って吐いた紫煙が細くのぼっていった。
軽快な蹄の音が近づいてくる。
スロースが振り返ると、黒いたてがみをなびかせた馬が彼を呼ぶようにいなないた。




