20.諦観
スロース・ディールが物心ついた頃、すでに両親はいなかった。死にかけの祖父母は死ぬ間際まで彼に生きる術を教えた。そしてやはり時間が足りなかった。
背信の代償は大きく、例外はない。神の呪いは両親や祖父母と同様に、ゆっくりとスロースを蝕んだ。
何度も主人を変えた。誰もが一族の血を忌避する。使えなくなれば捨てれば良い、都合のよい消耗品。捨てられたらまた次を探す。結果が分かっていても繰り返さなければ死ぬ。そうやってどうにか繋いできた命に、もう時間は残されていない。
そこへあの男がやってきた。
背信者の末裔であるスロースの元へ現れたケテル・ミトロンはスロースのこれまでの経歴を漏れなく、気味の悪いくらい知っていた。他人に話したはずのない過去から、スロース自身が知る由もないこれからの事まで。そして提案してきた。互いに手を組み、互いの悲願を叶えることを。
どちらにせよ時間のないスロースには、ケテルの話しにのる他なかった。例えそれらが虚言だったとしても、これが最後の機会であることに違いはなかったのだ。
そう。いつものこと。何ひとつ、この世界は変わらない。
スロースはナイフを投げた。
大剣を奮うまでもなく、甲冑の騎士はそれを篭手で払う。まるで羽虫を落とすかのように。
虚しい音を奏でたナイフはひび割れた地面に落ちる。突き刺さった先端から、地面へ赤い染みが広がっていく。
「貴殿の呪いも毒も、自分の装備には通用しない」
「そんなことは知っていますよ……」
ぼやかずにはいられない。
運よく騎士へ刺さったところで致命傷には至らないだろう。それでも大人しく首をはねられるのは癪に障る。
スロースはため息をついて腰に差していた剣を抜いた。
「何故はじめから正々堂々と戦わない」
「正々堂々と戦わず済むよう小細工するのが仕事でしてね……」
こちらへ切っ先を向ける騎士にスロースは頭を振った。
結果が伴わないのであればこれまでの過程が無意味になる。だからこそ残り僅かな命を賭けたが、判断を誤った。
いや、違う。誤ったのはケテル・ミトロンの正気を疑ったことだ。無限にある未来の可能性をひとつひとつ潰して、自分の求める結末に書き換えるなど、まともな人間であれば考えはすれど手は出さない。そもそも自分の求める結末が存在するとは限らず、たどり着く確率はそれこそ果てがない。
スロースはケテル・ミトロンと言う男の前提を見誤った。
だとすれば『スロース・ディール』には始めから選択肢もなかったのだろう。
『スロース・ディール』は小娘が生き延びる時間稼ぎとして使われる。それがケテル・ミトロンにとって確定事項なら、あの男の話しにのった時点で結末は決まっていた。その小娘さえも、残された命の灯がどれほどのものか知れたものではない。
踏み込んだ足が地面を割る。その重装備をものともしない身のこなしで、騎士は瞬く間にスロースとの間合いを詰めた。
重い衝撃が剣にのしかかり、熱風が肌を焼く。歯を食いしばるスロースは迫りくる巨大な剣と鎧兜の合間から覗く瞳を見返した。
「骨までは焼くまい」
「っ…………!」
赤銅の甲冑が激しく煌めく。大剣から沸き上がった炎の波が周囲を吞み込んだ。
間一髪。剣を捨てたスロースは地面を転がる。
この体でなければ死んでいた。
泥にまみれ辛うじて呼吸をする。髪と肌が焼ける臭いと、ただれた喉が音を鳴らす。
「我らは罪を償わなければならないのだ」
赤銅の鎧は一歩、また一歩と音を立てる。
霞む世界でスロースは力なく笑う。
とっととあの厄介者を見捨てていつものように逃げるべきだった。
もっとも、逃げたところで使い物にならない不確定要素をケテル・ミトロンは野放しにはしないだろう。
「罪を償わない限り、我らに救いはない」
そう。いつものこと。
ただその繰り返しに終焉が訪れるだけの話し。
「貴殿に主神の導きがあらんことを」
手足に絡みついた泥が見る間に乾いていく。ぼんやりと燃える茜空が白く染まっていった。
「……何をなさっているのです」
しかし、炎がスロースの体を包むことはなかった。むしろ、徐々に空気の温度は下がっていく。
突き立てられた大剣が地面を揺らす。
「どこのご令嬢かは存じ上げませんが、安易にご自身の命を差し出すべきではありません。大罪人とは言え、その男は少なくともあなたのために自身の命をかけたのです」
「……私はシャレム・エストリンドと申します」
「エストリンド……?」
騎士はその名を反芻した。
耳を疑ったのは騎士だけではない。スロースは重い体を持ち上げる。
ろくに見えない両目に映ったのは、騎士の前に両手を広げて立ちふさがる小さな陰だった。
「よもや、エストロランドの……」
「疑わしいのであれば、ケテル・ミトロン様をお呼びなさい。あの御方であれば私がエストリンドの名を騙る愚か者でないことは一目でお分かりになりますでしょう」
スロースは呪いでほとんど使い物にならなくなった自身の目と、ありもしない希望にすがる諦めの悪い自分を疑った。
渇いた風に柔らかな髪がなびく。それは騎士が腕を一振りすれば消しとぶほど頼りない。
「それには及びませぬ」
騎士は膝をつき、自らの兜を外した。
「その堂々とした立ち振る舞い。御父上の面影を残しておられる。御父上の雄姿を知る者であれば見間違うはずございません」
夕暮れに融けた赤髪が流れる。
「竜騎士レイ・ジール。これまでのご無礼、深くお詫び申し上げます。シャレム様」
騎士は少女へうやうやしく頭を垂れる。
両手を広げていた彼女が、次の言葉を発するまでにはしばしの間があった。
「お、お姉さまだとは、聞いていないんですが……」
「…………は?」
動揺で震える少女に、騎士は目を瞬く。
呆れと苛立ちの混ざったため息を吐き出そうとしたスロースはひとり咳込んだ。




