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12.しみじみしてる場合じゃねぇ

 目を覚ました途端に吐いた。

 ベッドから転げ落ちた彼女は胃液のにおいにむせ返る。

 死ぬ。いや、死んだ。

 両手を見れば、水仕事で荒れた華奢な指。けれども雪のような白い肌。

 これは天羽優陽(あまばゆうひ)の体ではない。シャレム・エストリンドと言う、別人の体だ。

 シャレムはうずくまり、大きく呼吸を繰り返した。

 どうりで、燃える屋敷で目を覚ます直前の記憶がない訳だった。頭がどうの、と言う話しでは済まない。

 ようやく視界が鮮明になってきて頭を上げる。辺りを見回すと、そこは石造りで囲われた部屋だった。窓はどれもカーテンに遮られている。アンティークの家具が一式そろえられ、簡素ではあるが貧相ではない。室内の至るところに燭台とロウソクが置かれ、かろうじて部屋が見渡せる。

 その光景にはまったく見覚えがなかった。

 シャレムはベッドへ手をつく。

 ベッドに掴まり体を起こすも、生まれたての小鹿のようだ。ひどい頭痛もする。口の中がすっぱい。立ち上がることすらできない。

 シャレムが悪戦苦闘していると、扉が小さくノックされた。


「シャレム様……? お目覚めになられましたか……?」


 鈴を転がすような声とは正にこのこと。若い女の声はゆっくりと唯一の扉を開いた。

 はじめ、シャレムはついにお迎えがやって来たのではないかと思った。

 何故って彼女は真っ白な装束を身にまとっており、その容姿は『シャレム・エストリンド』も顔負けの美しい女性であった。金色の髪に長いまつ毛。透き通るような蒼い眼、健康的な日にやけた肌。

 ベッドから転げ落ちたシャレムの様子を見て、彼女は息を呑んだ。


「シャレム様……! 大丈夫ですか……? お怪我は……?」


 駆け寄ってきた彼女は抱えてきた手ぬぐいでシャレムの口元を拭う。シャレムは申し訳なくなって言葉を発しようと口を開いた。

 しかし漏れるのは言葉にもなりきれない、うめき声ばかり。

 思わず喉を抑えるシャレムに、彼女は短い眉を下げる。


「ご無理をなさらないで下さい。シャレム様は5年も眠っていらしたのです。お体が思うように動かないのは当然ですよ」

「………………」

 

 なんだって?

 シャレムは彼女の言葉に思わず目を瞬く。

 

「まずはお着替えを……。それからご説明をいたします。そのままではよくありません」


 見知らぬ彼女は諭すように声を紡ぐ。

 柔らかな声音にシャレムもぎこちなく頷く。まずは状況を知りたい。何より服とベッドをこのままにするのは彼女の言う通り色々とまずい。

 彼女の手を借りて、シャレムはやっとの思いでイスへたどり着く。少し歩いただけでヘトヘトになってしまった。


「申し遅れました、シャレム様。私はサヘル・オルランドと申します。シャレム様のお世話をさせていただいております」


 サヘルは頭を軽く下げた。

 うまくしゃべれないシャレムが代わりに会釈を返すと、彼女は表情を緩めた。

 乱れたシャレムの髪を彼女の指が梳く。


「すぐにお着替えをお持ちいたしますね。それと、お水と……。お食事はもう少し後の方がよろしいですね」

「…………」


 何が何だか分からないがとにかくその優しさに涙が出そうだ。

 シャレムは懸命に頷いた。この身体に生まれ変わってからと言うもの、幸と不幸の落差が極端過ぎやしないだろうか。

 サヘルはクローゼットからストールを取り出し、イスの上で震えるシャレムの肩にそっとかける。


「ケテルにも伝えて参ります。少しお待ちになっていて下さい、シャレム様……。いいえ。ユーヒ様とお呼びした方がよろしいですね」

「…………」

 

 いま、何て?

 サヘルは微笑み、部屋を出ていった。そして扉に鍵がかかる。

 シャレムはイスの上で丸くなったまま、揺れるロウソクの火を眺めていた。

 けてる……。ケテル……。ケテル・ミトロン。


「…………あ」


 間の抜けた声が開いた口から洩れた。

 その名前を知っている。白金色の髪に、透き通るような碧眼。穏やかな声音、表情。

 幼い『シャレム・エストリンド』の初恋を奪った少年。

 電車を待つ『天羽優陽』をホームから落としたその人。

 古びた教会でシャレムに魔術を教えてあげると手を引いた青年。

 それらの人物は全て、同じ容姿をしていた。

 どういうことだろうか?

 シャレムは頭を抱える。そしてうっかり思い出さなくてもいい所まで思い出してしまったが、幸いにも吐き出すものがなかったらしい。

 口元を抑え、シャレムはどうにか呼吸を整える。

 つまりは、あの美女は自分を2回殺しにきたヤベー男の知り合いで、自分は5年ほど彼女の世話になって眠っていた、と。

 室内は静寂に包まれている。

 シャレムは背もたれに寄りかかり、羊を数え始めた。

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