10.盛大なやらかし
6歳の誕生日。『シャレム・エストリンド』は恋がどんなものかを知った。
「将来はお父様のような強い殿方の元に嫁ぎます」などと言っていた彼女も、優しい美少年の魅力には勝てなかったようだ。
彼女はそんな気持ちを言葉にすることはできなかったが、体はその時の胸の高鳴りを今でも覚えていた。
「どこかでお会いしたことがありましたか?」
「あ……いえ……えーっと……」
アホか自分ー!
シャレムは内心、大声で自分を罵った。慌てて帽子で顔を隠す。
彼が『シャレム・エストリンド』の顔を思い出したらどうする?!
「そ、そのっ……以前、リュシオン王国に、家族と住んでいてっ……! 祭事の際にお顔を少しだけ……!」
「ああ。そうなんですね。わざわざ私の顔を覚えて下さっているなんて、なんだか気恥ずかしいです。驚かせてしまってすいません」
「こ、こちらこそ……。失礼いたしました……」
穏やかな物腰でケテルはシャレムが落とした本を拾い上げる。
なんとか誤魔化せそうだ。
冷や汗が止まらないまま、シャレムはどうにか平静を取り繕う。
「お名前を伺っても?」
「あ……わ、私はユーヒと申します……」
「ユーヒ? 珍しいお名前ですね」
「よく、言われます……」
苦しい。とても苦しい。
手汗ごと帽子を握り締め、シャレムはぎこちなく笑う。
心臓の鼓動が絶えず聞こえてくる。
頼むから落ち着いてくれシャレム・エストリンド。この様子では君がクリード・フロストのことを忘れていたように、彼は君のことを忘れている。
「治癒の魔術に興味が?」
「友人が狩りでよく怪我をするので、治してあげられたらと思いまして……」
ケテルから本を受け取り、シャレムは辺りを見回す。
何だって、隣国の王子がこんな錆びれた教会にいるのだろうか。周囲には付き人の姿もない。王子なのに?
図書館はやけに静かだ。日が傾いてきて閉館が迫っているのかもしれない。
「よければ私が教えてあげよう」
「え?」
「これでも剣術より、魔術の方が得意なんだ。せっかく護衛もまいてここまで来たのだから、誰かと話しもしたい」
「ご、護衛を、まいた……?」
「彼らがいると気軽に人と話せなくて……。父上に内緒で隣国の良い所を学びに来たのに、それでは意味がないだろう?」
ケテルはいたずらっぽく口元へ指を立ててみせる。
絵面は完璧だがやっていることはかなりマズいのではなかろうか。今ごろ、その護衛たちが大騒ぎしているはず。そこへ自分が巻き込まれるのは実に良くない。
呆気に取られるシャレムの手をケテルが引く。彼は片隅にあるテーブルの上へ本を置き、長椅子に彼女と2人で腰かけた。
彼が手をかざすとテーブルの燭台へ勝手に火が灯ったので、シャレムは思わず感嘆の声をもらす。
「ユーヒは魔術の心得があるのかな?」
「いえ……。お恥ずかしながら、思い付きでここまで……」
「恥ずかしくなんてないとも。何事も意欲が大事なのだから」
彼はゆっくりとページをめくる。ロウソクの灯りで照らされる横顔に再び心拍数が上がり始めた。
困った。これでは教えてもらっているどころではない。何か理由をつけて席を立たねば。アイギスが呼びに来てはくれないだろうか。
シャレムはチラチラと入口の方角を盗み見るも人の気配はやってこない。
「簡単なものから始めようか。その前に、まずは基礎の基礎からだね。私の手を取って」
「え? はい……?」
ページをめくる指が止まる。
シャレムは差し出された両手を素直に取った。冷たい手はまるで美術室にあった石膏像のようだ。
「そんなに緊張しなくても大丈夫だよ」
「すいません……」
庶民が王族と手を繋いで緊張しないはずがないと思う。自分が緊張している理由は別にあるが。
指を絡めたケトルの顔がこちらを覗き込んだので、シャレムは息をのむ。
そこには一対の碧眼が宝石のように煌めいていた。途端に目が離せない。
「さあ、ここからだ」
穏やかな声が頭を揺らす。まぶたが重くなってきて、シャレムはようやく何かがおかしいことに気付いた。
息遣いが間近に迫って、額が触れ合う。
「今度こそ終わらせよう、ユウヒ」
なんだか、前にもこんなことがあった気がする。
重くなるまぶたに逆らえず、シャレムは目を閉ざす。心地よい眠気に誘われ、彼女の意識は暗闇に沈んだ。




