6話
──大聖堂教会内 地下最下層
オルウェクローレル現総司令官であるグィアンツェは血濡れた剣を右手に握り締め、純粋な敵意のみではない様々な感情が入り混じった視線を相手に向けていた。
「どうして。どうして天界を、我々を裏切ったのですか
──ミトログラフ様……!」
だらりと下がった両腕。そして、今も胸から鮮血が溢れ出ている青紫色の髪をした天使を抱きかかえ、ミトログラフは慈愛に満ちた表情で彼女に対して微笑みかける。
「ミトログラフ様……あなたが封印されたと聞いてから、すぐに、駆けつけて来ました……。時間にして、一日も経っていませんからね……。どうか、安心して……」
「よくやったオルミーネ。お前はとても優秀で、とても私に忠実だったよ」
「えへへ、恐悦至極に存じます……」
「私は私の正義を貫こう」
「そう……あなたは、それでいい……」
髪の隙間から辛うじて視認できる金色の瞳からやがて光が消えると、グィアンツェの後ろにいた桃色の髪の女天使はその光景から目を逸らして歯を食いしばった。
「私は、真実を知りたいだけだ」
オルミーネの腰から剣を手に取り、ミトログラフは立ち上がった。
「真実? それは組織を裏切るほど重要なものなのですか!? あなたにとってこの組織は何だったのですか!」
その返答にミトログラフは苦笑する。
「今の話のどこに笑える要素があるというのですか!!」
「どうして私の封印を解く前にオルミーネを殺すことができなかった? 裏切った不届き者を殺すことに躊躇いを感じてはいけないだろう。お前を総司令官代理に選任した私をあまり落胆させてくれるなよ」
「それが自分を助けてくれた者に対する言葉ですか……!」
「いや、私が天界を裏切ったから、お前はもう正規の総司令官か。偉くなったものだな、グィアンツェよ」
「一つ、聞かせてください」
桃色の髪の女天使は口を開く。吐き出された言葉は微かに震えを孕んでいた。
「ああ、何かな。アスタリア」
「その耳飾りは今でもあなたの正義ですか」
「……無論だ」
「じゃあ、あなたはナルヴィアのために、天界を──」
「何を迷っている。お前たちは罪を犯した天使を罰する天使だろう。私はとっくに殺される覚悟はできている。さあ、この通り」
彼女は迎え入れるように両手を広げると、その胸から剣先が顔を覗かせる。
「おいおいおい、ごちゃごちゃうるせえよ」
彼女の背後でその剣を握っていたのは赤髪の男天使だった。
「俺たちの敵は目の前にいる。俺たちは敵の排除を命じられている。だから俺たちは殺さなければならない。簡単なことだ、俺たちはそれだけ考えればいい。余計なことなど何も考えるなグィアンツェ。今のお前はオルウェクローレルの総司令官なんだ。なあ、そうだろ? ミトログラフ様。全部あなたが俺たちに教えてきてくれたことだ」
だが、彼女は恍惚とした表情で。
「ああ、そうだな。それでこそ、身を持って教えてきた甲斐があるというものだ」
「!?」
「悪くない不意打ちだったぞ、バックガム。だが、その刃にはまだ迷いが残っている」
「どうして、死なない……?」
異常さに気付いたアスタリアが飛びかかるが、その一撃はいとも簡単に防がれてしまう。そして、アスタリアの持つ剣だけが粉々に崩れ落ちていく。
「判断の速さは悪くない、成長したなアスタリア」
「くそっ」
腹部の中心を蹴り飛ばされたアスタリアは容赦なく壁に叩きつけられ、刃を無くした柄だけが床に落ちた。そして、ミトログラフが自身の胸から飛び出す剣先を掴むとそこから罅が走り出し、やがて砕け落ちていく。振り返った彼女は目の前の現実を受け入れられず呆けているバックガムを一瞬で十字に切り裂き、首を片手で掴み上げた。
「お前は見ているだけでいいのか? グィアンツェ。私に成長した姿を見せてくれよ、さあ」
「一旦引くぞ! バックガム! アスタリア!」
言い放つと、三人の天使は光に包まれたかと思えばその場から跡形もなく消え去っていた。それを確認したミトログラフは、深く息を吐いて見えない空を仰ぎ見る。オルミーネを含む先程までここにいた全員は元々ミトログラフの直属の部下だった。
「こんなにも簡単に崩れてしまうものなのか」
くつと笑うと、オルミーネの両手を胸の上で組ませてやる。そして、その上に自分の手を重ね、静かに目を閉じた。
────────
「この廃病院にいた堕天使は完全に制圧しました、ミトログラフ様」
「ああ、迅速な対応ご苦労だった、オルミーネ」
「ほとんどはミトログラフ様によるものですけれどね。お手を煩わせてしまい申し訳ありません。今後も精進いたします」
敬礼をするオルミーネにミトログラフは労いの言葉をかける。一見した外装と内装はただの廃病院といった様子だったが、天界の技術を用いた痕跡があり、そこを辿ると近未来的な内装が隠されていた。問題はここの拠点が堕天使の中でのどれくらいの重要度を持っているかということだが。
部屋から出ていくオルミーネを視線で見送り、向き直る。
「さて、お望み通り来てやったぞ。ヴィディゼアポロと言ったか、ナルヴィアはどこにいる」
とある一室で、オルミーネが発動させた光の十字架に磔にされている堕天使にミトログラフは声をかける。力なく項垂れているその様子から見るに、観念した様子ではあるが、油断はできない。途中で会った堕天使たちがこの天使の名前をしきりに呼んでいた。ということは堕天使の重要人物ということだろう。思いもよらない抵抗があるかもしれない。
「彼女はもうここにはいないわ。すでに逃しているから」
「どういう意味だ。人質にしていたはずだろう!」
思わず荒らげてしまった声を諫めるように短く震える息を吐く。
「そう、あなたと交渉するための人質にする、そういう話にしていたわ。そうしなければみんな納得しないから。それで、囚われていたところを脱走した。そういう話にもなっている。実際には逃したの、今頃はきっと彼女と合流できている頃だと思うわ」
「彼女とは誰だ」
「あなたたちが気になっている光輪を発生させた天使よ」
「──! やはりあれはお前たちが発生させたものだったか……!」
「いいえ、あの光輪はこちら側でも発生している。彼女はこちら側には属していない、もちろんあなたたちの側にもね。彼女は世界の敵。優しい優しい、世界の敵」
「詳しく説明しろ」
「それを話す前にミトログラフ。あなたは天界の真実について、どこまで知っているの? 知ってもなお、天界側に付いているというの?」
「何?」
「あなたは誰の下で剣を振るっているのか知っているの?」
「どういう意味だ」
「やっぱり知らない。でも、きっと真実を私から言っても信じてもらえないだろうから、できればナルヴィアからあなたに説明してもらいたかったけど──くっ!」
「会話の主導権を握っているのはこちらだということを忘れるな。もったいぶった言い方をせずにさっさとナルヴィアがいる場所を言え」
苦痛に顔を歪めたヴィディゼアポロの腹部には、ミトログラフの持つ剣が突き刺さっていた。ずるりと剣を引き抜くとその先から赤い雫が滴る。それなのに。
「なるほど」
剣を引き抜いたその先から傷口が塞がっていき、後には何もなかったかのように跡形もなく消えてしまう。
「これほどの再生力、相当な神の力を保有しているな? つまり、お前は堕天使の中でそれほど重要な役割を担っているということだ。メルスレムから、地上の祈りの発生量は増加しているが、天界へ昇ってくる総量と釣り合わないと聞いている。つまり、お前たちが人間たちに直接祈りを発生させて、それを蓄えているということだ。なんだ、宗教団体でも立ち上げて、人間たち相手に神様ごっこでもしているのか? はは、お前たちの神に対する冒涜はとどまることを知らないな」
「……ナルヴィアが今どこにいるかはわからない。でも、どこに行くかはわかる。──くぁあっ!?」
なおも、ミトログラフの拷問は続く。
「どこだ、言え」
「地獄。そこに行けばあなたはきっと彼女に会える……!」
地獄。口の中でその言葉を呟く。そこでの業火が地上に漏れ出している。いずれにせよ、直接見に行く予定であったため、ちょうどいい。仮にヴィディゼアポロの発言がこちらを罠にはめるために地獄へ行くことを誘導しているものだとしても、行くメリットの方が上回る。
神が教えてくれない地獄の目的、地獄の業火の意味。地獄の存在意義が戒めの象徴それのみであるのなら、わざわざ隠す必要などない。自分の目で確かめる必要がある。オルウェクローレルの総司令官として。
「地獄にいる神は回路を繋いだ者の目を通して世界を監視している。地獄に行くためには、その回路を逆に利用する必要がある。その一人がナルヴィア。光輪を発生させた天使は彼女を利用して地獄に行くはず。だから、地獄に行けばあなたはナルヴィアに会うことができる。こちらにも回路が繋がっている者がいる。レグナートという人間よ。彼に会えばあなたは地獄に行くことができる」
「つまり、お前はその光輪を発生させたという天使とナルヴィアを接触させるために、わざと囚えたナルヴィアを無防備な状態にして一人で逃したというんだな」
「……」
「そうか。なら、もう問答の必要はない。私が直々に裁きを下してやろう」
剣を振りかざしたミトログラフの目は冷たく見下ろし、流れるように澄んだ一閃はヴィディゼアポロの首を捉える。
「主に背いたことを悔いて死ね」
血振りをして剣を鞘に収めながらそう呟く。だが。
「何が、起きている……?」
床に落ちたはずのヴィディゼアポロの首は塵と化したかと思えば、元の位置に戻っていた。どれほど多くの神の力を所有していようと、命の修復は不可能であるはず。別種の力によるものか。あるいは……。
「驚いた? 私はもう死ねない体なのよ」
「……なのに拘束は解けないとはな。憐れなことこの上ない」
何度でも痛めつけてやる。そう言わんばかりにミトログラフはずるりと再度剣を鞘から引き抜く。
「見せてあげるのが一番早いと思ってね。百聞は一見に如かずっていうでしょう?」
ぱきりぱきりとヴィディゼアポロを磔にしていた光の十字架が音を立てて崩れていく。ぴくりとミトログラフの眉が反応した。
「私の体は世界の一部になっている」
「世界の、一部……?」
「──メギドライト。アインツァーレはそのこともあなたに教えてはいないのね。オルウェクローレルの総司令官にならそれくらい教えてあげてもいいと思うけれど。メギドライトとは、世界の欠片。世界の担い手である存在に世界が与える力。その力の保有者は世界の一部になるため、どれほどの傷を負っても世界がその傷を無かったことにするから、死ぬことがなくなる。けれども、それは力の副次的な効果に過ぎない。主な力は世界に直接干渉できること。その力で彼女はこの状況を作り出しているのでしょう」
天使の輪を発生させた天使か。なるほど、出鱈目な力だとは思っていたが、世界の力ということであれば一応は説明がつく。しかし、そもそもそのような強大すぎる力が存在することなど信じがたい話ではある。実際にその力の一端とやらを目にはしたものの、話のどこからどこまでが嘘で真実なのか、ミトログラフははかりかねていた。
そのとき、右耳へ取り付けられた通信機から電子音が鳴る。ヴィディゼアポロから目を離さないまま耳に手を翳すと通信が繋がった。
「……どうした、オルミーネ」
「ミトログラフ様! 大変です!! ナルヴィアが、ナルヴィアが……!」
「ナルヴィアがどうした!」
「ナルヴィアが……救出に入った地上の常駐部隊を敵もろとも全滅させて、現在逃亡、しています……!」
「そんな、馬鹿な」
「なら、きっとナルヴィアは彼女とともにこれから地獄に行くのでしょう」
「どういう意味だ」
半ば放心状態のミトログラフは血の気の引いた表情をヴィディゼアポロに向けた。
「メギドライトは現在5つに分割されていて、地獄に行くためにはそのメギドライトを保有している者と地獄の神との回路の繋がっている者がその者たちを除く天使の血を所持している状態で接触することが条件になっている。けれども、あなたは地獄の神と回路は繋がっていない。なら、あなたはメギドライトを保有していなければならない」
喉が急速に乾いていくのを感じる。
ヴィディゼアポロは胸元のあたりで両手を包むように差し出すと、そこには球体状の何かが淡い光を放っていた。
「メギドライトを保有者から喪失させる手立ては2つ。保有者が絶望すること。もしくは、保有者自身がその保有を放棄すること」
「何を、している……」
「ねえ、ミトログラフ。あなたにとってナルヴィアってどんな存在? 組織とナルヴィア。どちらかを救えばもう一方を見捨てなければならない。そんな状況に陥ったとしたら、あなたは一体どちらを選ぶつもりでいるの?」
「何を」
「あなたは自分の立ち位置を決めて、覚悟を決めないといけない。そうじゃないと、きっとこれから起きる事態にただ飲み込まれるだけで、何もできないまま全てが終わってしまうから。地獄に行くための協力はしてあげましょう。でも、それと引き換えに今から私が話すことにちゃんと耳を傾けて。これから話すことはこの世界の真実。あなたが、一番あなたらしくいるための情報を今、私が与えてあげるから」