5話
雨は上がり、水たまりには雲間から顔を覗かせる月が反射する。屋上の手摺に腕を置いて下を眺めると、眼下には月よりも小さいのに明るい光が右へ左へと忙しなく行き交う。
「あなたもお姉様狙いなんでしょ」
下を眺めたまま、低くか細い声でナルヴィアは背後に問いかける。
「お姉様? 誰のこと?」
そこにいたのは先程の少女の姿をした天使だった。あごに人差し指を当て、首をかしげる。
「とぼけないでよ。あなたもお姉様を狙うために私のことを利用しているんでしょう! もう、散々だこんなの……」
「何を勘違いしているのか知らないけど、私は別にあなたのお姉さんに興味はないよ」
「じゃあ、なんで!」
「なんで仲間も含めて殺させたのかって?」
しばし、その場を沈黙が支配する。
「私はあなたが望んだからそれをなし得る力を貸しただけ。その力で実際に殺したのはナルヴィア、────他ならぬあなた自身でしょ?」
「私は殺したくなんかなかった」
「でも、事実その引き金を引いたのはあなただよ」
言葉の1つ1つを脳に擦り込んでくるようにゆっくりと、はっきりと。
少女はナルヴィアの隣へとん、と爪先から軽く着地をして、目を真っ直ぐと見据えてくる。改めて見てみると自身と似た顔立ちをしたその姿にナルヴィアは軽く息を呑んだ。銀髪と澄んだ青の瞳はまるで、鏡を見ているかのようで。
「あなた、何者……?」
「私はアルマフィア。あなたと同じ天使だよ」
ただの天使が他の天使にあれほどの力を与えられるわけがない。少女の正体などもうナルヴィアにはわかりきっていた。
「どうせ、元は神なんでしょ」
「あはっ」
「敬いなんてしないから」
「うん、それでいいよ。私はこの世界の敵だもの」
「世界の敵?」
世界の敵。それは堕天使側ということなのか、それとも、第三勢力ということなのか。詳細は気にはなったが、それ以上話を掘り下げる気力は今の彼女には残されていなかった。
「……殺して」
「うん?」
「仲間を殺してしまった私はもうオルウェクローレルにはいられない。きっと、狙われる立場となる。これ以上お姉様に迷惑をかけるくらいなら、私はもう死んだ方がいい」
「殺してしまったという罪から逃げるの?」
「逃げるとか逃げないとかどうでもいい。私の命をもって償うしかない、それだけの話」
「傲慢ね。あなた一つの命で、殺してしまった仲間全員の命を賄うに足りるというの? 身の程をよく弁えていると思っていたけど、私の勘違いだったかな? それにあなたが死んだら、殺してしまった経緯もわからないままでお姉さんはもっと困ると思うけど」
姉という付加価値を除いた自分本来の価値など、痛いほど理解している。アルマフィアの発言は全くもってその通りだった。だからこそ、その言葉を聞いてこうして感じている悔しさは彼女に対するものではなく、弱い自分に対するものだ。
「ならさ、それを拭えるほどの功績を残せばいいんじゃない? 例えばほら、神の力を持たない天使たちに発生した光輪の件を解決するとか」
「どうやって解決しろと」
吐き捨てるようにそう言うと、こちらを向いたアルマフィアが微笑みながらゆらりと首をかしげる。ゲオスミンを運ぶ冷たい夜風が彼女の銀髪を靡かせた。
「解決、してみる?」
「どういう意味よ……?」
どこからかアルマフィアが手に取り出したのは堕天使に取り上げられていたはずのナルヴィアの短刀だった。掲げた刃は月光に煌めく。その様子をさも愛おしそうに眺めながら、困惑する彼女をよそにアルマフィアは語りだす。
「正直に言うとそっちの方が私も楽なんだ。常時力を割く必要もなくなるしね。これは私の意地。世界の敵になることを決意したくせに、あなたたちにできる限り苦しんではほしくないという私のくだらない、意地。でも、そんな意地を張り続けることが、こんなにも苦しいことになるだなんて思わなかった」
「ちょっと待ってよ、その口ぶりだとまるで」
「答えはすぐにわかるよ」
ごくりと生唾を飲み込む。
「結局、どうあがいても終わりは終わり。それなのにあなたたちに憎まれる覚悟で、私は私にそんなことを望んでいた」
沈んでいたはずの鼓動が浮上して、途端に強く脈を打ち出す体。目の前の少女が光輪を発生させた犯人? そんなことがあり得るのか。たとえ元は神だったとしても、今は天使だろう。その天使が全ての神の力を持たない天使全員に? だとしたら、その力の源は一体何だというのか。
ナルヴィアがはっと我に返ると、アルマフィアはまるで祈るように短刀を両手で握りしめ、自らの胸に押し当てていた。なおも変わらず夜空に咲くその笑顔を。
「おめでとう、これであなたはみんなを救った英雄だ」
半ば反射的にナルヴィアはその腕を乱暴に掴むと、からんと短刀がコンクリートの床に落ちた。その瞬間、アルマフィアが少し眉を顰めたように彼女は感じた。それは、不快に思ったというよりかは、まるで涙を堪えるかのような印象で。
「あなたからまだ何一つ説明を受けていない。お姉様狙いじゃないのなら、どうして私と接触をしたのか。どうして私と顔が似ているのか。どうして光輪を発生させたのか。どうせ死ぬのなら、全部話してから死ねばいいでしょ。私が納得行く説明をするまで勝手に死ぬことなんて許さない。──っ!?」
掌に焼けるような熱さを感じたため、思わず手を離して飛び退く。始めは何も感じなかったはずなのに、急激に温度が増したかのような錯覚。だが、確認しても火傷した箇所は見当たらない。
困惑するナルヴィアをよそに、アルマフィアは徐ろに瞼を開ける。
「ごめんね。これは必要なことなんだ」
「な、何だっていうのよ……」
「先程あなたが挙げたのは、全て心の表層に現れた疑問に過ぎない。もっと自分の心に、深くに根ざした心の底に目を向けて。どうして地上の天使たちから逃げた時、真っ先に天界へ飛んで行かなかったの?」
「……」
「どうしてすぐに助けを求めに行かなかったの? どうしてこのまま私を死なせなかったの?」
「それは……」
「教えてあげようか?」
「いい」
「あなたは天界の正義に疑問を抱き、信用することができなくなってしまったから。実は相手の言っていることは正しいことなのではないか。いつもだったら真っ直ぐな意思で否定できるのに、それができなくなってしまっているから。あなたのお姉さんはどこまで真実を知っているんだろうね。すでに心のない一柱の神のために罪のない他の神々も殺すと息巻いているのかな。心なんかなくても、世界が存続すればそれでいい。そう思っているのかな」
「うるさい」
「ほら、あなたもう大好きなお姉さんのこと信じられなくなって──」
「うるさいって言ってるでしょ!」
襟元を掴み上げ、ぐいと息がかかるほど顔を近づける。だが、彼女の顔、そしてその背後にある夜を照らす地上の星々が涙で滲んでいく。
「今更どこに飛び立てっていうのよ……。こんなに染め上げられた羽で、今更どこに飛び立てっていうのよ! オルウェクローレルのみんなの気持ちで染め上げられたこの羽で! 死んでいったみんなの気持ちだって! 新しい場所に飛び立つのにはもう、重すぎるのよ……」
「なら、きっと私たちの羽は
────誰よりも早く堕ちるためにあるんだ」
彼女はそう呟くと両翼をはためかせ、飛び立った。抜けた羽根が夜空を彩る。その様子を半ば放心状態で見ていることしかできなかったナルヴィアの前を逆さまの彼女が落ちていく。刹那、二人の目線が交差した。
「地獄の底で会いましょう」
手すりに乗り出して下を見たが、もうすでに彼女の姿はなかった。力なくへたれこむナルヴィアの頬を冷たい夜風が撫でていく。
「何なのよ。一体……」
夜の帳が視界に映る全ての光を覆い尽くしていくのに気付いたのは、それから間もなくのことだった。