4話
──大聖堂教会内 オルウェクローレル本部
「現在の状況については以上になります!」
「そうか、報告ご苦労だった。下がっていいぞ」
「はっ!」
敬礼してドアを閉めるまでの動作を見送ると、ミトログラフは机に右肘を突き、ぎりと奥歯を噛み締めた。
第一、第二、第三先遣隊の計約150名が一瞬にして全滅し、ナルヴィアは堕天使に囚われただと。それも、地上側のたった1人の天使によって。それほどの強さを持ち合わせているのにもかかわらず、こちら側に全く情報のない天使か。一体何者だ。地上側の天使といえど、元は天界にいた天使だろう。どこかしらの部分でこちらの持っている情報と一致するはずだ。特定できないはずがない。
ナルヴィアの初陣に地上側が何かを仕掛けてくることはわかっていた。だから、彼女が所属している第三先遣隊の他に2つの先遣隊を合わせて向かわせた。それなのに、ナルヴィアを除きそのいずれもが死亡した。地上側はナルヴィアを殺すことはないだろうが、痛めつける可能性は十分にある。万が一ナルヴィアが囚われた場合に備えて、元々先遣隊の後に戦闘部隊を向ける予定ではあった。だが、あまりにも展開が早すぎる。
どうか無事でいてくれ、ナルヴィア。
現在ミトログラフを悩ませている要因は大きく分けて3つある。1つ目は地上に逃げて神々を殺す機会を伺っている者たちの件。彼らを総称して、天界側は堕天使と呼んでいる。2つ目は神の力を持っていない天使たちの頭上に出現した光輪の件。感情を消失させられて祈りを生み出せなくなり、世界の存続にかかわる。そして、3つ目は最近天界中で不定期に発生する原因不明の火災。この火災の厄介なところは、一定以上の神の力を所持している天使でなければ消せないこと。つまり、発生した火災を燃え広がる前に迅速に消火するためには、闇雲に地上へ戦力を割くわけにいかない。一気に地上へ攻め込み、速攻で戦いを終わらせる。その方法も考えられなくはないが、指揮する立場としては、どんな状況でも万が一に備えなければならない。2つ目と3つ目が堕天使側が起こした証拠がない以上、第三者の介入も頭に入れておく必要がある。
とはいえ、大した戦力を割かなくとも、堕天使を断罪するために設立され、そうあるために訓練されたオルウェクローレルが苦戦する見込みはなかった。技術も数も劣る堕天使。誰がどう見ても天界側の圧倒的な優勢、のはずだった。そう、堕天使たちは戦力を隠し持っていた。先遣隊を壊滅させたたった一人の天使。この天使の出現により、2つ目と3つ目の解決に意識を向けていたミトログラフは、地上の動向にも注視せざるを得なくなった。
突如、ドアをノックする音。苛立ちを隠せないミトログラフは睨むようにドアに目を向ける。
「ミトログラフ様! 失礼します」
「ああ、入れ」
「いえ! 私は呼びに参っただけですので」
「ん?」
「定例会のお時間です。ミトログラフ様」
「随分と険しい顔をしているわねえ、ミトログラフ。それもそうよね、大切な妹さんが堕天使たちに囚われてしまったものね」
定例会。それは祈りが減少している現在の天界において、天使たちが構成している2つの組織、オルウェクローレルとログリペドラスの最高司令官。そして、それらの組織を調整し、神と連絡を取っている最上位の天使、天使族長の3名が集う定期的な会議だ。以前からこの会議は行われてはいたが、例の3つの出来事が起きてからはその頻度が増していた。
「そちらは随分と余裕のようだな、メルスレム。天使たちの心を取り戻す方法は見つかったのか」
メルスレム。そう呼称された鮮やかな緑の髪と燃えるような赤目を持った女は手をひらひらと振る。
「はっきり言ってお手上げね。突然現れた感情を消失させるあの光の輪。あれの外し方がどうしてもわからない。まるで、初めからそこにあったかのような自然さ。言い換えるなら、そうね。予め世界のルールとして規定されていたかのような」
「世界の、ルール……」
「私はこんなにも悩んでいるのに、それでも神々は手を貸してくださらないのかしら。ねえ、アインツァーレ?」
メルスレムが目線を向けた先には、神秘を宿した紫色の目と髪を持つ男がいた。彼こそが天使を束ね、神との橋渡し役を行うただ一人の天使族長、アインツァーレであった。
「神々がおわす神域は天界の内側にありますが、その2つは隔絶されています。神の力を持っていれば光の輪が発生しない以上、これは天使側のみの問題です。天使側で解決すべきであるため、神々は干渉しません」
「祈りの量の減少は世界そのものの存続にかかわることではなくて?」
「神々はそのように思っていはいないということです」
「メルスレム。気持ちはわかるが、時間は限られている。これ以上は抑えてくれ」
「……はぁ」
「では、まずオルウェクローレルから。地上に向けた3つの先遣隊がたった一人の天使によって、囚われたナルヴィアを除き全滅させられた。150名が約3分でだ。その戦いを遠くから監視していた地上常駐の情報部隊からの情報では、黒いローブを身に纏っていたと聞く。だが、その剣筋、動きからは誰なのかを特定することができなかったらしい。それほどの強さを持っている天使だ。天界にいたときも有名だった天使に違いない。動きの癖で特定できそうな気もするが。ともあれ、この天使は今後も私たちの脅威となりうるだろう」
「映像は? 顔はちらりと見ることはできなかったのかしら?」
「纏っていた黒いローブは映像には映らない特殊な代物だったようだ。そのため、情報部隊は肉眼のみでその存在を確認した。フードを深く被っていたうえ、情報部隊が見ていたのは戦闘が起きていた場所から少し距離を取っていたため、確認は難しい。実際に至近距離で戦っていた先遣隊なら見たかもしれないが、その者たちはすでに殺されている。つまり、顔を見た可能性がある者は戦いの中で殺されていないナルヴィアだけだ」
「で、その肝心のナルヴィア様は現在敵に囚われ中ってわけね?」
「あとは、特徴と言って良いのかはわからないが、その天使は一切神の力を行使せず、己の膂力のみで戦っていたらしい」
「へえ」
「……」
「顔を知っているかもしれないナルヴィアを早急に救出する必要があるため、すでに戦闘部隊を追加で地上に向かわせている」
「助ける口実ができてよかったわねえ、ミトログラフ」
「茶化すな。現段階で、その天使について思い当たるところはあるか?」
メルスレムは顎に手を当て、椅子の背にもたれる。
「そもそもそれって本当に天使なのかしら?」
「どういう意味だ?」
「オルウェクローレルの白いローブと正反対の黒のローブ。ひょっとしたら地獄からやって来た悪魔だったりして」
「そういえば、最近天界で度々発生している火災について、ログリペドラスでは地獄の悪魔が放っているという噂が立っているそうだな。詳しくお聞かせ願おうか」
「実際に放っているのかどうかはわからないけど、神の力でなければ消火できないあの火災は間違いなく地獄の業火でしょう。そこから派生して、地獄の悪魔の出現がまことしやかに囁かれだした」
「地獄の業火だという根拠は?」
「私が地獄でその業火を見たことがあるから」
「……! それは初耳だな。悪魔についてもか」
「悪魔は見たことがないわねえ」
「悪魔なんてものが存在するはずがないでしょう」
それまで黙って聞いていたアインツァーレが口を挟む。
「あら、それはどういう了見で?」
「地獄は神々が作り出した場所であり、その手によって管理されてきた場所です。そのような場所で悪魔なんてものの発生が許されるはずがない」
「なら、地獄とはなんのために作り出された? 地獄の業火には何の意味がある?」
「それはあなた方が知る必要はありません」
「結局それか。まあいい、もう慣れた。とりあえずは、天界に発生している地獄の業火、これは少なくとも神域には発生していない。そういった判断でいいんだな?」
「間違いありません」
「つまりはこれも天使側で調査し、解決しなければならないということね」
「気になるのはこの光輪と火災が堕天使側と関係があるのかどうかだな。今のところ、こちら側では確たる証拠は掴めていないが、大半の天使たちが堕天使の犯行だと思い込んでいる。否定する証拠もないうえ、そう思い込んだ方が彼らの士気も高まるから特段私は口をだしていない」
「堕天使全てを断罪すればこの事態が収まるなら、まだ話は単純になるのだけれど」
「いずれにせよ、堕天使にあの黒い天使がいる以上、無理矢理に戦力を注ぎ込めばそれをすぐに実証できるという話ではなさそうだ。それをすれば天界が手薄になるうえ、あれほどの強さを持つ天使が一人であるという確証もないわけだしな。とはいえ、このまま原因と解決の解析をただ指を咥えてただ待っているわけにもいかない」
「と、言うと?」
「堕天使側はナルヴィアを人質にして、私を呼べと要求してくるだろう。元々ナルヴィアが囚われた場合に備えて向かわせる予定だった戦闘部隊とともに直接私が地上へ赴き、その2つがやつらによるものなのか確かめる。できれば、黒い天使の正体もな」
「相手の要求にあえて素直に応じるのですね」
「ふーん」
「その間オルウェクローレルの指揮は誰が執るというのでしょう?」
「あらあら、2つの組織の指揮も執れなんて言われたら、私困っちゃうわ」
「そこは安心してほしい。優秀で信頼できる部下に任せるつもりだ」
「ちぇ」
「……グィアンツェですか?」
「ああ、彼は優秀だ。私がこの戦いで命を落としたとしても、安心してオルウェクローレルを任せられる。後継者としてふさわしい」
「縁起が悪いこと」
「万が一に備えてだ。もちろん、そう簡単に死んでやる気などさらさらない。さて、次はログリペドラスからの報告を聞こうか」
「ええ。ではまずは、例の光輪から。あの輪の出現により、発生する祈りの量は著しく減少した。人間が発生させる神々への祈りの量が減ったのをログリペドラスの設立でなんとか今まで補完してきたけれど、これのせいでもう台無し。光輪の出現した天使たちの心を取り戻せないまま、今までと同じ量の祈りの力を消費すれば、需要に供給が追いつかず私の見立てでは1年で祈りは底を尽いて世界は崩壊するわ」
「1年だと。あまりにも早すぎはしないか……?」
「まあ神々様の見立てでは? そんなことはないみたいだけれどねえ?」
「……」
「神の力は祈りの力を変換したもの。オルウェクローレルの規模を縮小すれば、もう少しは保ちはするか……」
「ただでさえ堕天使側の戦力の全貌を推し量れなくなった今、あまり強くお勧めすることはできないけれどね。それは任せるわ。では次に、天界で頻発している火災について。元は地獄の業火であるあの火はどうして天界で発生したのか。この世界は上から順に天界、地上、地獄の3つで構成されている。これは周知の事実でしょう。なら、この火は誰かの手によって、地獄から持ち込まれたと考えるのが筋というもの。けれども、奇妙なことにこの火は何にも燃え移らないから、どうやっても持ち運ぶことができなかった。その場で調査するしかなくてとても苦労したわ」
「つまり、火は地獄から持ち込まれたものではない?」
「けれども、これは間違いなく地獄の業火。それならば、考えられることは1つじゃないかしら」
「……いや、待て。まさか」
メルスレムは人差し指を突き立てる。
「この火は地獄から漏れ出したものである」
ぴりとその場に緊張が走った。
「天界に発生していた火災は地獄の業火から分かたれた火ではなく、それそのものが地獄の業火だった。そう仮定すると整合性が取とれるのよ」
「天界と地獄が繋がっている? 繋げたのは地獄の神か? それとも堕天使か?」
「それについては今まさに調査中。情報はさらにもう1つ。あなたもすでに知っているでしょうけど、発生している火災の範囲も頻度も現在は大したものではないにせよ、徐々に増してきている。つまり、地獄から漏れ出しているとするなら」
「地獄の業火そのものが、その強さを増してきている……!」
ミトログラフの視線が自然とアインツァーレへと向けられる。
「神が管理しているというのなら、どうしてこの状況を見逃している……! これ以上の天界への被害は看過できない。私が実際に行って確かめさせてもらうぞ、いいな!?」
アインツァーレはちらとメルスレムを一瞥した後、諦めたように目を閉じる。
「お好きにどうぞ」
それを見てミトログラフは苛立たしげに席を立つ。
「……全く。一向に姿も見せず、主たちは一体何をやっているというのか」
独り言にしては大きい声でそう呟くと、入ってきた扉を開けてそのまま出ていく。
ミトログラフの足音が完全に去ってその場を支配しだした静寂を打ち破ったのは、徐に瞼を上げたアインツァーレだった。
「……どうして自ら地獄のことを話したのですか?」
「だって、あんなに可愛がっているところを見せられたらね。妹の死に目に会わせてあげないのは心苦しいっていうものでしょう?」
「ナルヴィアを地獄に落として殺すというのですか。噂の悪魔はここにいたのですね」
「あら、あなたでも冗談言うのね」
「皮肉ですよ」
「ふふ、彼女を地獄に落とすのは私じゃないわよ?」
「では、誰が」
「天使たちに光輪を発生させた黒幕」
「!」
「それよりも」
メルスレムは机に両肘を突き、いたずらっぽく上目遣いでアインツァーレを見つめる。
「ねえ、アインツァーレ。地上に現れた黒い天使ってもしかして」
「……まさか。彼女はもう再起不能のはずです。それに地上側に与する理由が」
「でも、天使を簡単に蹴散らすことのできる力を持っているなんて、あの子の他にいるのかしら」
「……」
「だとしたら、あなたとしてはとっても喜ばしいことね。アインツァーレ」
「そうであったとして、本当に喜んでいるのはあなたたちの方でしょうに、メルスレム様」
細く歪んだ赤色の瞳が透明な机に反射した。