3話
降りしきる雨の中でも、行き交う人々。時折、互いに譲らぬ傘同士がぶつかり、飛沫を飛ばす。
街を照らすライトは確かに昼と錯覚するほどには明るいが、一切の温かみを感じさせない。冷たい街。こんなにも大勢の人がいるのに、互いに無関心。その異常性に誰もが慣れているようで。
人混みの中で感じる孤独に気味の悪さを覚えながらも、それが今のナルヴィアにとってはありがたかった。今は誰にも邪魔されずに情報を整理したい。だが、一人でいると過激派に狙われる可能性がある。こうして周囲に人がいる状況では、過激派もそう自分に手は出せないだろう。そのように思っての行動であった。それも、彼らに人間は庇護の対象だと思う心が残っていればの話ではあるものの、それが違った可能性を見据えて行動できるほどの思考力はもう彼女には残されていなかった。いや、先程の話を聞いて、彼女は全てを信じられなくなっていたのかもしれない。それは紛れもない己のことでさえも。
傘など持っていない彼女はただ雨に濡れたまま、雑踏を歩く。そうした姿に周囲の人間は一度訝しげに目を向けてくるものの、自分に危害が加えられることがないとわかるとすぐにそれぞれの日常へと溶けていく。羽さえ隠せば、見た目は人間とそう大差はないのだ。
周囲の雑音を雨音がかき消していく。自分の思考に集中する。
何が正しくて、何が間違っているのか。
彼らの話の一切をでまかせだと切り捨てるのは簡単だ。そうすれば、彼女は今まで自分が信じてきた道をこれからも信じ続けることができる。天界側が正義で、地上側が悪。実にシンプルだ。
だが、ウルブラータの話は筋が通っていた。そのうえ、自分たち一般の天使たちが口には出さないが、心の奥底で抱えていた小さな小さな疑問。それを彼女は的確に突いてきたことが、真実味を帯びさせた。
『自分たちが信じてきた神とは一体誰のことを指しているのか』
自分のような低級な存在はその詳細を知らなくて良いと知らず知らずのうちに蓋を閉じていた。ただ、そのような存在がいて、その存在に尽くすことが自分たちの使命だと言われ、それだけを信じ続けてきた。その存在は正義に決まっているのだから、必然的にその使命を全うする自分たちも正義なのだと。だが、どういった根拠があって、その存在が正義なのだと思ってきたのかについては改めて問われてみると答えることができなかった。
目を逸らした疑問を土台として積み重なる「今まで」はあまりにも不安定で、疑問を疑問のままにしていた当時の自分の愚かさを今まさに揺らいでいる「今まで」を前にただひたすらに呪うことしかできなかった。
答え。今はただ、信頼できる者からの答えが欲しかった。
オルウェクローレルに与えられる白いローブ。血も水も染み込ませない天界の繊維で編まれたそのフードを深くかぶり、その内側で耳の羽飾りを指先でそっと撫でる。
きっとあの方なら、納得のできる答えをくれるはずだ。正しいのは私たち。間違っているのはあいつらだと。なら、今すぐに天界に向けて羽ばたけばいいはずなのに。それなのに私はただ、唇を噛みしめるばかりで。
結局最後は、優秀な姉頼りか。
その悔しさは吐き気を催すほどで。もう少し、自分で情報を集めてみてみるべきだと心が騒ぎ立てだして。
「──答えに辿り着く手がかりはあなたが持っているんだよ、ナルヴィア」
雨音の中、その声だけが鮮明に聞こえてきた。
急いで振り返り周囲を見渡すが、声の主らしき姿はどこにも見えない。気のせいではない。少女の声がはっきりと聞こえた。私のことを知っている誰か。緊張から、鼓動が早くなっていく。過激派ではないだろう。そうであるなら、こんな回りくどいことをしないはずだ。
答えとは何だ。その手がかりとは何だ。
その瞬間、白いローブを被った誰かが角を曲がっていくのを視界の端で捕らえる。
思うよりも先に体は駆け出していた。
人を押しのけ、路地裏へと入る。暗く狭い路地裏は空気が淀んでいた。
猫避けの水が入ったペットボトル、剥き出しの室外機。こんな陰気臭いところで何を育てているのか疑問を抱かせる横長のプランターと案の定そこに跋扈する雑草たち。それら全てを飛び越え、罅割れて所々が欠けて所在なさげにコードを垂らす看板の下を抜ける。
最終的にその姿を追って転がるように入り込んだ先はカビ臭い廃墟ビル。明らかに手入れをされていない様子がうかがえる。
「誰だ!」
そう叫ぶが、声は静寂に包まれる。数秒の後、その状況にはっとしたナルヴィアは急いで踵を返そうとする。だが。
「飛んで火に入る夏の虫とはまさにこのことだな」
突如、胴体に赤黒い鎖が巻き付き、制御を取れなくなった体は地面に叩きつけられる。
くそ、やられた。こういったことに備えて人混みに紛れていたはずなのに。
目の前には10人ほどの天使たちが現れる。おそらくは過激派の者たちだろう。その内の1人がにやとした笑みを顔に貼り付けながら、こちらに剣を突きつけてくる。
「レグナート様は人質にしろとおっしゃられているが、そんな回りくどいことをしなくてもいい。ミトログラフを殺すために交渉の場を設けるなど、やつらに戦闘の準備をさせる時間を与えるだけだろう。どちらも上っ面の交渉だということは重々承知なんだ。総数の劣る我らには速戦即決がふさわしい。ナルヴィアわかるか? お前が全面戦争の火種になるんだよ」
髪を掴み上げられてくぐもった声が漏れる。
ウルブラータに取り上げられたため、こちらに武器はない。
「天界に真実を伝えて、一緒にアストラーデを倒そうとは思わないの」
「わざわざ真実を教えたとして、それを素直に受け入れる者がいるか? 第一、お前だってまだ受け入れていないだろう。やつらはやつらの信じるべきもののために戦い、こちらもこちらの信じるべきもののために戦う。それでお互い殺されたとしても、それは使命を全うしようとして殺されるということだ。それが、お互いにとっての幸せというもの。それに、渦中の中で真実を知り、やがてはそれが天界中に広まって、ただえさえ少ない祈りの量が減って世界が終わってしまっては元も子もない。真実を知るのはアストラーデを倒し、レグナート様が神に戻って混乱の収束した後でいい」
諦めが混ざったその言葉は、苦悩の末に彼が導き出した一つの結論。いや、ここにいる全員が地上で日夜、激論を交わした末の覚悟なのかもしれない。いずれにせよ、軽はずみではないその考えはそれ相応の重さを伴い、ウルブラータの情報をさらに真実へと色づかせた。
「そう。私はまだ受け入れていない。私はその真実を自分の目で確かめるまでは認めない。だからこそ、こんなところで死ぬことはできない!」
力を溜めるのに十分な時間。両手の掌を床に押し付け、力を注ぐ。徐々に光が溢れ出した床からは徐々に罅が広がっていった。床を崩壊させて逃げるというナルヴィアの考えを察知した天使は振りかざした剣を彼女に向けて振り下ろす。
瞬間。
ビルの壁を破壊し、影が過激派の天使たちに襲いかかる。数はほぼ同数。金属音が響いた後、鍔迫り合いが始まりだした。
「ナルヴィア! すまない、遅れた!」
彼女と同じ、白いローブとその背中に記された特徴的な紫色の十字架。
「オルウェクローレル……!」
ナルヴィアを殺そうとしていた天使は忌々しげにその名を呟く。
「みんな、どうして……ここが……?」
「そんなことは後で良い! この者たちを断罪したらその鎖を解いてやるから待っていろ!」
断罪。
誰が誰を? 誰のために? 何の権限があって?
止めどなく溢れ出してくる疑問。
今はそんなことを考えている場合じゃないだろう。だって、目の前の仲間たちは私のことを助けに来てくれているのだから。それなのに。
「……やめて」
言葉は半ば無意識に外へ飛び出していた。
「何?」
「──隙あり」
予想だにしていなかったナルヴィアの発言に気を取られた天使の隙。その隙を相手は見逃さなかった。
こちらを見つめる仲間の目が大きく見開かれ、その口からは血液が溢れ出す。胸を貫いた剣は暗がりで重く光を反射する。
「え?」
「ナル、ヴィア。どう、して……?」
ずるりと引き抜かれると力なく体が地に落ちる。
「ベルクサンド!!」
叫ぶ仲間たちの声が鼓膜を劈く。
「どうして。あれ、どうして……? どうして私は……?」
心の奥底では自分がよくわかっていた。先程の話を聞いて心が揺り動いている。私はもう以前のように地上の天使たちを憎むことができなくなっている。そんなこと、心に留めておくべきことだ。少なくとも、自分を助けに来てくれた者に対して投げかける言葉ではないだろう。
その間にも、仲間の死に逆上して相手を力任せに殺す者。殺される者。周囲を染め上げる血液の臭気が充満する。それはまるで、あの黒い悪魔に仲間が目の前で殺されていたときのように。
自分のせいでここで戦闘が始まってしまった。自分のせいでまた死んでいく。自分が優秀な姉の妹だから。それなのに、自分がとても弱くて足手まといだから。私がいなければ、天界側も地上側も少なくともここではお互い無駄な血を流さずに済んだだろう。
私に生きている価値ってあるのかな。みんなを巻き込んでしまうくらいなら、いっそ。
力だ。力があれば、みんなに迷惑をかけなかった。逆にみんなを助けてあげられたんだ。
「ああ、神様。どうか。この戦いをやめさせる力をどうか私に──」
結局は神頼みか。でも、その神は。
突如、視界が暗くなる。
「それがあなたの祈りだというのなら、私はそれを叶えましょう」
すぐに理解できた。自分の視界は誰かの手で覆われていること。その人物は後ろに立っていて、今まさに耳元で囁いていること。そして、この声はビルに入る前に聞いた少女の声だということ。
……その正体は過激派の天使だったのか? でも、それならどうして戦わずに私の目を塞いでいる?
「想像してみて。あなたがどのようにしてこの戦いをやめさせるのかを」
「何が目的だ! この手をどけろ!」
「どけてどうなるの? 今のあなたに何かできることがあるの?」
「……っ!」
「これまで、誰かに守られてばかりだったんだよね。だから、今度は自分がみんなの力になりたいと、そう思い続けてきたんでしょ? 今、それを叶えられるチャンスがあるんだ。あなたの行動一つでこの状況は一変する。何もしなければ、このまま戦いは続いていくだけ」
果たして、敵か味方か。その間にも鳴り続ける金属音。
こんな甘い言葉に縋るしかない自分に心底嫌気が差した。だが、迷っている暇はなさそうだ。万一でも可能性があるならば。
想像した。私がこの戦いをやめさせた光景を。どのようにやめさせるか。一番温和なのは、この場にいる全員を気絶させ、どちらか一方を別の場所に運ぶとかか。それには、どうやって。
『あなたが、私たちの希望なの……!』
違う!
私が今想像しなければならないのは、自分の力でこの戦いをやめさせる方法だ。どうして今、ビオラルタのことが。自分の力で。そうだ、誰の力でもない自分の力だ。他者を圧倒するほどの力。
そう、それはまるであの黒い悪魔のようなものでもいい。要はその使い方なのだから。
頬にびっと生暖かい何かが付着してきた。なんとなくは想像がつく。これは血だ。血……。血……?
『化け物』
それは、時間にすれば1秒にも満たないほんの一瞬であったが、私は想像してしまっていた。その光景を。あまりにも圧倒的な力が巻き起こす惨劇を。味方が次々に殺されていったあの出来事を。
視界が開かれる。先程とは正反対のあまりにもうるさい静寂が、私の脳内を揺さぶって。
「嘘だ」
「嘘じゃない」
床に広がる血溜まり。壁にこびりつく肉片。その場で戦っていた誰もが、頭部を失ったまま。
「これがあなたの望んだ、戦いをやめさせる力だよ」
そう言って、その場にへたり込む私を笑顔で覗き込んでくる声の主は、
────私と同じ顔をした天使だった。