20話
よろけながら数歩進んだ後、地面に片膝を突いてしまう。
まだだ。まだ、倒れてなんていられない。アストラーデに渡さなければ。彼女に自分を取り戻してもらわなければ。こんな悲しみで回る世界を終わらせなければ。そのために、これまで犠牲を重ねてきた。弱い自分がその道を見失わないために。世界を終わらせるのには直接関係ない犠牲。わざわざ切り捨てなくてもいいはずの命を切り捨てて。
きっと、自分だけなら挫けていただろう。実際、あのときに挫けていた。それを助けてくれたのは他ならぬあなたの娘。彼女にも間違いなくあなたと同じ血が流れていると確信できた。あなたたちには救われてばかりだ。
アルマフィアが地獄の業火から出てきたとき、周囲の様相は一変していた。
中心にある地獄の業火を取り囲む形で展開されていた地獄はいまや見る影もない。平らに均された地面にはいくつもの建物が建てられ、一つの街が築き上げられている。さらには、上へと立ち昇っていたはずの業火が地面や建物へと移り、横にも燃え広がりつつある。つまりは、この街一帯が地獄の業火に包まれていた。
そして、彼女にとってここはひどく見覚えのある場所だった。
天界。もっと言えば、天界の上部に位置する神域。かつて神々が住んでいたその場所。
しかし、どうやら彼女は地獄から天界に飛ばされてきてしまったというわけではないらしい。神域のところどころには地獄の要素もうかがえたからだ。すなわちこの現象は天界と地獄が融合したことによって発生した可能性が非常に高い。あまりにもかけ離れたその二箇所が融合することなど通常ではあり得るはずがなく、そもそもあり得てはならない。そんな常識の範疇を超えたことを可能にする力を彼女は知っていた。
メギドライト。
世界の欠片であるその力を行使して保有者の誰かがこの状況を作り出したのだ。
では、誰が何の目的でこのようなことをしたのか。
天界と地獄を融合させることが明確に利となる者がいる。それはアルマフィアだ。彼女の目的は神域にいるアストラーデに心を返すこと。しかし、彼女はこの状況を引き起こしていない。そうであれば、彼女は「地獄の門を開くにはベルゼナーグと回路が繋がっている者とメギドライト保有者がその者たちを除く天使の血を所持している状態で接触する必要がある」という彼が世界に定めた規定に則り、ナルヴィアと接触を図る必要がなく、地獄に来てからストラに守らせる必要もないということになる。
であれば、次に浮上してくるのはアルマフィアに与する者が引き起こした可能性であるが、その答えは彼女の身に起きている状況が物語っていた。
はっきりと抱けている自分の感情。その違和感に気付いたアルマフィアは恐る恐る頭上を見上げた。
「雨……?」
いつの間にか雨が降っていた。天界にも、地獄にも降るはずのない雨。
「いや、これは──」
祈りだ、と彼女は口の中で呟いた。それも、純度100%の祈り。雨と見紛うほどに冷たいそれは、本来であれば天界に吸い上げられ、神の力に変換されるはず。なのに、それらは変換されることなく、祈りのまま降り落ちる。例えるならそれは、立ち昇る蒸気を塞ぐ蓋からやがて水が滴り落ちてくるように。
これでは世界を存続できなくなってしまう。諦めて終わりを受け入れたのか? いや、そんな訳がない。だとすればこれは。
──ここで自分からメギドライトを奪うことのできる確信を抱いているということ。
不穏にざわつく心。警鐘はたちまちに身体を駆け巡る。
おそらくは、アストラーデという自分の希望を崩すための何か。だが、自分や彼女をどのような状態にしようと、傷は世界が修復する。心さえ取り戻せば、彼女は自分を取り戻せる。
不安と期待。本来相反するはずのそれらは混ざり合って、アルマフィアの息を詰まらせていく。
今までの動向からすれば、アルマフィアは万が一に備え、一歩引いた形でその期待を抱いていたはずだ。その期待が裏切られたときのことまで想定していたはずだ。しかし、彼女はその期待に信頼を寄せていた。もちろん、発露する不安を押し潰すことはできなかったが、それに思考を割くことはせずにいた。
彼女がその期待に盲目的に縋ろうとするのには訳があった。そもそも、彼女の心は何の支えもなしに、万が一を想定した行動を取れていたわけではない。
何も疑わずに縋れる希望を一つ抱いていたからこそ。揺るがないと思い込んだ心の支えがあったからこそ、彼女はそうした行動を今まで取ることができた。彼女の注意深い行動の前提にはいつだって、必ず叶うと信じていた純粋な思いがあった。
信じるものが一つあったからこそ、彼女はそれ以外の全てを一歩引いた疑いの目で見ることができたのだ。
それがわかれば、彼女の心を折る方法などなんと容易いことか。
──そのときのために、彼はこれまで入念に準備を進めてきたのだ。




