19話
「ねえ、嘘でしょ。ねえ」
ベルゼナーグと別れたミトログラフは見つけたナルヴィアに声をかけるのを逡巡した。
ナルヴィアの目の前には崩落して来た岩が重なるようにして積み上がる。その岩下から覗くのは髪と指先。そして、そこから赤い血溜まりが今もその範囲を拡大させていく。
「あんたどうして私のことを庇ったの……」
自分の意思とは無関係に涙がぽろぽろと頬を伝い落ちていく。
「何が『多少は守ってやれるかもしれない』よ! それで自分が死んだら世話ないじゃない!!」
悲痛な叫びはその行き場を失ったまま虚空に溶けていく。
「──また、救われた……私は、誰も救えていないのに……」
小刻みに震えながら、背中をさらに丸め込むナルヴィアは残るもう片方の羽飾りを乱雑に引き千切り、強く両手で握りしめる。
「私は恥に恥を上塗りして!! 醜く生き延びさせられて!! それでも結局、私はこうして自分の無力さを呪うことしかできない。なら、私がこの世界にいる意味なんて!」
そして、ただひたすらに謝罪をするように地に額を押し付ける。
「もう、目の前で誰かが死んでいくのを見るのは嫌なんだよ……」
ミトログラフは下げようとした手を意を決してもう一度伸ばす。
「ナルヴィア……」
その声に体をびくりと震わせたナルヴィアの恐る恐る背後に向けた目が大きく見開かれる。
「お姉様……?」
「ああ、そうだ」
「ほん、とうに……?」
「ほんとうだとも」
「おねえ、さま……」
立ち上がりよろけながらも胸元に倒れ込むナルヴィアを優しく抱き止める。
「お姉様、死んじゃった……。彼は、レグナートは。地上にいた天使だけど、元は神様で。今まで敵だと思ってたのに、私のことを助けてくれて。私のことを庇ってくれて……」
「そうか」
「私、もうわからないの。私たちは一体何と戦っているの? 悪いのは誰なの? 何を信じればいいの?」
そんなこと、こちらが聞きたいくらいだと彼女は思う。しかし、憔悴しきったナルヴィアの姿を見て、それを口にする気は起きなかった。
「とりあえず、お前が無事で良かったよ」
今ただ、そんな慰めの言葉をかけることくらいしかできなかった。彼女の言葉で思い返すのは世界の事情を知らなかったこと。組織への離反。
安堵させるためだとはいえ、自分たちが正義だとは口にすることができないと思える自分に少しの安堵を覚えた。私の知る私は確かにここにいるのだと。
「本当は私にはこうしてお姉様と言葉を交わす資格すらないのに、弱い私は未だにお姉様に救いを求めて。私は誰かに迷惑をかけっぱなしで。もういっそ消えていなくなってしまったほうが」
それを聞き、背中へと回す腕に力が入る。
「ナルヴィア、私はお前に迷惑をかけられたと思ったことはない」
顔を上げるナルヴィア。怯え、罪悪感。彼女の抱え込む負の感情。その全てが瞳を震わせる。
「だって私、仲間たちを殺しちゃったんだよ……?」
「知っている。知っているさ。だが、お前はアルマフィアにそうするように仕向けられていた」
「違うの、私が」
「安心しろ、今は私も組織を追われる身だ」
「……え?」
「お前を一人にはさせないさ」
「グィアンツェ様、発見いたしました」
上方から聞こえてきたその声に目を向けると、彼女たちを円上に取り囲みながら降り立つ天使たちがいた。自らと同じ白いローブに身を包んだ彼らの顔を見ても、不思議と焦りはなかった。
「お前たちも来ていたのか」
緊張を解きほぐすような印象を与えるほど、自分の声色は落ち着いていた。いや、落ち着き過ぎていた。観念したのとも異なるそれはこの場には似つかわしくなく、逆に不気味さを与えるほどで。
取り囲むその中で、すらりと伸びた長身の天使。ああ、よく見知った顔だと、もはや懐かしさすら感じだした自分に思わず自嘲してしまう。
「何がおかしいのですか」
「おかしい。おかしいさ、何もかもが。そんなこと、とうにわかりきっている。でも、こうするしかなかった。他の誰かの責任にするつもりはない。これは紛れもなく、私の選択だからな」
「お姉様……?」
向けられるのは明らかな敵意の視線。
「ナルヴィアを庇うためにあなたは組織を裏切り、同じように仲間を殺したのですか」
「ああ」
「助けたその先であなたはどのような未来を思い描いているのですか」
「……」
「居場所のないこの世界であなたは一体どこに帰るおつもりですか」
そう言い放ち、剣を抜く彼ら。
始めは遠ざけるために離反したつもりだった。それがどうして、こんなことになってしまったのか。
それもこれも、自分の選択だ。言い訳するつもりはない。メギドライトをヴィディゼアポロから受け取ったあの時から、私は私の歩みを進めているに過ぎない。
どちらも救えるほどこの手は大きくなかった。ただ、それだけのことだ。
すり減りながらも歯車は回り続けるだろう。これまでも、これからも。
「我らは御身の名のもとに正義の剣で悪を絶ち、善を庇護する者なり」
つい先程までは自分もあちら側であったのに。
「──これより聖罰を執行する」
皮肉な話だと、彼女は嗤う。
目の前で戦闘を始めるミトログラフとその部下たち。その情報を処理しきれないナルヴィアは立ち尽くすことしかできずにいた。自分が加勢しても姉の足手まといになることはわかりきっていたうえ、そもそも加勢するほど彼女を突き動かすほどの理由は、どれほど探しても自分の内には見つからなかった。
仲間を殺した自分が裁かれるのは当然のことだ。
本来であれば、姉も自分を裁かなければならないはずなのに。それなのに、組織に背いて。さらには自分と同じように仲間を殺しただと? どう考えても組織とナルヴィアを天秤にかけたところで、自分に傾くはず結果にはまずならないはずだ。
正常な思考ができなくなっているのか。もはや、狂っていると言っても過言ではないその判断。そして、眼前に広がるその結果はもはや吐き気を催すほどの惨憺さであった。狂わせたのは自分なのか。自分のせいで彼女は組織にとっての悪に。
そして、姉はさらにその手を罪に染めようとしている。他ならぬ私のため。そう思ってしまうのはもはや自惚れと表現するにはあまりにも冷たく、鋭く、重く。
これ以上自分のために姉を苦しませてはいけない。
ようやくその結論に至ったナルヴィアは駆け出そうとする。しかし、その瞬間背後から羽交い締めにされ、口は手で塞がれてしまう。
「ナルヴィア!!」
ミトログラフの叫び声が響き渡る。その声にオルウェクローレルらも彼女への攻撃の手を止めてその視線を辿った。それはつまり、彼らにとってもこの状況は想定外であったことを物語る。ならば、この場に現れる勢力など、わかりきっていた。
「堕天使どもめ……!」
オルウェクローレルの一人が呟く。
「目標確保!」
「ちっ!」
数人の地上の天使たちはナルヴィアを抱えて飛び立つ。おそらくはミトログラフとオルウェクローレルが争うこの機会を隠れて伺っていたのだろう。だが、彼らもまた、どのようにして地獄へやってきたのか。
その疑問は遮られてしまう。目の前を通り過ぎる曇りなき一閃によって。
「今あなたが相手にするべきなのは目の前にいる私たちでしょう」
「──!」
「先程の冷静さが嘘のようですね」
「……やる」
「何でしょうか」
「見逃してやる」
「……?」
「全員殺すつもりだったが、話が変わった。見逃してやる。私はあいつらを追いかけなければならない」
「これほどの人数に囲まれてよくそんな言葉が吐けますね。追い詰められているのはそちらです。死ぬのは私たちではなく、あなただ」
それを聞き、ミトログラフははっとする。そして、次第に表情からは焦燥は消え失せ、じわと狂気の混じる笑みが滲み出していく。後には肩を震わせるほどの笑い声がその場を支配する。
各々雑音に塗れていたその場の心は次第に一つの覚悟へと収斂していく。彼女は完全に正気を失っている。ここで殺さなければならない。それが彼女を救うことにも繋がると信じて。
「すまない。別にお前たちのことを馬鹿にしているわけではないんだ。とはいえ、私は勝つことを諦めたわけでもない。いやなに、この期に及んでまだ私はお前に助言されるとはと自分の運命を呪ったまでだ」
「……私は解せないのです。あなたほどであればこの結果になることはわかりきっていたはず。それなのに、どうしてこの選択をしたのか。きっと、あなたは私たちが思っている以上のものを背負っていたのでしょう。ですが、結局それはどのようなものなのかあなたは私たちには教えてはくださらなかった。あなたが側近にしてくれた者たちでさえも。正直に言うと、今でも私はあなたへの信頼を捨てきれずにいる。ですが、あなたは同じように全幅の信頼を置いてはくれていなかった。背負う重さをみんなで分かち合うのが仲間というものではなかったのですか。あなたは私と、オルミーネと、バックガムと、アスタリアとのあの地上での日々を忘れてしまったのですか!」
「私は随分と部下に恵まれたようだ」
信頼をしていなかった訳ではない。むしろ、信頼していたからこそのこの結果なのだと思いながら彼女は自分の腰に手を伸ばす。
「私たちは何も知らなかった。一度組織のトップになった私でもこのザマだ。覚えているさ、お前たちと過ごした日々は。目を閉じればすぐにでも浮かんでくる。……始めからこの結末が決まっていたのなら、私はこんなもの積み上げたりはしなかった。だが、私たちはここにいる。紛れもない自分の意志で。選んで、選んで、選び抜いてここにいる。そして、それはこれからもそうだ。自分の未来を自分で選んでいく。どれだけ後悔をしようが、過去のことは取り返しがつかない。私はナルヴィアを救うことにした。何よりも、誰よりも優先してな。そうせざるを得なかった状況であったことは認めよう。だが、いつだって最後には私は自分の意思で選択をしている。だから、私は責任を持たなければならない。そう、だから」
緊張の糸が張り詰めていく。ごくりと誰かが息を飲む音が聞こえてきた気がした。
取り出したのは短刀。それは、かつて地上で過ごした側近にも渡しているのと同じもの。
「何、を……」
握ったそれを自らの側頭部に添える。
「この選択したのはお前だぞ、総司令官」




