16話
揺らぐ意識。酩酊にも似た浮遊感を身に受けて、若干の吐き気を催す。回転する世界が徐々にその速度を落としてきた時、まずは聴覚、次に触覚と感覚を取り戻していく。最後に目を閉じたときと同じくざあと降りしきる雨をその身に受けて、私はこの世界に戻ってきたことを実感した。どうやらここは死後の世界ではないらしい。ということは、私は意識を失っていたのだろうか。
胸のあたりに感じる重みに身を捩ると、ずるりと滑り落ちるその慣れない感覚。
「え……?」
目を開くと、先程剣を振りかぶった彼女が私にもたれかかっていた。だが、様子がおかしい。あまりにもぐったりとしている。眠っているだけなのだろうか。
ずり落ちていくその体を半ば反射的に抱きかかえるように支えた。ふと見ると、抱えた自分の腕が真っ赤に染め上げられている。その正体は彼女の胸から溢れ出している鮮血。それが雨で滲みながら自分の腕を伝っていた。
焦燥がぴりと肌を駆けずり回りだす。やけに不自由だと広げようとした掌には、持っていたことを今まで忘れていたほど自然に馴染む感覚。
「嘘だ」
それは赤に塗れた剣。間違いなく先ほどまで私の指先に触れていたものだ。
「違う」
かちりとパズルのピースが嵌まる音が頭の奥で響く。鼻孔を突く生臭さはやけに重さを孕んでいて。事態を飲み込み始めた私の瞳はただ震えながら、その口元から垂れゆく赤を映すことしかできなかった。呼吸が次第に浅くなっていく。
せり上がる雑多な感情が喉に詰まり、上手く吐き出すことができない。意識を失っている間に私が行ってしまったのか。べっとりとへばりついた現実が拭いきれない。
『体に染み付いた経験は消えず! 武器を持てばお前は一瞬であのときのお前に戻る! お前はそのときのことを覚えていないだろうがな! 記憶を失くしても戦えるお前は死ぬまでこちら側の都合のいい兵器にせざるを得ない! わかるか!? だから憎まれているお前は今もこうして生きていられる! 生かされてんだよ!』
彼は真実を語っていた……? なら、あのときの私とは……?
『殺してきた神々からの呪いで記憶を失くしたくせに!』
「そんなことがあるわけ……ぐっ……!?」
忘れていた体への苦痛が首をもたげだす。頭が割れるように痛い。倒れ込む私の体。次第に薄れていく意識。身体機能の急激な低下に伴うそれは、今後こそ確実な死を予感させる。これが、神々の呪いだというのか。私が神々を殺したから、この苦痛を受けてきたというのか。記憶を失ったというのか。なら、彼らの私に対する言動は全て当然のもの……?
「はぁっ……はぁっ……!」
自然と溢れ出る涙も雨に紛れゆく。
私があの世界で思い込んでいた役割とは何だったのか。私の存在理由は何だというのか。
なら。なら……。
なら、あの世界で生きてきたこの私は一体、誰だ……?
だが、その疑問すらも遠のく意識とともに薄れていく。
「このまま、死にたい?」
何とか瞼を上げると、私に胸を貫かれていたはずの彼女は立ち上がって、こちらを見下ろしていた。そこで、私は衝撃の光景を目にする。彼女の胸の傷がみるみるうちに塞がっていき、最後には何もなかったかのように完全に癒えていくのだ。
「自分のことを知らないまま。何者でもないまま。何者にもなれないまま」
溶けていく。私が。私であったものが。私だと思っていたものが。
途端に自らの内に湧いてくるのは、生への執着。だって、そうだろう。こんな終わり方はあんまりだ。納得できるわけがない。こんな最期を迎えるために、私はあの苦痛を耐えてきたわけじゃない。私は私として最期を迎えたい。
「死にたくなければ救いを求めなさい」
嫌だ。
「祈りなさい」
こんなところで。
「さすれば、救いを与えてあげましょう。他ならぬこの私が」
私はまだ。
「……す、けて……」
彼女のように生きていられる方法があるのなら、それに縋りたいと思ってしまった。溢れ出る感情。地面に這いつくばり、助けを乞う私の姿は彼女の目にはどのように映っていたのだろうか。寂しそうに微笑みながら、しゃがんでこちらに顔を近づける彼女。そこで、私は初めて気が付いた。
────彼女がずっと泣いていたことに。
そっと唇を奪われる。数秒の後、吐息とともに離れると彼女は私を抱きしめた。
「これで世界はあなたを生かす」
失われてもう戻らないはずの力が体の奥底から湧いてくる。体の節々の感覚が戻っていく。ああ、誰かに抱きしめられるのはこんなにも温かいものだったのか。
「……どうして私のことを助けてくださったのですか」
「違うわ、私はあなたのことを助けてなどいない。あなたを本当の意味で助けるのであれば、私はあなたをあのまま死なせてあげるべきだったから」
「それはどういう」
「私があなたに与えたのはメギドライトという世界の力の欠片。保有している者はどれほどの傷を負っても、世界がそれをなかったことにしてくれる。あなたも先ほど見たでしょう? あなたが私に与えた致命傷でさえも、世界はなかったことにしてくれたのを。保有者が死ぬことはよほどの例外がない限りはまず死なない。でも、ごめんなさい。あまりにも積み重なり過ぎた神々からのその呪いだけは世界といえど、許容量を増やしたり、侵食の速度を遅らせることはできても、完全に消すことはできない。あなたはここで死ぬことを許されず、体を蝕むその呪いでもう少し苦しみ続けることになる。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい……。あなたは何も知らないままここで終わりを迎えていれば幸せだったのに。あなたはあなたでなければ、幸せでいられたのに。それなのに、私はあなたが死にたくなくなるように誘導した。卑怯だよね。許せないよね。憎いよね。悪い神様でごめんなさい」
「どうしてそのような力を私に……?」
「それでも、あなたにはここで死んでもらうわけにはいかなかった。あなたの存在は彼女が自分を取り戻すこの上ない一助となる。でも、結局はそれも私の我儘なんだ。終わってしまうこの世界で何をしても無駄なのに、あなたを苦しませてでも私は彼女に自分を取り戻してもらいたかった。そうすれば、きっとみんなの苦しみを和らげてあげられるはずだからって」
「あなたは、一体……」
「私はこの世界の敵。私はあなたたちのために、この世界の敵にならないといけない。そう、思ってる」
「世界の、敵……」
「このまま何もしなければこの世界が終わってしまうなら、それを防ごうとすることは当然のこと。たとえ誰かが世界を維持するために犠牲になってしまうのだとしても、それは仕方のないことだと割り切れるかもしれない。少数を切り捨てることで、終わりそのものを防げるのなら、それは全体にとってはプラスなことだから。最悪な事態を防げるもの。でも、どれだけあがいたところで、この世界の終わりが確定しているのを知っているとね、そんな風に思えなくなってしまうの」
「……」
彼女は自分の体を抱きかかえ、その身を震わせ始める。
「途端に少数を切り捨てて無理矢理に世界を維持させるその方法が醜く見えてしまう。どうしても切り捨てられた者たちに焦点を当ててしまう。だって、どうせ終わってしまうのなら、誰かが無駄に傷付く必要はないでしょ? だから、私はなるべくみんなが苦しまないまま終わりを迎えてもらいたい。でも、世界が終わることを知っているのは自分だけ。言っても素直に信じてもらえるわけがない。世界の担い手はすでに人間に移りつつあることを許せないと、あくまでも自分たちが世界の担い手だと主張し続ける彼らに。でも、彼らだって何も悪くないことはわかってる。みんなただ、生き残るのに必死なだけなんてことは。だけどさ、彼女なら。優しい彼女なら、もしかしたらって思ってしまうんだ。こんな冷たい祈りで回っている世界を許さないんじゃないかなって。弱い私はこの期に及んで、そうやって誰かに縋って、揺らぐ自分の意思を抑えつけようとした。結局のところ、それでもまだ足りなかったんだけど。だからこうやって、
────憎しみの炎で自分の弱い心を燃やし尽くしているんだ」
そう言うと、その体が業火に包まれるが、たちまちにその強さは弱まっていく。
「それも、こうした冷たい祈りで勢いが弱まってしまうと出てきてしまうの。この雨には冷たい祈りが含まれているから。これは、世界の敵である私に対するもの。私の心を折って、絶望させるためのもの。その思惑通り、何度も挫けそうになった。でも、私は絶望だけは絶対にしてはいけない。それをしたら、世界はもっとめちゃくちゃになって終わりを迎えることになってしまうから。そんなこと、無理矢理に世界を維持させるよりも許しちゃいけない。だから私はこの世界のため、できるだけ苦痛を感じないみんなの終わりのため、どんどんあなたたちに自分のことを憎ませる行動をしなければいけないの。でもさ、これっておかしいよね? 矛盾しているよね? だって私は少数を切り捨てるやり方、つまりはみんなが苦しむのが嫌だから世界の敵になる覚悟をしたんだよ? それなのに、いつの間にか自分を憎ませるために、誰かに苦痛を与えないといけないなんて! 最悪な事態を防ぐために誰かを切り捨てるようなやり方、結局彼らと何も変わんない! 全員を救うことができないからって能動的に起こす少数の犠牲で残る多数を救おうとしてる! みんなを苦しませたくないって目的は何も変わっていないはずなのに! ……全ては私の心が弱いからいけないの」
雨。それはあの世界にいた私のことを救ってくれた唯一の存在だった。けれども、そんな私にとっての救いが誰かにとっての苦痛になるなどとは思いもしなかった。そのことに気付かせてくれた彼女を私はどうしても悪者だと思うことはできずにいた。
「もう、自分でも何がなんだかわからなくなってる。私がしているのは正しいことなのか。間違っていることなのか。自分は何を信じてきたのか。何を信じ続ければいいのか。でも、決まっているから。世界の終わりは確定している。それだけは揺るがないから! ごめんね。いきなりこんな話をされても、何が何だかわからないよね」
彼女が話している内容は今ひとつ理解ができなかったが、彼女はが苦しんでいることだけは理解できた。だから、私は彼女のために一つ質問を投げかけることにしたのだ。
「……みんなが苦痛なく終わりを迎えた先にあなたの幸せはあるのですか。それをすればあなたは救われるのですか」
「みんな消えちゃうんだよ、幸せなんてあるわけないじゃない……」
「なら、あなたはどうしてみんなが苦痛なく終わりを迎えられる道を望んでいるのですか。それをするせいであなたは今もこうして苦しんでいるというのに」
「……」
「お優しいのですね、随分と」
「ねえ、憎いでしょ! 私のことが! 呪いで苦しみ続けることを知っていながらあなたにその力を与えた私のことが! じゃあ憎んでよ! 私のことを! そうすれば私はこんなことを考えずに済むんだから! お願い、私のことを憎んでよ……」
「憎まれることが、今のあなたにとっての救いなのですね」
この反応から推測するに、彼女の目的と私が彼女を憎むことはどちらも妨げなく両立するのだろう。なら、彼女はより私を憎ませる方法を取れたはずだ。例えば、私が最初にこの場所で意識を取り戻したとき、私の手には剣が触れていた。これはつまり、彼女と会う前に私は誰かに武器を持たされ戦わせられていたのだろう。
その相手、その結果は考えるまでもなく、その場が物語っていた。周囲に転がる無数の天使たちの死体。私は立ち上がったことで初めて気が付いた。この状況を利用すれば、彼女はもっと自分のことを憎ませるように仕向けられたはず。なのに、それをしなかった。いや、できなかったというべきか。それほどまでに彼女は追い詰められていた。それは、彼女の事情を把握しきれない私でさえもはっきりと感じ取れるほどに。
本当なら、この場で取り乱すべきは私のはずだ。あの世界から放り出されたかと思えば、自分の存在理由を否定され、思い出すことのできない過去で自らが背負った罪とこうして強制的に向き合わせられる。だが、自分以上に取り乱している彼女を見て、不思議と私の頭は冷静さを取り戻していた。
「私はあなたのことを憎んでなどいません。あなたは間違いなく私のことを救ってくださったではないですか。今私がこうして笑えていることがその証明です」
「そんなこと、私は……」
「私に温もりを与えてくれた」
「違う! それは神々の憎しみの炎がこの身を燃やしているからで!」
「あなたは冷え切っていた私の心をこうして温めてくれた。他者からの温もりを思い出せない私はそれに間違いなく救われたのです」
「でも、あなたは死ぬことも許されないまま、呪いに身を蝕まれ続けて!」
「それは元々、私の起こした行動の結果です。あなたが気に病む必要はありません。むしろ、私は感謝をするべきです。このまま自らの罪と向き合わないで幸せに最後を迎えるなど、それこそ許されて良いはずがありませんから。……私の心がどこにあるかとあなたは尋ねましたね。今の私にならわかります。きっとストラスヘレナの心は過去にあります。神々を殺さなければならなくなったその時に私は私の心を捨てたのです。それからこうしてあなたと会うまでどんな不具合か、こうして再び芽生えてしまったこの心は、無意識のうちに防衛機制によって作り上げた都合のいい役割を演じている自分に酔っていた。そのことにあなたが気付かせてくれたおかげで、「この」私は初めて自分の意思で道を選ぶことができるようになりました」
「どうして気付かないの。あなたは私に利用されているのに……」
「なら、どうしてあなたは泣いているのですか」
無言でうつむく彼女に今度は私が腕を回す。
「自分の全てをなげうって、世界のために身を捧げるというその目的は素晴らしいことだと思います。ですが、それをなし得るにはあなたはあまりにも優しすぎる」
彼女は大きく目を見開き、震える瞳でこちらを見つめる。
「あなたこそ気が付きませんか。私のこの感情に」
「ぁ……」
「あなたの物差しで私の不幸を決めつけないでください。私は今十分に幸せです」
「ぅ、ぅう……」
「あなたは私を救ってくださいましたが、私はあなたを救うことはできません。私は天使なのですから。それも、神々を殺した天使であるならば、そんな者に救いを求めるのは間違っています。けれども、私のこの心は、世界に自らの全てを捧げているあなたに身を捧げたいと叫んでいます。あなたが私を利用したいのなら、喜んで私はそれを引き受けましょう。あなたが戦えと命じるのなら、血濡れた私が代わりにあなたの刃となりましょう。あなたが憎まれるための行動をするのなら、私はこの世界で唯一それを肯定しましょう。私は呪われ、あなたは憎まれ。ちょうどいいではないですか」
「できるのかな、こんなに弱い私なのに。私は怖いの。怖いんだよストラ」
そう言って子どものように泣きじゃくりながらも、彼女は力強く抱きしめ返してくる。
「できますよ、二人なら」
強く、強く二人の絆は今ここで結ばれる。
「……確かに今のあなたなら、武器を手に取ってももう意識を失わないはず。あなたはあなたのまま、本来のストラスヘレナとしての力を用いて戦い続けることができる」
「ともに苦しみ、この世界にとっての悪を演じながら、世界の終わりを迎えましょう。ねえ、
────優しい優しい私の神様」




