12話
第二階層。洞窟のような暗がりの中、壁を背にして意識を失っていたミトログラフは目を覚ます。失くした左腕を見るが、依然として再生する様子はない。後頭部を壁につけ、見えない空を見上げながら息をついた。
ナルヴィアを取り返すにはあのストラスヘレナをどうにかしなければならない。だが、突破口は見えた。神々からの呪いで苦しんでいるやつはそれほど長い時間戦闘が継続できるわけではないことは先程の戦いで理解した。そこまでなんとか時間を稼ぐことができれば。
「ナルヴィア……」
目を閉じれば思い出すのはお互いの羽を交換したあの日のこと。彼女がオルウェクローレルの総司令官に任命されたとき、置いていくナルヴィアに寂しい気持ちにさせないように提案したのだ。
ヴィディゼアポロから話を聞いたとき、オルウェクローレル、ひいては天界とナルヴィア。どちらを救いどちらを捨てるのか、自分の立場を決めるように強く言われた。そうでないと、これから起きる事態に何もできず、結局どちらも取りこぼし、救うことができないまま酷く後悔することになると。どちらも救うことは不可能なのか。そう尋ねたが、彼女は首を横に振るだけだった。
正直な話、彼女はどちらを取り、どちらを捨てるのかを決めかねていた。だが、アインツァーレとの戦闘を経て、強制的にナルヴィアを救う方向に話が進むことになった。アインツァーレへの不信感。それは確かにナルヴィアの方へと天秤を傾ける要因にはなったが、決定的なものではない。あくまで彼女はアインツァーレとの話の流れに身を委ね、その結果でナルヴィアを選ぶことになったのだ。責任感の強い彼女はどちらかを自分で選ぶことができなかった。これまで積み上げてきたものを自分の選択で全て捨て去ることがどうしてもできなかった。それは、彼女の立場ならではの葛藤。ならば、どちらも救おうとする選択肢、それを選べば問題ないと思われるかもしれない。
だが、ヴィディゼアポロの話には妙な説得力があったのだ。それは彼女の目に起因する。これまで失ってきた多くのものから目を逸らさないまま、これから先を見据えている、覚悟を決めた淀みない芯のあるあの目。目はその者の本質を語る。彼女はこれまでの経験からそう確信していた。
結果的にナルヴィアを救うことにはなったが、酷い姉である事実は変えられないと彼女は自嘲する。彼女を捨てる未来もあり得たのだ。即決できなかった自分に吐き気さえ覚える。だが、これでよかったのだ。この呪いのような苦しみは彼女が彼女でいる限り、これからの行動を縛り続ける。揺るがない決意。即決ではないが故のその強固な決意があればこの先も彼女は姉で居続けられるのだから。
さて、道筋を決めたのなら、あとはゴールまでひたすら走り切るのみだ。ナルヴィアを救うため、さらには部下たちを守るため、彼女は天界を敵に回す。
「あらあら。随分なやられようね、ミトログラフ」
「メルスレムか……。まさかお前が直々に裁きを下しに来るとはな」
「私だけじゃないわよ」
彼女の後ろからは、かつての仲間二人が姿を現し、ミトログラフの痛々しい姿を見て息を呑んだ。
「誰が、こんなことを……」
そんなアスタリアの疑問をかき消すような形で自分の声を重ねる。
「ちょうどいい、メルスレム。お前にも一つ聞きたいことがあったんだ」
「何かしら?」
「お前は以前、地獄で業火を見たことがあると言っていたな。だが、地獄に行くには条件を満たしている必要があるはず。そして、その条件上、この人数を連れてくるのは無理なはずだ。その時といい今回といい、お前はどうやってその条件を潜り抜けた? お前は何らかのかたちで、
──地獄の神と繋がっているんじゃないのか?」
「繋がっていたら、何か問題でも?」
あっけらかんと彼女は言う。
「ならば、お前は地獄の存在意義について知っていたはずだ。それに、地獄の業火がその強さを増し、なおかつ天界に溢れ出ている理由についても心当たりがあるんじゃないのか。どうしてそれらをあのときに説明しなかった」
「さあ、何のことかさっぱりね」
「そうか、残念だよ。お前の目の奥にあるその愛は天界の神に向けられたものだと。私とお前の間には思想の違いはあれど、守りたいものは同じだと、そう思っていたんだがな」
それを聞いたメルスレムの表情から余裕のある笑みが完全に消え失せ、今までとは一変した冷たい目線が向けられる。
「ただの天使であるあなたに何がわかる」
「ただの天使か。確かに天使へと身を窶しているお前とは違うな」
「ええ、そうよ。あなたは結局ただの天使。悪いことは言わないわ、メギドライトを手放しなさいな。それは本来世界の担い手である神が保有すべきもの。天使であるあなたに馴染まないのは当然のこと。失ったまま再生しない左腕がその証明でしょう」
「ナルヴィアを救うそれまでの間だ、許せ」
「私はね、あなたのことを認めているのよミトログラフ。あなたは優秀な天使だった。これまで関係を築けてきたよしみだからこその最後の忠告よ。手放さないと、あなたは取り返しのつかないことになる。死ぬ以上に悲惨な未来を迎える」
「ストラスヘレナ。お前は知っているんだろう? やつもまた、死ぬ以上に悲惨な状態だった。それでも、アルマフィアのために立ち上がろうとするその姿は敵ながら見事の一言に尽きる。ならば私も負けられない。弱音を吐かずに、覚悟を決めなければならない。そう感じてしまったんだよ」
「彼女には半分神の血が流れている。だから、完全ではないにしろ、彼女にメギドライトは適合しているの。けど、あなたは違う。元が神じゃない純粋な天使であるあなたでは、世界がその体を修復したときにきっと副作用が──」
「すまないな、それでも私は進み続ける。私は私の行動に責任を持たなければならないんだ」
そう言い残すと、ミトログラフは手に持つ剣を上げて刃を自らの首筋に当てる。そして、困惑する彼らの表情をよそに、勢いよく刃を肌に沈ませた。
溢れ出る血液。徐々に力なく上を向き出す視線。だらりと下がる残された右腕。突拍子もないその行動を見て、かつての部下たちは言葉を失った。その中で、焦燥を表情に浮かべたメルスレムだけは声を上げる。
「何を呆けているの!? 早く彼女を封印しなさい!」
その言葉に一番早くミトログラフに駆け寄ったバックガムが彼女に向けて両手を翳すと、その掌には光が集まり始めた。だが、その腕が何かに掴まれる。
それは、失ったはずのミトログラフの左手だった。
「──傾け」
異変に気付いたアスタリアがバックガムの両腕を切り落とす。すると、落とされた両腕は限界まで膨らんだ水風船に針を刺すが如く弾け飛ぶ。痛みに悶えるバックガム。だが、彼の持ち前の自己修復能力であれば、時間がかかってはしまうが、再生は可能だろう。
「(自ら命を絶って、世界に自身の左腕を強制的に修復させた……!)」
「ナルヴィア……」
虚ろな目をしたミトログラフが掲げる剣が光を纏い始める。
「(だけど、不適合者である彼女には反動がある。そして、その反動によって彼女の中で確実に何かの箍が外れた……! こんな場所でその攻撃をするのはあなたにも生き埋めになるリスクがあるでしょう!? そんなことも考えられなくなっているというの!?)」
逃げる間もなく、暗がりの第二階層全体が光に包まれた。
迸るは赤。包み込むは黒。ちりと頭の奥の方で何かが痛むがその正体はわからない。不快だからその度に自ら命を絶つ。すると、身も心も段々と軽くなり、いつしかその痛みも消え失せた。
ああ、ナルヴィア以外を考えなくて良いのはこんなにも楽なのか。こんなことなら、もっと早く他の全てを捨て去ればよかった。
彼女に馬乗りにされている桃色の髪をした天使はポロポロと涙を零しながら、懇願してくる。
「ミトロ、グラフ様……。お願い。もう自分を、傷つけないで……」
どすと容赦なくその胸に深く剣が突き刺され、崩壊しかけのその場所に笑い声が反響する。剣の抜き差しが繰り返され、その度に動かなくなった体からびちゃばちゃと周囲に細かな肉片が飛び散っていく。
「狂ってる……」
聞こえてきた方へ目線だけを向けると、血塗れた地面に伏せている緑髪の天使が怯えを孕んだ目でこちらを見つめていた。
赤に染まった自分の口端が吊り上がっていくのを感じる。
「そこまでだ」
その声より少し遅れて聞こえてきた破裂音とともに脳天を何かが突き抜ける。どうせ死なないなら、避ける意味すらもないだろう。
弾を発砲してきたのは、黒髪で眼鏡をかけた理知的な男だった。
「お兄様……」
「よく耐えたね、メルスレム」
「私はお兄様のお力になれたのでしょうか……?」
「ああ。十分に君は君の役割を果たしてくれたよ。だから、ゆっくりお休み」
メルスレムに向けられた言葉は確かに彼女を労う優しい声色で発せられていたが、その瞳の奥には隠しきれない冷徹が顔を覗かせていた。
それを感じ取り、彼女は思わず口をついてしまいそうになった言葉を必死で喉奥に貼り付けたままにする。後には無意識に紡ごうとした唇だけが震えながら微かに上下して。
役割。それは「妹」として、という意味は含まれていないとすぐにわかった。
腹違いの妹である私は最期まであなたの妹にはなることができなかった。あなたと同胞の妹だけがあなたにとっては妹だった。わかっていた。大丈夫。だって、愛することに愛されることは必要じゃないもの。
あなたに振り向いてほしくて、あなたに私を見てほしくて。私は今まであなたに尽くしてきたけれど、あなたが私と本当の意味で向き合ってくれたことなど一度たりともなかった。それはきっと私の顔を見ると、憎いお父様のことを思い出してしまうからでしょう?
主神たる私たちのお父様は多くの子を成したけど、それゆえに一柱くらいは構わないとあなたの最愛の妹を実験材料にしたのだもの。正妻の第一子である私のことを嫌うのは当然のこと。だから、私の「好き」は言えないまま口の中に残り続け、やがて苦くなってしまったから飲み込んでしまう他になかった。ただ、行動であなたへの忠誠を示すことくらいしかできなかった。
ミトログラフ。私はあなたたち姉妹が羨ましかったの。憎かったの。本当の姉妹ではないあなたたちがどうしてそこまでお互いを思うことができるの? どうして離れていても繋がっていることができるの?
羨ましい。羨ましい。他の全てを捨ててでも、自分のことを思ってもらえるなんてナルヴィアはなんて幸せなのでしょう。ずるい。ずるいずるい。ずるいずるいずるい。なんてそんなことを思ったところで、今更何ができるわけでもない。でも、
──少しくらいは悲しんでほしかったな。




