9話
「ナルヴィア、起きて」
「ぅ……ん……?」
私の肩が誰かに軽く叩かれる。徐ろにまぶたを開けると、辺りの眩い光に思わず目を細めてしまう。
まず、目に入ったのは雲一つない青空。そして、こちらを見下ろすアルマフィア。声を漏らしながらも上半身を起こすと、周囲の光景に目を奪われた。こちらに手を振るように風に揺れている一面の花々。ここはどれだけの広さがあるのだろうか。目に映る木々や建物は全く存在せず、ただ果てのない花畑が地上に敷かれているばかりだ。
覚醒しつつある意識へ、次には水のせせらぐ音が流れ込んでくる。音のする方向へ目を向けると、確かな小川が花々の間をすり抜けるようにして続いている。幅は私が跨げる程度ではあるが、こちらもやはり見えぬ果てまで伸びている。
「ここは……?」
「地獄の底だよ」
ここが地獄? そんなわけがない。だってもっと陰惨で、暗澹とした場所じゃないの? 罪を戒める象徴がこんな場所のはずがあるわけない。
「というか、何で私がこんなところに来ているのよ!?」
アルマフィアはすいと顔を近づけてきた。彼女の瞳に映る私が私を見つめる。
「地獄の神があなたの目を通して世界を監視しているんだ」
「どういう意味よ……」
「つまり、あなたは地獄の神との回路が繋がっている。だから、その回路を逆に利用することでこうして私は地獄に行くことができた」
「……わからない」
「安心して。共有しているのは視覚のみで、あなた自身に何の影響はないから」
「わからない、わからない、わからない! あなたの言っていることは何一つわからない!! あなたは何なの!? 何で私と顔がそっくりなの!? どうして私をここに連れてきたの!? 何がしたいの!? 私をどうしたいの!?」
「……そうだね。少しお話しよっか」
そう言うとアルマフィアは花畑に腰を下ろす。とてもじゃないが、今の私は座る気になれなかった。だって、そうだろう。半ば無理矢理にみんなを殺せる力を与えてきたり、かと思えばこんなところに連れてきたり。一体何だと言うんだ。
どこか遠くを見ながらそよぐ風に気持ちよさそうに目を細める彼女は私の疑問への回答を始める。
「まずは私とあなたの顔が似ていることについてだね。全ての天使は全くの無から発生するのではなく、複数の神の要素をランダムに組み合わせて発生するんだ。その中で、たまたまあなたは私の要素が色濃く発現しちゃったみたいだね」
血の繋がりといったものがないのに、私とお姉様の顔が似ていたのはそういった理由だったのか。なのに、どうして2人の能力にこれほどの差がついてしまったのか。沸々と私の中で何かが込み上げてくる。
「あなたがいなければ……」
「ん?」
「あなたがいなければ、私はお姉様と比べられることはなかった! お姉様に迷惑をかけることはなかった!」
わかっている。わかっているんだ。目の前の彼女にこんなことを言っても意味がないことは。似ていたことで幸せもあったことは。この耳飾りをもらえたことは。それでも。それでも喉をせり上がる恨みの言葉は、もはや自分の意思で止めることはできないまま溢れ出す。
「自分にもお姉様と同じ才能があるかもって、希望を抱くことはなかった! 足手まといの私がオルウェクローレルに入隊することはなかった! みんなと一緒にいられる実力があるんだと思い上がることはなかった! 私を庇ってみんなが死ぬことはなかった! 何なのよ! あなたは一体何のために存在しているのよ!? どれほど私を苦しめれば気が済むの!? 力を与えてくれたと思ったら、それは仲間も敵も殺せるほどの力で! あなたのせいだ! 全部あなたのせいだ! あなたが存在しているせいで、私が不幸になる!」
違う。彼女は私の祈りに応えて、力をくれた。むしろ、感謝をするべきはずだろう。使い方を間違えたのは私自身。全ては私の弱い心のせいだ。弱い心が迷いを生じさせて、敵を敵だと認識できなくさせた。弱い心が己の恐怖の象徴をあの場面で想起させた。
思いを吐き出しているうちに、やけに冷静な頭は情報を整理しだして、いかに自分が愚かであったかを突きつけてきて。自分のことが本当に嫌になる。それなのに、この期に及んで私は誰かに責任を押し付けて、この背に負うものを軽くしようとしている。その卑怯さ。その見苦しさ。
「結局私は、みんなの役に立てていない……。こんな私の気持ちが、あなたにわかる……?」
わかっている。全ては私のせいなんだ。この手の大きさから目を逸らし、身の程を弁えなかった私の。憧れて、あの人に憧れて。大好きで。ただ、大好きで。振り返ることを。顧みることをしなかった私の。
それら全てを彼女は笑顔のまま受け止めてから、こう答えた。
「わからないよ。今の私には心がないから。でも、自分の弱い心で苦しんでいるのはわかる。私もそうだったから。だから、弱いこの心をこうして燃やし続けているんだ」
心が、ない……?
「憎みたければ好きなだけ憎めばいいよ。私は世界の敵だから。憎まれるのは当然のことだもの」
世界の敵。またそれか。でも、改めて彼女を見てみると、その言葉はどうやらこちらに向けているわけではなさそうな気がした。それはまるで、忘れないように自分に言い聞かせているようで。それはまるで、自分一人で全てを背負い込もうとしているようで。見ていて少し痛々しくて、放っておけないような何かを感じた。
「私が地獄に来た目的は地獄にあるアストラーデの心を手に入れることなんだ」
「手に入れてどうするのよ」
「もちろん、アストラーデに返す。だから、この地獄に入るときと出るときに地獄の神との回路が繋がっているあなたの存在が必要だったの」
「返したら、どうなるの」
「きっとこんな冷たい祈りで回っている世界のことなんて心優しい彼女は望んでいないはずだから。そんなことをするくらいなら、きっと彼女も私と同じように世界の終わりを望むはずだから」
アストラーデが自分の心を取り戻せば、世界の終わりを望む? ということは、必然的に世界を終わらせる光輪の発生も拒まないということ。祈りを発生させないあの光輪。彼女が使う冷たい祈りという表現。冷たい祈りとは何だ。天使たちの祈りが冷たい祈りというのなら、人間たちの祈りと何が違う。
その真意をはかりかねて、私は彼女を見つめる。が、やはりどうにも嘘をついているようには見えない。
改めて周囲を見渡す。途中なだらかな丘になっている部分はあるものの、地平の向こうまでやはり目につくものはない。一見すると素晴らしい花園ではあるが、無機質な穏やかさとでも言えばいいのだろうか。ただ、そのためだけにデザインされたかのようなこの場所はどうしても好きになることができず、あまり長居したいとは思えなかった。
「それで、その心はどこにあるの」
「きっと、第三階層にあるんだと思う。だから、私たちは飛んでいかないと行けないね」
「ここが地獄の底だから? でもどうして私たちは底にいるのよ」
彼女の言う通り、ここが地獄というのならなんとも奇妙な話だ。どうして地上から真っ先に来れる場所が地獄の底なのだろうか。
「この世界は3つの世界で構成されている。上から順に、天界、地上、地獄。地上は人間界とも呼ばれるね。世界の真ん中を一本の線だと考えてみて。その線の上が地上で、その線の下が地獄。天界は地上の上に存在する。そして、3つの世界の重力はその一本の線に向かっていると考えたらわかりやすいかな。つまり、その線から下向きに生えている地獄は、地上側に重力が向かっているんだ。だから、その線を逆さまにひっくり返してみると地獄の底は地上と一番近い。だから、地獄の底は地獄の入口なんだ。さらに、地獄は3つの階層に分かれていて、この花畑が第一の階層だ。ということは、この青空の先には第二階層と第三階層という計2つの階層が広がっているというわけなんだけど、理解してもらえたかな?」
「うん……なんとなくは……」
言葉だけだとうまく想像しにくい。紙にでも書いてみればわかりやすいんだろうけど、あいにくと今は持ち合わせていない。
「第三階層に行くためにはこの空の上に行かなければならない。地上側から見たら、先に行くにはこの空を落ちていく必要があるんだ」
いまいち実感が湧かない私をよそにアルマフィアは空の一点を見つめていた。
「どうやらあなたにお客さんみたいだよ」
彼女の視線を追うと、空からは一人の男と
「────お姉様?」




