祈りを込めて。
和やかな夕食が終わり、夜の帳が下りる。
(今日もまた、フィルとは何もないままなのかしら……)
ふと、そう思ったアニスは小さく頭を振った。
結婚した日に、あれだけはっきりと言われたではないか。
「妻の役割を求める事はない」と。
アニスの予想は、思っていたのとは違う形で的中した。
夜半過ぎに騎士団から早馬が送られ、「至急戻られたし」の知らせを持ってきたのだ。
フィリックスは新しい軍服に着替え、慌ただしく支度を整えた。
見送りに出たアニスに、フィリックスは優しく笑ってみせた。
「寝てしまっても、かまわなかったのに」
「いいえ」
アニスは祈るように胸の前で手を組んだ。
これからまた危険な場所へと赴く事になるであろうフィリックスを思うと、とても眠る事など出来そうにもなかった。
「フィル、どうかご無事で」
「うん、行ってきます」
足早に夜の闇の中へと消えてゆくフィリックスの背中を見送る。
(ああ、どうか無事に帰ってきますように……)
万が一の事を思うと胸の奥が苦しくなり、うまく息が出来なくなる。
フィリックスの、笑うと出来る目元のしわが2度と見る事が叶わぬとしたら。
(いいえ、駄目よ。悪い事ばかり考えていては駄目)
何か、少しでも自分に出来る事をしなくては。
アニスは部屋に戻ると、カテドラル家から大事に持ってきた泉の回りに妖精が集う絵が描かれた箱の蓋を開けた。
中に入っているのは美しい絹と、色とりどりの刺繍糸だ。
アニスは一心不乱に刺し続けた。
どうか、どうか無事でありますように。
こんな事をフィリックスは望んではいないかもしれない。
けれど、何かをせずにはいられなかった。
部屋の灯りに気付いたマーサが止めに来るまで、アニスは夢中になって刺し続けていた。
アニスはあくる日も刺繍を続けた。
没頭するアニスを心配しながらも、マーサ達は強く止めるような事はしなかった。
睡眠と食事だけは取るように、とまるで子供に対するような注意をしただけである。
そして、仕上がったのは黒獅子の回りを若草が縁取った刺繍を施したハンカチであった。
これならば懐に忍ばせていても邪魔にはならないはずだ。
手に出来た傷を手当する事も出来るし、血を拭う事も出来る。
アニス自身がしてはならなかった事も、この小さな持ち物になら許されるだろう。
「……」
本当は、黒獅子の隣りには百合の模様を刺すつもりだった。
だが、何故かアニスにはどうしても百合を刺す事が出来なかった。
「フィル……」
どうか、また、その笑顔を見せてくれますように。
アニスの願いは、それだけであった。




