春と桜と蕾と歌と
春というものはおれにとって、敗北の季節だった。
そう、あれは中学一年生の四月。
小学生の頃からずっと好きだったあの子に告白したときのことだった。
部活動も終わって、学校は下校ムード。18時も半分を回って、すっかり夕暮れ時だった。
吹奏楽部の彼女は、どこか疲れた様子で校舎の階段を下ってくるところ、下駄箱で直立していたおれを不思議に思ったのだろう。
「あ……壱弥。どしたの?」
有働 壱弥。みんながおれを最初に「いち」と呼ぶようになったのは、彼女がきっかけでもあった。
『私のなかで一番優しい男子は壱弥だよ? 一番の壱弥……決めた! いちって呼ぶことにする!』
懐かしいいつの日かの、彼女の甘い声音が心の底に響いた。
無言で彼女の手を引っ張っておれは校舎裏へ向かった。
彼女の流麗な栗色の髪が、はらりとなびいた。
少し戸惑う彼女、ちらりと横目でその綺麗な横顔を覗くと、シミ一つない白磁の肌を夕陽のせいか少し赤くしている気がした。
彼女の小さな手、壊れてしまいそうなほどに儚くしかし不思議なことに確かな熱を感じる。
まだ異性として意識していなかった小学生の頃に握った手と変わらない。
あの頃よりはすっかり男っぽくなったおれの手が、彼女の女っぽくなった小さな手を引っ張った。
お互いに大人になったとばかり思っていたが。
おれに引かれながらも、確かに感じるどこか気丈な握力は、本当は弱いのに、心配させてたまるものかと強がる彼女そのものだった。
そして。
「上水流 蕾香。……いや、蕾香。好きだ。ずっと、前から」
バクバクと脈動する心臓の音。
二人の間を流れる静かな時間。
二人っきりの校舎裏。
青春が息をしているようなこの空間を、おれは片時も忘れることはないだろう。
きっと、人生で最初で最後の告白。
息を呑んで、しかし背筋は真っ直ぐ。
曲がることのないこの想い。
「わたし……」
……ところで。
春という季節はどうやら人を変にするらしい。
暖かな薫風と、穏やかな日差しが交感神経に影響を与えるのだとか。
そういう時節の不運もあったのかもしれない。
ともかくもおれの人生の最初で最後の告白は。
「きゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!?!?」
「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!?!?!」
校舎裏のフェンス、手をかけてこちらを覗く全裸の変質者に阻まれたのだった。
× × ×
それからというものの。おれは人に思いを伝えたり本音を打ち明けたりすることがすっかりトラウマになってしまっていた。
ずっと好きだった彼女も、微妙な距離感で過ごした後、夏には引っ越していってしまった。
実家の会社が倒産したとかなんだとか、とにかく急だったなんて話を後から聞いた。
不運なことにおれはその時、自転車事故により骨折。入院を余儀なくして、とうとう彼女と最後に別れを告げることもできずに、中途半端に意識して過ごしたあの悶々とした時期を思い出しては頭を抱える日々が続いた。
心にぽっかり穴が開いたようにちんまりと、勉強をしたりしなかったりゲームをしまくったり飽きたりして、気が付けば16歳。
地元の特徴もない、公立高校へ進学した。
おれは、今でもあの告白の日のことを思い出しては想うのだ。
もし、あのとき変質者が出ていなければ。
おれの青春は変わっていたのかもしれない、なんて。
とりとめもない思いを胸に、おれは敗北の象徴、春を知らせる桜の木の下。
どうでもよい公立高校の校門をくぐった。
何かが始まっているようで、何も始まっていない。
敷かれたレールの上を、他人の目を気にしながらただ歩く。
高校生活とは、そういうものだと思う。
何人かと当たり障りのないことを話して、クラスのLINEグループに入れてもらって。
それで終わり。
おれは、結局。心の中に踏み入られるのが怖いんだ。
あの日からずっとそう。
本音を打ち明けずして朋友なんてできまい。
知り合いはいても友はいない。きっとできないしつくるつもりもない。
さっそく下校時刻に差し掛かった瞬間に、歓談にいそしむクラスメイトを後に、鞄をひっつかんで学校の探索を始めた。
どこか心の平穏を得られる場所はないだろうか。
その一心で歩き回って見つけた場所。
今はもう使われていない旧校舎の隣、寂れた部室棟におれの居場所はあった。
殺風景に端に並ぶ椅子。埃のかぶったグランドピアノ。
黒板には五線譜。
壁には日焼けしてボロボロになった『吹奏楽部』と書いたOBたちの寄せ書きが張り付いている。
旧音楽室なのだろう。
そういえばあいつも吹奏楽部だったな。
なんてことをなんとなく思いながら、彼女の面影を追ってその部屋に入った。
今はもう使われていないその部屋は、部室棟の中で不用心にも施錠されていなかった。
というのも、誰かが使った形跡がある。
うらぶれたこの部屋の一角。
窓際の端っこの部分に、机と椅子がワンセットだけ置かれていた。
ゆっくりと腰掛ける。
日光に反射して埃の舞うその部室、ポツンと佇むその光景は。
これまでのおれの生活をとりまく孤独に似ていた。
そうだ、誰とも分かり合えなかったわけじゃない。
おれ自身が誰とも分かり合おうとしなかったんだ。
いつからそうなったのか。
そうだ。あの告白の日だ。
いつの日か、歌ったアニソンを口ずさむ。
めんどくさいことなんて何一つ考える必要がなかった、ただ好きな人が隣にいる。
そんな日々。
はじまる日も終わる日も。
共に歌った。
彼女もきっとそうだった。
蕾香は歌が上手かった。下校中、二人だけの帰り道。
よくアニソンを口ずさんで聞かせてくれた。
懐かしく、虚しい。
夢の跡のようなその歌を。
一人孤独に口ずさむ。
不思議と、そんな孤独な歌に。
一つ甘い声音が混ざった。
いつの日か。
もう聞くことはないだろうと。
そう勝手に思い続けていた。
愛しくて、切ない響き。
「……?」
灰色だった。くすんでいた。気を晴らすために手を出した、タバコの吸い殻たちのように。
ずっと、色なんてなかった。
熱くて苦くて、燃え尽きてくすんだ。
灰色の日々。
白黒の絵の具で塗りつぶそうとしていた思い出。
そんな自暴自棄になったおれの手を、彼女は優しく諫める。
「……久しぶり。って、言っても覚えてるかな」
あははっと少し恥ずかしそうに笑った。
教室の角、窓際の日陰に座るおれの目の前。
春の日差しに照らされた。
「らい……か……?」
上水流 蕾香がそこにいた。
気が付けば、色めきだったように世界は綺麗なままだった。
あの頃のまま、この世界は。
少し大人になった彼女という一凛の花を携えて、心震わす絵画のように色づいていた。
「えっとね……あの時の返事、まだしてないでしょ?」
「……お前も、覚えてたのか?」
「……忘れるわけないでしょ? だって、壱弥があんなに真っすぐな顔してるの見たの初めてだったもん」
「えっと、それで。返事って」
「ああ、それでね――――――――――――」
どこからか、燕のつがいが飛び去った。
彼らのおかげか窓の外、少し空いたその隙間から桜の花びらが舞い込んだ。
それはもう、綺麗で綺麗で。
愛おしい響きをもって、笑っていた。
そうか、そういうことか。
春というものはおれにとって、敗北の季節なんかじゃなかったんだ。
例えるなら春はそう、敗北そうなおれを奮い立たせる蕾のような――――――――――――――――――――――――――そんな季節に違いない。