リボンも剣も似合わない
「姫様ーご無事ですかー!」
「問題ないわ。これで最後の一体だから悪いけど後はお願いするね」
細身の長剣にこびりついた血を払いながら部下の声に答える。みっともなく上がる息をごまかすように頬に飛んだ血を袖でぬぐえば、思ったよりも量が多くべったりと塗り広げるような形になってしまった。このまま帰ればまた侍女に小言をくらうだろう。想像するとさらに疲労が増し、小さく息を吐いた。
どこからどう見ても「姫様」でないのだから、そろそろ皆諦めてくれたらいいのに。この春17歳を迎え貴族令嬢としては結婚適齢期真っ只中だが、行き遅れと扱ってもらえるまではあとどれくらいか。
ここローヴェルム領は王国内で唯一魔の森と接している。無差別な悪意で以て人間や家畜を襲う魔獣は魔の森の奥深く、瘴気の沼から生まれる。ローヴェルム領は豊かで広大で厳しい、この国の守りの要である。
私はそこの領主の娘、エセル・ローヴェルム。だから「姫様」だ。
例え、毎日魔獣の血に塗れているような女でも。
魔力切れからくる脱力感を叱咤するように軽く頭を振る。腰まである髪はきつくシニヨンに編まれ、戦闘の後でも一分の乱れもない。長く美しい髪は美人の条件だが、前髪とサイドを残しきっちりとひっつめたそれは正面から見れば少年のようで、令嬢の武器としては何ら役割を果たしていなかった。
以前一度短く切ってしまおうかとこぼしたら兄に悲しい顔をされてしまったために今もこうして伸ばしているが、そもそも縁談など来た試しがないのだから全く無駄な話である。
「詰所で水かぶって帰ろ……」
頬に張りつく髪の不快感に一人ごちる。華やかな金髪碧眼の母に似ず藍色の髪に琥珀色の瞳の私は取り立てて美しい容姿ではない。父も兄も同じ色合いだが、質実剛健を絵に描いたようなたくましい軍人である彼らにはよく似合っていて精悍な印象をより強めるようだ。羨ましい。
そもそも辺境伯として独立した軍を持つローヴェルムが更なる力を求めては王家への叛意を疑われる恐れがあるため、私は有力な貴族に嫁ぐ必要がない。大人しくしていても役に立たないのだ。
両親は「だからお前は好いた相手と一緒になってくれればいい」と言う。「お前の幸せを願っている」と。
しかし、愚かな私は剣を取った。際限なく湧いてくる魔獣の被害を知りながら館にこもるお姫様ではいられなかった。
貴族の娘としての自分に見切りをつけ自らこの生き方を選んだが、魔獣と対峙するたびに女の身からくる力の無さが厭わしい。どこもかしこも矛盾だらけで何者にもなれない。
それでもこんな私を「姫様」と呼び慕ってくれる善良な領民達がいる。ぐるぐると暗い渦を描く心の中でずっと、それだけが私の光だった。
「エセル嬢、見事でした」
「また来られたのですか……」
背後から近付く足音に振り返ると銀髪の美丈夫が黒いローブを翻し優雅に近付いてくるところだった。
「滞在中はあなたの戦う様をすべて見たいと思っていますので」
「こんなところにお連れしたと知れたら私が家族に叱られます」
軍服姿の自分とは違い優美な衣装を纏う彼がそこらじゅうに散らばる魔獣の残骸や血溜まりにも躊躇せずずんずんと歩いてくる姿に自然と眉間にしわが寄る。そんな忠告を聞いてくれる相手でないことはとうにわかっているが。
「ローヴェルム卿とは何度も戦場でご一緒していますから大丈夫ですよ」
何が大丈夫なものか。血溜まりを踏みしめる彼のブーツは赤黒く汚れ、そこかしこに飛沫が飛んでいる。
魔獣の死骸から魔術師が好む素材が採れることは知っているが、いくら何でも死にたてほやほやのところに乗り込んでくる必要はないだろう。
思わず半目になる私をよそに場の雰囲気におおよそ不似合いな出で立ちの彼がこちらに向かってさらに距離を詰めてきた。
「申し訳ありませんがご覧の通り私自身も汚れておりますのであまり近付かれませんよう」
「どうして。今だってあなたはこんなに美しい」
「はぁ……私は所謂"ご令嬢"ではありませんので、そういったお気遣いは無用です。私のような者にそんなことを仰るのはマクニール様だけです」
「それは良いことを聞きました」
にっこりと感情の読めない笑顔を浮かべるこの男は繊細な見た目に反して押しが強い。
オーガスタス・マクニール、数日前から領主館に滞在している客人だ。魔獣によほど興味があるらしく、ここ一年ほど頻繁にローヴェルム領を訪れている。
長めの銀髪に薄紫色の瞳の涼やかな美系で自分より10歳ほど年上ではあるが、まだ20代にも関わらず黒いローブの襟元には王宮魔術師であることを示す紫の隊章が輝いている。
王都で軍の要職を務める父の知り合いで、次期魔術師団長とも噂される若手の有望株らしい。
探るまでもなく全身から立ち上る膨大な魔力は自分のような凡人には全く羨ましい限りだ。美しい容姿も相まって見れば見るほど遠い世界のお人だと感じる。
「エセル嬢、私のところに来ませんか?」
「ご存知でしょう。私に魔術の才はありません」
こちらの制止に構わず踏み込んでくる男に対し、一歩後ずさりながら答える。
「相変わらずつれないな。これでも一生懸命口説いているつもりなんですが」
「ご冗談を。私の戦い方を見れば百年の恋も冷めると皆に言われています」
顔だけで苦笑するつもりがフッと自嘲する声が漏れてしまった。私のささやかな魔力で魔術師になどなれるはずがない。
「詰所に戻りますので申し訳ありませんがこれで」
答えを待たずに踵を返す。
どこを切り取っても平凡な私はこの才能あふれる美しい男が苦手だった。
戦場における魔術師とは騎士たちに守られながら強力で大規模な殲滅を行う存在である。
この世界の人間は多かれ少なかれ皆魔力を持っている。水を汲む、火をおこすなどの生活に必要な魔法は子どものうちに親から教えられるものだ。ほんの少しの魔力を提供することで空気中に漂う精霊たちの力を借り発現するそれは詠唱も魔法陣も必要としない。生活魔法は大多数の人間が生涯に触れる唯一の魔法だ。もちろん並に毛が生えた程度の魔力しか持たない私も。
それに対し、人並外れた魔力量を持つ魔術師が己の魔力のみを源に行使する魔法が「魔術」である。
体内に漂う魔力を正確に紡いだ呪文にのせて体の外へと排出し、魔法陣に流し込むことによって形を与え、術を展開する。
術を練る間、魔術師は非常に無防備だ。そのため戦場では数人の騎士が護衛につくことになっている。
だからこそ、貴重な人手を割いてでも使う価値がある力でなければならない。戦況をひっくり返す一手、それが魔術だ。
現在の魔術師団長は"災害級の魔術師"だという。
ならば次期師団長と目される彼もきっと凄まじい力の持ち主なのだろう。
「……私にも魔術が使えたら、」
ふらつく足を叱咤してたどり着いた騎士の詰所で水を被りながら、また無い物ねだりがこぼれ落ちた。
◇
「今日は休みなのですね」
「ええ。大型の魔獣が出たので父に助力を頼んでいるのです。きっと数日中に帰って来てくださるでしょう」
翌日領主館のサロンで顔を合わせた彼は髪を下ろし淡い色のワンピースを着た私を物珍しそうに眺めた。
一般的なご令嬢なら優雅な昼下がりには刺繍のひとつでもするところだろうが、生憎私の手元には軍服と針が握られている。侍女に頼んでもいいが、破れた軍服を見られるとひどく心配されてしまうので出来る限り自分で繕っている。
「一騎当千のあなたでも手に負えないような相手なのですか?」
「買い被りすぎです。確かに私が倒した魔獣の数は多いかもしれませんが、どれも中型まで。元々、私では力不足なのです」
「あなたは強い。ここの司令官ではないですか」
「いいえ、責任者は父です。ローヴェルムの人間だから代理のような扱いになっているだけで、私は父に敵の存在を知らせる先駆けのようなもの。ただの露払いですわ」
暗い雰囲気にならないよう笑顔を作ったつもりだったが、不安がる領民への申し訳なさと、多忙な父を煩わせることへの心苦しさが声色に出てしまった。不甲斐ない自分を見られたくなくて目を伏せる。
今魔の森周辺は騎士の巡回を増やし立入禁止としている。
私にもっと力があればすぐにでも問題の魔獣を討伐しただろう。それが可能であったならば。
「エセル嬢、あなたは強い」
俯き、強く唇を噛んだところで今までになく真剣な声音が降ってきた。
ゆっくりと顔を上げるとこちらをまっすぐに見つめる薄紫色の瞳と視線がぶつかる。劣等感や自己嫌悪の渦巻く私の醜い心の内を見透かすような澄んだ色だった。
「私はこの一年ずっとあなたを見てきました。確かにローヴェルム卿は強い。人間離れした強さだ。
しかし、この地を魔獣から守っているのはあなただ。年に数回出現する大物を狩るローヴェルム卿よりも、年中領内を走り回り誰より多くの魔獣を屠るあなたなのだ。それは卿もよくわかっていらっしゃる。誰よりもあなたを信頼しておられる」
「マクニール様……」
「そもそもローヴェルムの騎士は王国一の強さだ。魔獣を相手にする君達は些か実践的すぎるかもしれないが、戦場では騎士道など何の役にも立たないからね。君のお父上や兄上を除くと君に勝てる騎士など王都には片手ほどだろう。
それに何より、私は君の戦いが好きだよ」
想像もしなかったセリフに言葉もなく目を見開く。
私は弱い。強固な皮膚に包まれた魔獣を一刀に切り伏せる腕力はなく、剣一本で乱戦を切り抜けるような技量もない。魔術を使えるほどの魔力もない。
それでも皆の前に立つには、手段など選んでいられなかった。
体術と剣と生活魔法を組み合わせた私の戦い方は野蛮だ。魔獣の大きく裂けた口の中から脳を目掛けて剣を突き刺す。細く尖らせた氷を矢のように飛ばして目を潰す。突き刺した剣の先で火を起こし内腑を焼く。鉄板を入れた靴底で魔獣の牙や爪を受けたり、防具をつけた肘で吹っ飛ばすなど日常茶飯事だ。とにかく足を潰し、急所を狙う。
なりふり構わぬそれは共に戦う騎士たちにさえ苦笑されるようなものだ。
「私はローヴェルム卿が『俺の娘は頭が良く控えめな美人で剣も魔法も一級品だ。並の男には渡せん。』と自慢するあなたに興味を惹かれてここに来ました。そして戦うあなたを見て、ひと目で心臓を奪われてしまった。
人間の魔力を対価としているだけで生活魔法は精霊の行い。その魔力だってこちらが渡すというよりは精霊が攫っていくものだ。そんなものを制御できるなどと思う人間はそういません。
しかし、恐らくあなたは自分の魔力量を正確に把握していて、『どれだけの魔力を提供するか』を自身で決めている。
もしかするとあなたの魂に魅入られた精霊が力を貸しているのかもしれませんが、どちらにしろ全くでたらめなことですよ」
「そんな大したものでは……私はこれしか使えないから、色々試して。ただそれだけで」
「あなたは強く、美しい。でももしもここにいることで苦しい思いをするのなら、私のところに来ませんか。
あなたのその恐ろしく精緻な魔力制御の裏にある研鑽に気付かないような愚かな人間は魔術師団にはいない」
美しく笑いながら、彼はさらに続ける。肩にかかる銀の髪が午後の陽射しを反射してきらきらと輝いている。あまりに予想外な言葉に身動きもできないまま、ただそれをじっと見つめていた。
彼が今まで何度も口にした誘いは、まさか冗談ではなかったのか。
「……しかし、そうは言ってもあなたはローヴェルムで戦うのでしょうね」
「はい。すみません」
「じゃあやはり私がここに来るしかないかな。うちは伯爵家ですが三男なので身軽な身の上です。婿入りも吝かではありません」
「……はい?」
「ふふ、驚いた顔は年相応でかわいいですね。実は今の私はローヴェルム卿に君への求婚の許しを得てここに通っているんです。卿と戦って一本取ることが条件だったけど、私は魔術師だから。街ごと崩落させるとか、手段を選ばなければ可能だと伝えたら快く許可していただけたよ」
それは脅しではないかとか、求婚とはどういうことだとか、全く話についていけない私を置き去りにして、彼は相変わらず柔らかく笑っていた。あのね、と機嫌よく続ける。
「魔術師の使う魔術は『魔術のための魔術』なんだ。魔術に取り憑かれた我々にとって戦場は実験の場でしかない。
でも君は違う。君の魔法は戦うために、守るために、ただひたすらに研ぎ澄ませた美しい刃。君の覚悟、君の祈り。
壁一枚展開すれば返り血など一つも浴びずに済むというのに、限られた魔力量の全てを剣に注ぎ込む高潔で不器用な君が愛おしいよ。
どんな恐ろしい敵の前でも君はひとりで立つだろう。だけど、私は君の心を守りたいんだ」
いつの間にか立ち上がっていた彼が私の目の前に跪く。
さっと膝に置いていた手を取られ、甲に口づけられた。
「エセル・ローヴェルム嬢、結婚してください。どうか私に君を守らせてほしい」
「……あ、の…ちょっと、待ってください。頭が混乱してて、」
「返事は今すぐでなくて構いません。すでに両家の了承は取っているので、後は君の心を得られるよう努力するつもりです。転移陣も完成しましたし、これから休みはすべてローヴェルムで過ごすつもりですから、よろしくお願いしますね」
彼は美しく笑いながら、また恐ろしいセリフを吐いた。
縁談が来ない理由は「俺の娘は世界一!」な父と、心無いことを言われて傷つくぐらいなら社交などしなくていいと思ってる兄